第22話 亡国のダチア:急

 常盤イクコは暗闇が苦手だった。そこにあるはずの輪郭がぼやけ、不明瞭に融けていく有様が恐ろしかった。暗闇は饒舌に語るが聞き取ることはできない。そこかしこで冷たい目を向けてくるが、どこから見ているのかは分からない。

 イクコの胸中は暗闇で満ちていた。最早自分自身の感情すら不明瞭だった。何が分からないのかすら分からない有様だった。


 だがそれでも。あふれ出た感情は光に晒され、今日もひとつ明らかになった。


「《ジェミナイ・シーカー》!」「《レット・ミー・ヒア》!」


 二人分の異能具現体アイドルが激しくぶつかり合う。《レット・ミー・ヒア》が放つ拳の連撃を、《ジェミナイ・シーカー》の手刀が叩き落としていく。

『Check it, Check it Oooooooooooutttt!!』

『Fooooooo!!』

 両者一歩も退かないが、打撃力と速度の差で少しずつシーカーの被弾が増えてきた。この拮抗は長く続かないとイクコは直感で判断した。


「シーカー!」『Fooo!!』

 ラッシュの中から比較的軽い一撃をあえて喰らい、ダッキングの要領で受け流しつつシーカーを前進させる。L.M.Hの側面を横切り、一瞬でアケビの眼球の中へ飛び込ませた。

「《レット・ミー・ヒア》!」『Check it Out!!』

 次の瞬間、こともあろうにL.M.Hはアケビの側頭部を殴りぬいていた。

「うぐっ……!」

 "感染"させた眼球への衝撃は、イクコへのダメージに直結する。とても感染を維持できなくなり、一度も眼球を操作できないままシーカーを解除せざるを得なくなった。

「じ、自分を殴らせるなんて無茶苦茶な……」

「あんたとは覚悟が違うってことよ」

 頭部から流れる血を拭いもせず、アケビは前髪の隙間から害意のこもった目をイクコに向けていた。ぞくぞくと背筋に悪寒が奔る。だが不思議と今は恐怖よりも、高揚感の方がイクコを支配していた。


「愚鈍なだけでしょ、シーカー!」

 まだアケビが体勢を立て直していないのを良いことに、シーカーの手刀をアケビの肩口に叩き込んだ。腕力が低いとはいえ、全力で攻撃すれば成人男性の一撃に匹敵する。後方にたたらを踏んだアケビの眼球に、再度追撃の"感染"を試みた時だった。

『Beeeeeat it!!』

 L.M.Hが割り込み、シーカーを蹴り飛ばした。さらにそのままイクコではなく、ダチアへ襲撃をかけようとしていた。

「どこ……見てんの!」

 L.M.Hの眼球に"感染"し、視界を上下左右に引っ掻き回す。その甲斐あってダチアへ放たれた連撃は狙いが逸れ、そのどれもが空を切った。

「ダチアが欲しけりゃ、今はぼくだけを見なよ!」

「ほんっと生意気ね……イクコォ!」

 アケビはそう言うと、L.M.Hを回収することなく生身で駆け出してきた。

「ばかなの?シーカー!」『Fooo!!』

 返り討ちにすべくシーカーの手刀を繰り出す。


「え──」

 だがアケビはそれを軽い身のこなしで避けつつ、シーカーの側面に回り込んできた。

「くっ、まぐれなんてそう……!」

 今度はシーカーに裏拳を繰り出させるが、後方が見えていないはずのアケビはまるで分かっていたかのように屈み、回避しながらさらにイクコとの距離を縮めてくる。

「そんな、どうして!」

「《レット・ミー・ヒア》の能力を忘れたの?」

 気が付けばアケビはもう目の前まで迫っていた。血の色よりも昏い双眸がすぐそこまで。

「あがっ……!」

 衝撃と血の匂いで前後不覚に陥った。頭突きを喰らってしまったのだ。

「イクコの考えていることは手に取るように分かる。テネシィみたいな身体能力が高い相手だと、考えが読めても対処しきれないけど……アレに比べたらあんたは"遅すぎ"なの」

「くっ……ジェミナイ──」

 解除された感染をかけなおそうとしたが、できなかった。この僅かな隙で戻ってきていたL.M.Hの拳が、イクコの腹部に深々と沈んだからだ。

「げぅっ!」

 両足が宙に浮き、身体が「く」の字に折れる。さらにL.M.Hは返す拳でイクコの頬を殴り飛ばしてきた。

「あっ……がはっ……」

 身体が地面に叩きつけられるも、衝撃は殺しきれずにそのままもんどりうってしまう。だが寝ている暇はない。ダチアを守るために、なんとか起き上がろうとした。


「う……?」

 ワインレッドのワンピースに雫が落ちる。顔を拭ってみると、手にべったりと血が付着していた。口を切ったのか、鼻血が出たのかは定かでない。両方かもしれない。

 それだけではなかった。上体を起こした途端、急に五感が遠のき、強い悪寒と共に吐き気を催す。たまらずイクコはその場で嘔吐した。

「げほっ ぉえ……はぁ…………はぁ……」

 身体を支える腕ががくがく震えている。アドレナリンの影響か、痛みはほとんどないが、肉体が受けているダメージはかなり深刻だった。

 アケビがゆっくり歩み寄ってくる。シーカーで応戦しなければならないが、呼吸が苦しくてそれどころではない。


「……"ごめんなさい"は?」

 冷徹な双眸は、とても実の妹に対して向けるようなものではなかった。イクコの胸中は暗闇に満ちていた。だがあふれ出た感情は光に晒され、今日もひとつが明らかになった。

 イクコはこの目を"待ち望んで"いた。それでいて、こんな目で"見られたくない"という感情が胸を締め付けていた。二律背反の感情が同時に存在し、そのどちらもがイクコの本心だった。

