イビルフロンティア ―人魔共存戦線―

空色蜻蛉

File-00 幻のゼロ番

第1話 遭遇

 俺は猫の缶詰めを開ける缶切りを探していた。

 だが散らかった家の中にそれらしき道具は見当たらない。近所のホームセンターに行ってみようか。ぼんやりそう思って俺は気付く。ホームセンター今日はやってねえわ。

 今日だけではなく、昨日も一昨日も。

 ここ何年、店が空いたためしはない。

 ホームセンターだけではなく近辺の店はどこも開いていない。

 周囲、数十キロメートル四方にひとっこ一人いやしない。

 

「にゃあー」


 猫が俺を急かすように鳴いた。


「よしよし。ちょっと待ってろよ」


 缶切りが見つからなかったので、ハサミの刃を立てて缶詰めの蓋を切る。そうして中の茶色い物体を小皿にかきだした。

 俺が小皿を差し出すと猫は餌を食べ始める。


 この猫は普通の猫じゃない。

 何の変哲もない灰色の猫だけど、瞳の色は真っ赤。

 赤い目はイービルウイルスに汚染されている証だ。


 あの日。"血の満月"と呼ばれた夜。

 正体不明の赤い目の怪物が突如現れ、人々を襲い始めた。

 悪魔イービルが、目に見えない菌類のようなものを介して、感染することが分かったのは侵攻が始まって一年後。悪魔に噛まれると、動物や人間も怪物に変化することが判明して、悪魔が多い地域から避難が始まったのが、さらに一年後。

 やがて増え続ける悪魔に降参して、日本は首都を放棄した。

 十数年経った現在、住む人のいない首都東京は、悪魔の群れが徘徊する廃墟と化している。


「俺、いつぐらいに死ねるんだろうな。まだ老化する気配がないんだけど」


 死にたい訳じゃない。

 だが無為に生きたい訳でもなかった。


「にー。にぃー」

 

 ぼんやりしていると、もう一匹、猫が現れて餌を食べ始める。

 二匹の猫が仲良く餌を分け合う様子を、俺は目を細めて眺めた。


「……なんだか、お前らが羨ましいよ」 


 俺の名前は、神崎優かんざきゆう

 事情があって、この放棄都市・東京に一人で暮らしている。




 悪魔は大きくても人間の五倍くらいまでだから、ビルや高い建物を壊すことはまれだ。よって、東京の街並みはそのまま保存されている。

 観光名所の東京ウルトラツリーは、今も変わらず街の中に佇んでいた。

 ただ、電力の供給は断たれているから、光らない。

 どことなく寂しげな雰囲気だ。

 

 俺は太陽光発電の設備がある家に勝手にお邪魔して、自分の棲み処にしていた。

 着るものや食べ物は、管理者のいないスーパーの倉庫から拝借している。

 レトルト食品のお世話になることが多いが、ベランダに家庭菜園を作って自炊しているので、わりあい食生活は豊かかもしれない。

 

 夕食後、洗面台の前に立って自分の姿を確認する。

 痩せ気味の、二十歳前後の青年の姿が映りこんでいる。女顔だの童顔だのと言われて、髭を伸ばそうと努力をしたこともあったけど、結局髭は伸びなかった。

 日本人男性に一般的な、短めの黒髪に黒い瞳。

 若い容姿なのに目元に倦怠感があるせいで、年齢不詳な雰囲気になっている。

 歯を磨こうとした俺は、歯磨き粉を切らしたことに気付いた。


「ちょっと遠出して、雑貨を探しに行こうかな」


 こうして次の日、俺は歯磨き粉を探して相模原方面へ遠出することにした。

 自動車は動かないし、道路も通行止めの放棄都市・東京でのベストな移動手段は、燃料が要らない自転車一択だ。

 エコロジーで良いだろ。

 無心に自転車を漕ぎまくって、海沿いを走り抜けた。

 潮風が気持ちいい。

 適当なところで自転車を止めて、人気のないショッピングモールを歩いていると、耳慣れない音がした。


 重低音と道路がきしむ音。

 トラックが走る音だ。


 俺は咄嗟に物陰に隠れた。

 幹線道路を通って人間が運転するトラックが、ショッピングモールの駐車場に滑り込んでくる。

 ずいぶん久しぶりに人間の姿を見た。


「降りろ」

「きゃああっ」


 柄の悪そうな男が、トラックの荷台から少女を引きずりだす。少女は腕を後ろで拘束されており、為すすべもなく地面に尻餅をついた。

 中学生くらいの年齢だろうか。

 見慣れないブレザー風の学生服を着ている。

 日本人形のような艶やかな黒髪を腰まで伸ばした、気の強そうな女の子だ。整った容姿を怒りに歪ませ、加害者に向かって凛と声を張り上げる。

 

「あなたたち、こんなことをしてタダで済まないわよ! 神様はちゃんと見てるんだから!」

「かみさま? ぶふぅ! さすが教会の娘さんは言うことが違うねえ。おじさん、笑っちゃった」


 男は少女を嘲笑う。

 俺は彼女を不憫に思いながらも、男の言葉には内心、同意していた。

 人類を救う神なんてものが実在するなら、ここ東京は放棄都市にならなかっただろう。それとも、破滅が人間に課せられた試練だとでも言うつもりだろうか。だとすれば、ずいぶん悪趣味な神様だ。


「じゃあな! せいぜい必死に悪魔から逃げ回れ」


 少女を放り出した後、男は急いでトラックに乗り、車を発進させる。

 ここは悪魔イービルの群れが棲む地域だ。いくら低級悪魔を追い払う音波を車から流していても、中級悪魔以上に襲われたらひとたまりもない。長居は無用という訳だ。

 しかし、久々に胸くそ悪い人間を見たな。

 何か犯罪行為をして、揉み消しに悪魔イービルを使うなんざ、どっちが悪魔かしれたもんじゃない。


「あ、ああ……」


 取り残された少女は、途方にくれているようだ。

 見たところ、悪魔除けになるようなものも、武器も持っていない。

 あれじゃ奴らの良い餌だな。


「……グルルル……」


 案の定、狂犬型悪魔レイビスドッグが寄ってきたようだ。

 黒い犬どもは赤い目を爛々と光らせ、無防備な少女を狙っている。

 俺は溜息をついた。

 見殺しにするという選択肢は、いつの間にか俺の中から消えていた。

 

 

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