第22話 決着
ハルは、あの男が屋上から落下しそうになっているのに気付き、目を見張った。彼の黒い弓に
まだ名前も聞いていないのに。
無意識の内に、ハルは彼を追って走り出していた。
「他の生き方とは、何だ? 私をこんな姿にしておいて、勝手に逝くな!」
青い空と桜の花びら。
澄んだ空気と子供たちの笑い声。
男の記憶の中の風景をハルは知らなかった。
ハルが生まれた頃には、この世界は既に悪魔に侵略され、平和ではなくなっていたからだ。
戦わなくても生きていける世界。
そんな世界があるのなら。
「私にそれを、教えろ!」
屋上のフェンスを乗り越え、虚空へダイブする。
落下していく男に手を伸ばした。
不意に背中が熱くなり、全身が羽毛のように軽くなる。
背中から生えた何かがハルの意思に従って、落下速度と方向を自在に変更する。本能でそれを操って、ハルは男の腕を掴んだ。
男が驚愕した表情になる。
何を驚いているのだろう。
悪魔から生まれた翼なのに……彼女はまるで天使のように見えた。
俺は、白い
鳥の羽毛はさかのぼれば爬虫類の鱗らしいが、夕暮れの空に広がった翼は柔らかい白い
今、空は夕陽が射し込むアメジスト・ヴァイオレットの色。
背中に翼を背負った少女は、宵の明星のように夕空に輝いている。
「ハル……お前」
「あのカエル、着地する気か?!」
ハルの口から「カエル」という幻想的な空気を壊すような言葉が飛び出し、俺は現実に立ち返った。
ラージフロッグの長い舌は既に俺から離れている。
俺たちはクラウドタワーの側面を緩やかに落下中だった。
見下ろすと、先に落下したラージフロッグは、地面に向かって黒いモヤを吐き出している。落下速度を殺し、地面に軟着陸しようとしているのだ。
「させるかよ……!」
あれが地上の人々を襲い始めたら、これまでの苦労が水の泡だ。
俺は、黒麒麟の弓に光の矢をつがえラージフロッグに照準を定める。
弓を構える前に、耳元の
ここからは人間としての戦いじゃない。
俺とハルの狩りの時間だ。
「ハル、あの悪魔は俺が喰う。邪魔すんなよ」
ここで一気に勝負を決めよう。
溜めが必要な大技で、ラージフロッグを仕留める。クラウドタワーの周囲は公園になっているし、見たところ人はいないから、ちょっとくらい地面に穴が空いても平気だろう。
弓の先に螺旋を描いて光の粒子が収束し始める。
ラージフロッグは俺の動きに気付いたように見上げたが、落下中で思うように身動きが取れないようだ。
「腹が減っているのか?」
溜めが終わるのを待つ間、俺はハルの質問に答える。
「ああ。ここ数日、我慢してたんでね。イズモの連中はユニークモンスターの
悪魔としての俺は、人間の命もしくは、中級以上の悪魔の
無傷な
これが、俺が普通の人間に混じって暮らせない最大の理由だ。
「"
背中にハルがしがみついた格好で、俺は必殺技を解き放つ。
赤い光の矢は、翼を広げた不死鳥の姿に変形し、無様にもがく
クラウドタワーの隣に、赤い光の柱が立つ。
「……敵の生体反応、
指令室のモニターを見つめていた職員が、顔を上げて報告する。
あまりに魔法じみた攻撃と威力に、彼らは呆気に取られていた。
中央のモニターに、地上に墜落したラージフロッグの残骸と、地面に空いた大穴が映し出されている。半径十メートル程度のクレーターと、抉れたアスファルト。クラウドタワー一階の硝子の一部は余波を受けて砕けている。
「司令、あの人はいったい……?」
恐る恐る問いかける職員に答えず、夏見は遠い目をして呟く。
「備品損失に、器物損壊。給与から天引きさせてもらうぞ、神崎。
「は、はい」
問題はそこなのか? と指令室にいた職員たちは思ったが、不気味な笑い声をもらす司令に突っ込んではならないと、沈黙を守ることにしたのだった。
俺の手の中に
黒い被膜の中心には赤い光が脈打っている。
俺はハルと共に、
周辺に人がいないことを確認して、手の中の
「ずるい。私も欲しい」
「今回は俺に譲れよ……あ」
口元をじっと見て不服そうにするハル。
「ひとくち!」
いきなり超接近すると、その唇を俺の口元へ……。
こいつ、舌を突っ込みやがった?!
「……っつ」
あまりに予想外の展開に俺は一瞬抵抗を忘れた。
世に言うディープキスという奴だが、ハルが恋愛的な意味でキスしている訳でないのは明らかである。無邪気な言動と、色気の無い舌使いですぐに分かった。こいつも食い意地が張ってるだけだ。
「お、ま、え、はぁーーっ!」
全力でハルを引き剥がすと、口元を押さえて後ずさる。
ハルはというと、どさくさに紛れて俺から奪った
「もう美味しいところが残ってない……」
自分の行動を反省している様子は微塵もなかった。
仕方ない。こいつの生まれ育ち的に、まだ子供なんだろうと想像できる。
今回の
「はあ……ハル。お前、どうするつもりなんだ? これから」
俺は平常心を取り戻すと、
「私は行くところが無い」
「だろうな」
「お前が責任を取れ」
「はい?」
ハルは俺をギッと睨んだ。
「こんな身体にしたのはお前だろう!」
「いや、人間に戻りたいと言ってたから戻しただけで」
「中途半端だ!」
「うっ……」
そうだよな。自分でも良心の呵責を感じていたところを突かれると、痛い。やっぱり完全に人間に戻すところまで面倒みないといけないかな。
これも夏見の策略だろうと分かっているが、不思議と腹は立たなかった。
俺は溜め息を付いて後ろ頭をかきながら、諦めた。
「仕方ない。だけどお前も
「???」
頭の上に疑問符を飛ばす少女の背中を押し、俺は歩き始めた。
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