第24話 さよなら

 暗闇の中で誰かが呟いている。か細くて、掠れた声。温いまどろみの中でイクコはそれを聞いていた。内容までは聞き取れないが、どことなく安心する声。

「……おねえちゃん」

 風に靡くアケビの髪が見えた気がした。橙色の、鮮やかな髪。彼女は『太陽』の壁画を眺めていた。辺りには百合の花が大量に咲き乱れて、甘い香りが漂っている。今ならこの"手"は届くだろうか。イクコは足を前に、送り出した。



ヘヴンズリリィ:オムニバス


『さよなら』



 翌朝、ベッドからダチアが居なくなっていた。飛び起きて辺りを見渡すが室内には居ない。バスルームやトイレも探したがもぬけの殻だった。

「な、なんで……!」

 テーブルを見ると、ダチアが使用していた録音用の機器が置いてあった。今朝の時刻に録音されているデータがある。イクコはそれを恐る恐る再生した。


『──九月十八日 外は静かだ あの日によく似ている もっとも あの日は しんと冷えたクリスマスだったが ……』


 ダチアの声だった。昨日収録していた内容とは違う。明らかにこのホテル内で収録・編集されたものだった。

 相変わらず意味の分からない内容が続く。しばらく聞いていると、程なくしてイクコの名前が出てきた。


『……イクコ。強がってはみたが 結局のところはおまえのいうとおりだ わたしはいまだに この世に未練を持っているのだろう』

「…………ダチア」

『おまえを迷わせたのは わたしの弱さだ わたしが破綻者のままで居られれば おまえはまた別の決断をしたはずだ そう 確信している』

「違うよダチア」

『いや そもそも 脱獄をした時点で わたしは まだ 希望を諦められてなかったのだろう』


 それはダチアの独白だった。ゆうべ眠っている時に聞こえてきたつぶやきは、ダチアが機器に声を吹き込んでいるものだったのだ。


『外の世界に出て わたしは再認識した わたしの居場所は やはりもう どこにもなかったのだ』

「そんなことない。あなたはただ──」


『──だが おまえと出会えた』


 細めていた目を見開いた。目頭に溜まっていた涙が頬を伝う。


『イクコ おまえのきもちは "気の迷い"だ。わたしを救わなくとも おまえはいずれ 答えにたどり着く』

『おまえはアケビに"二面性"を見ている 姉としてのアケビと おそらくは "女"としてのアケビ おまえらが姉妹喧嘩をしている時 おまえの目には熱がこもっていた』

「ぼくが……おねえちゃんを?」

『だが アケビという人物はひとりしかいない。イクコ 答えはもう おまえの中にある。"選択"の時は 自ずと訪れる。わたしという存在は 必要なかったんだ はじめからな』