「いぎっ……!」

 黙っていると、L.M.Hがイクコの右肩を殴りぬいてきた。この一撃で脱臼してしまったのか、右腕に力が入らなくなる。

「ごめんなさいは?」

 アケビは繰り返した。イクコは反抗の意思を込めてアケビを睨み返した。

「だ、だれがあなたなんかに……あぐっ!」

 今度は頭部を殴りぬかれた。額が切れたのか、視界を塞ぐように次々と血が流れてくる。

「ごめんなさいは?」

 返事の代わりに、口腔にたまった血を吐き捨てた。横っ腹を横薙ぎに蹴られ、再び地べたに倒れる。

「……何がおかしいの?」

 言われて初めて、イクコは自分が笑っていることに気づいた。また溢れてきた新しい感情が、光に晒されつつあった。


「ふ、ふふ。ア、アケビにとっての、ぼくって……な、なんなんだろうねって……考えたら、おかしくなっちゃって」

「……イクコは大事な妹だよ」

「あはっ」

 吐瀉物と血と泥にまみれた右手を翳す。ネクティバイトに填まっているムーンストーンが日光に照らされた。

「"これ"が?あははは!ほんとイカれてるよ!化け物呼ばわりされるのも仕方ないじゃんね」

 太陽の光が放射状に差し込んでくる。逆光のアケビは、おぞましくて、おそろしくて、そして、そして美しかった。


「…………"おかえりなさい"、アケビ」


 嬉しさと寂しさが同時に溢れ出し、涙が頬を伝った。L.M.Hが再び五指を握りしめる。次の攻撃は、耐えられないかもしれない。イクコは静かに目蓋を閉じた。


「そ そそ そこまでだ」

 ダチアがイクコの前に立ちふさがった。声も身体も震えているが、身じろぎせずアケビを睨んでいる。

「お おまえの狙いは わたしだろう。す、すすすきにしろ」

「……だめ。だめだよダチア。そんなの」

 ダチアを死なせるわけにはいかない。アケビを本物の殺人者にするわけにはいかない。イクコは力なく首を横に振った。それは認可できなかった。

「い、言っただろう。わたしに 帰るべき場所はもうない この世に未練も ない」

「うそつき。ならどうしてそんなに震えてんの!自分にうそをついたまま死ぬっていうの?」

「か かか帰るべき場所がある奴が死ぬよりはずっといい」

「おねがいやめてアケビ!あ、謝るから!ぼくが悪かったから!」

 最早それは哀願だった。だがそれでもL.M.Hは拳を振り上げ、上段に構える。迫りくる風圧に諦観を抱いたイクコは、今度こそ目を閉じた。


『Check it Oooooooouttt!!』


 百は撃たれたのではないだろうかと思えるほど、そのラッシュは長く感じた。だがイクコには一発も当たっていない。ということは、ダチアは無事ではないだろう。

 恐れていたことが実現してしまった。取り戻した日常は今日でおしまいだ。絶望にしがみつかれたまま、固く閉じた目蓋をあける。


「…………え?」


 しかしダチアは健在だった。かすり傷ひとつ負っていない。信じられない光景だったが、イクコが生み出した都合の良い妄想などでは断じてない。これは現実だった。

 ダチア本人も驚いているようだった。無理もない。あれだけ放たれたL.M.Hの拳は、一発たりとも命中していなかったということなのだから。

『Nope.』

 L.M.Hは意図的に攻撃を外していたのだ。

「……好きにしたらいいじゃない。そんなに、そいつが大事ならさ」

 踵を返し背中を向けたアケビの声は、心なしか震えているように聞こえた。

「アケビ……」

「…………ばーか」

 そう吐き捨てたアケビは買い物袋を拾い直し、足早に立ち去ってしまった。イクコは追わなかった。追えなかった。再び動けるようになったのは、アケビの後ろ姿が完全に見えなくなってからだった。


「……お 愚かなことをしたな」

 沈黙を破ったのはダチアだった。イクコは答えず、ふらりと立ち上がる。

「…………行こ」

「行こうって どこにだ」

 ダチアの言うことはもっともだった。家には帰れない。帰る気もない。ただ、今はとにかく此処ではないどこかへ行きたい気持ちでいっぱいだった。

「どこか、安全なところ」

「……安全 か」

 イクコが歩き出して少し経ってから、ダチアも緩慢な足取りでついてきた。傍から見れば行動を共にしているようには見えないが、一定の距離を保ったままダチアは確実についてきている。

 居場所を求めて彷徨い歩く彼女の気持ちが、今なら少しは分かる気がした。

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