第17話 ハル
一方、クラウドタワー十階の一室にて。
ベッドに寝かされている白髪の少女は夢を見ていた。
少女は新京都の実験施設で生まれ、悪魔に対抗する兵器として育てられた。そこでは子供は皆、番号で呼ばれていた。
少女の番号は「80」。
番号から「ハル」と呼ばれることもあった。口にした時の響きが良いので、少女も気に入ってハルという名前を名乗っている。
ハルは戦場でイズモの兵士に捕らえられ、クラウドタワーに連れてこられた。
そして、不思議な男と出会った。
悪魔と同じ赤い瞳。
忌まわしい赤は、しかし澄みきっていて静かだった。
男は、ハルと自分は近い存在だと言い、血を飲んでみるかと唆してきた。挑発に乗って血を飲んだハルは、おかしな夢を見た。
どこかの川岸で、白い花が満開に咲く木が並んでいる。
空の色はハルが見たことのない、透明で明るい青色をしていた。
風に乗ってくるりくるりと花びらが散る。
こんな景色をハルは知らない。
灰色の施設と、血に濡れた戦場を行き来するだけだったハルは、青い空も桜吹雪も、見たことがなかった。
とても綺麗で……とても切ない。
男の記憶と心を感じ取ったハルは知っている。
この美しい景色は、今はもうどこにも存在していないのだと。悪魔の侵攻によって人々の生活は失われ、花の咲く並木は枯れて川は濁ってしまった。
これは、男の記憶の中にしか存在しない過去の風景。
過去の幻。
知らない。
私は知らない。
胸を刺すように痛いのに、温かい水に満たされたような、こんな切なくて心が熱くなる想いは。
これは何?
「ここは、どこだ……」
目を覚ましたハルは、目元ににじむ水滴を無意識に手でぬぐった。
涙を流すなんて何年ぶりだろう。
寝起きでぼんやりした頭で周囲を見回す。
ハルが寝かされていたのは、ホテルの客室のような場所だった。
清潔で広い部屋。今まで入ったことのない上等な空間だ。
自分の手を見下ろして、ハルは驚愕する。
悪魔化が進んだせいで、
「えっ……」
慌ててハルは自分の身体のあちこちをペタペタ触って確認した。
手足の肌は柔らかい肌色に戻っている。
腰から生えていた
今のハルの裸身は、いつの間に着替えさせられたのか、白い簡素な肌着とバスローブが被せられている。
思わず胸に手をあてて、ふくらんだ乳房の感触に、ハルはがっかりした。
「ここはそのままか」
下半身についてこれ以上確認する気になれず、溜め息をつく。
どうやら自分は中途半端に人間に戻ったようだ。
「これからどうしよう……」
拘束されていないので、逃げようと思えば逃げられるようだ。
しかし逃げて何処へ行けばいいのだろう。
もともと所属していた組織はハルを処分しようとしていたのだ。
ぼうっと考えこんでいると、建物が地震にあったように大きく揺れた。
天井を見上げる。
「悪魔の気配……?」
上の階から遠く、悪魔の気配がした。
その時、部屋の扉が開いて上品なスーツを着た女性が姿を現した。
「あら、起きたのですか? 頼むから、このややこしい事態で暴れないでよ」
女性は小型のタブレットを操作しながら、困った顔でハルを見る。
ややこしい事態、というのは悪魔の襲撃だろうか。
徐々に意識がはっきりしてくる。
今、自分がやりたいことも、分かった。
「……悪魔を倒す。それが私が生まれた意味だ」
「え?」
「今、この建物を悪魔が襲ってるんだろう」
「そうだけど」
女性は目を白黒させる。
ハルは構わずにベッドから立ち上がった。
バスローブがはだけないように、裾をたくしあげて帯を固く結ぶ。
「ま、まさか悪魔と戦ってくれる気?!」
「そう言っている」
はっきり言って、これから先どうやって生きていけばいいのか、検討がつかない。だからハルは一番分かりやすい道を選んだに過ぎない。
悪魔を倒して喰らう。
今までもやってきたことだ。
「確かに人手は多いに越したことないけど……てっきり悪魔になって暴れだすかと思ってたのに、協力してくれるなんて。助かるけど話がややこしくて、どうすればいいやら」
女性は頭を抱えている。
ハルは部屋を出て、気配を頼りに悪魔を探しに行こうとした。
おろおろしていた女性は、扉を開けて廊下に出ようとするハルを、寸前で止める。
「待って! 胸が見えそうよ。女の子がそんな格好で外に出ちゃ駄目でしょ!」
バスローブの合わせ目から胸元が見えていたらしい。
ハルは「女の子」と言われて、憤慨した。
「私は男だ!」
女性は手を伸ばして、ハルの身なりを整えてくれるつもりだったようだ。その手が止まる。
「男……?」
数ヶ月前から始まった悪魔化の副作用で、ハルは女性になってしまった。異形の魔物に変身するよりも納得できない、ありえなくて笑うしかない自分の状況だった。
準備を整えたハルは、
寝かされていたのは十階の部屋。
そこから九回階段を登ったので、現在位置は十九階。
「悪魔に侵入されても、指令室や重要な設備は特殊な隔壁があるから大丈夫だと思うけど……」
「悪魔が……!」
二十階へ上がろうと階段に足を掛け、ハルは立ち止まった。
ゾワゾワ音を立てて、非常階段の上から黒いオタマジャクシのような悪魔が複数匹、降ってくる。大きさは人間の頭ほどあり、胴体は半透明だ。黒い尾びれを動かして、低空を浮遊している。
ハルは棍を振りかぶり、迷わずオタマジャクシに突進する。
棍は
ハルの攻撃はオタマジャクシの一匹に命中したが、手応えなく突き抜けた。
「攻撃がきかない?」
足元を通過する悪魔に、ハルは眉をしかめる。
「まさか
拳銃を手に後ずさる希に、オタマジャクシ型の悪魔が体当たりする。
武器が効かないオタマジャクシは、腕を振って追い返そうとする希の身体にすっと潜りこんだ。
「ああああっ!!」
希は自分の身体を押さえて絶叫する。
秘書の服装をした彼女の、服から露出した手足や首に、黒い模様が走った。
「お願い……」
青白い顔で汗と涙を流しながら、希はハルに手を伸ばした。
「私を、殺して……!」
ハルは棍を手に躊躇った。
実験施設で育ったハルには、
今まで憑依された人間を殺すことに疑問を持ったことはなかった。
しかし、イズモで捕まって、あの赤い瞳の男に夢を見せられてから、ハルの中で何かが変わった。
この棍で希の胸を突けば、それで終わるのに。
ただそれだけのことが上手くできない。
「何故だ? 何故、私は殺したくないと思うんだ?!」
憑依された人間の意識が持つのは、数分程度。
迷っている時間は無い。
ハルは前に踏み出して棍で突こうとし……。
「……殺したくないと思うのは、人として当然の感情だ!」
突然、その攻撃を中断させるように、声が響いた。
ハルを不思議な夢に誘った男の声だ。
動きを止めたハルの前に飛び込んできた男が、希の腕を掴む。
「出ていけ、悪魔!」
男の目が深紅に染まり、赤い光の波動が希の体を貫いた。
光の波動に追い出されるように、オタマジャクシが希の体内から飛び出す。
「ハッ!」
後からやってきたもう一人の男が、白い炎を纏わせた漆黒の太刀で、オタマジャクシを一刀両断する。
胴体を真っ二つにされたオタマジャクシは、空中に溶けるように消えた。
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