 そこから少し間が空いた。再生はまだ続いている。室内の沈黙は、やはりダチアの声によって破られた。


『それでも』


『わたしの居場所で在ろうとしてくれたこと たとえ"気の迷い"だとしても うれしかった わたしが此処に居たという証を遺せただけでも 脱獄した甲斐はあった』


「ダチア……!」


『 ありがとう さよなら 』


 そこで再生は切れた。シーツにくるまっていたセペットが恐る恐る出てくる。

『…………あー、まあ、いいヤツだったよ。よく知らねいけどな。そういうことらしいから、もう帰ろうぜ?アケビも待ってるだろうしよ』

 イクコは黙ってベッドのシーツに触れた。ダチアが眠っていた場所はまだ仄かに暖かい。季節から考えても、部屋を離れてまだ三十分と経っていないはずだった。

『ヘイ、イクコ。聞いてんのか?おい』

 イクコはキーを持って部屋から飛び出した。チェックアウトを済まし、朝靄が漂う街へ繰り出す。


「──《ジェミナイ・シーカー》!」

 半径一キロを見渡すが、ダチアの姿はどこにもなかった。既に射程圏外へ移動されてしまったようだ。

『ステイステーイ!まさかとは思うがよう!追う気か?止しとけよ、日本語で言うなら百害あって一利なしだぜ!』

「セペット、あなたはそれでいいの?」

 イクコは厳しく窘めた。

「ダチアはあなたのことを知っている。あなたがあなた自身のことを知るチャンスなんだよ」

『……いや、そりゃそうだけどよ。やべえだろ。県警に追われてんだろ?オイラも立場は同じだしよう』

「分かるよ。怖いよね。いつものぼくなら、あなたと同じことを言ってたと思う。ダチアを追うなんて"ありえない"って」

『だったら──』


「今なら、おねえちゃんの気持ちが分かる」


 イクコは自分の胸の上に握り拳を置いた。この張り裂けそうな気持ち。いてもたっても居られないという焦燥。それでいて、冷静沈着に澄み渡っている思考。

「これが"決意"なんだ……おねえちゃんはこれを貫き通して、"極点"へ行ったんだ」


 熱く煮えたぎっている。冷たく張りつめている。ふたつの意志が相克し、ただ前へ進む推進力を生み出している。

 おそろしく身体が軽かった。正常な判断は下せそうにもないが、最適な判断はいかなる状況でも下せるという自信に満ちていた。

「決断を先延ばしにするくらいなら、間違った決断を下した方が数百倍良い。ぼくはダチアを追うよ」

 最早誰のためでもない。ダチアのためでも、自分のためでも、アケビのためですらない。ただ"そう"したい。それを実現する為の手段なら、何でも"手"を伸ばすだろう。


『……どうやって!その様子じゃ、イクコの能力でも射程圏外なんだろ?』

「嘗めないで。ぼくの《ジェミナイ・シーカー》は見逃さない。射程距離なんて……いくらでも稼げる!」


『Fooo!!』

 《ジェミナイ・シーカー》の異能具現体アイドルが飛び立ち、対抗車側のタクシー運転手に"感染"した。

 彼の視界をジャックし、街の景色を眺める。タクシーがイクコから一キロ離れても"感染"は継続されたままだった。

「《ジェミナイ・シーカー》が"感染"している場合、射程距離は被感染者から半径一キロに"再計算"される。そして感染は──」

 タクシー運転手は右折しようとするとき、前の車のサイドミラーを一瞥していた。ミラー越しに前のドライバーと目が合う。

 その僅かな瞬間を突いて、タクシーの運転手から前の車の運転手に"感染"しなおした。

「被感染者からでも行える。方角さえ分かっていれば、ぼくのシーカーはどこまでも追跡できる!」

『ど、どうだっていいけどよ。なんで"南西側"なんだ?反対方向だったら目も当てられねいぜ?』


 セペットの疑問はもっともだった。今イクコは、南西側に限定して追跡している。いくら射程範囲を再計算できても、その方角にダチアが居なければ一生見つけることはできない。

「いや、ダチアは必ず南西へ向かっているよ。だってダチアは"死ぬため"にぼくのもとから離れたんだから」

『死ぬため……まさかあいつは』

「そう、茨城県庁に向かっているはず……!絶対に見つけて、《ジェミナイ・シーカー》!」

 ドライバーからドライバーへ"感染"を繰り返し、常にそこから半径一キロを見張る。地図と景色は映像としてイクコが記憶していた。道に迷うことはない。


「居た!」

『ま、マジかよ……!』


 ほぼ隣駅だが、緑地帯にある神社にダチアの姿を見つけた。県庁から三~四キロ程度の地点であり、追われる身である彼女にとっては非常に危険な場所だった。

「護国神社……!最短ルートで追えばまだ間に合う!」

 走り出そうとしたイクコは、セペットがそこから動かない事に気付いた。

「……セペット」

『…………やっぱ辞めようぜ。近すぎるだろ。オイラ達がたどり着く頃には、もう捕まってるに違いねえよ』

「あなたは覚えていないだけで、昔の仲間かもしれないんだよ。それを見捨てるなんて──」

『オイラは良いんだよ!でもよお!』

 声を荒げるセペットに言葉を遮られた。石の身体でしかない彼が今どんな表情をしているのかは分からない。ただその切実さはイクコにも伝わった。


『イクコ、アンタがあいつを庇うってことは、県警を敵に回すってことだぜ?イクコの身にまで何かあったら……そん時はアケビがどうなるかわかんねーだろ』

「……そうだね。ぼくたちに死なれたら、セペットも困るもんね」

『そういうことを言ってんじゃねぇーんだよオイラはよーう!』

 怒鳴るセペットは続ける。

『オイラはアンタらにはマジで感謝してんだぜ!アンタら姉妹はちょっとおっかねえけど、マジで良い奴らだ!ぶっちゃけ過去のことより、今はアンタらの方が大事なんだよ!わかんだろ、なあ!』

「…………そっか。そうだよね、ごめんね」

 あの時のアケビも同じ気持ちだったのだろうか。アケビと喧嘩をするのはこれが初めてではない。あの時泣きながら言った彼女の言葉を思い出す。


「それでもぼくは頑張るよ。ダチアを助けたい……ほんとうに、ごめん」


 イクコはもう振り向かなかった。とにかく時間がない。タクシーを捕まえてでも現場へ急行する必要があった。

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