第5話 ダチア

 夕焼けの日差しが差し込む自宅へ帰ったアケビは、荷物を玄関に置いてリビングのソファに突っ伏した。じきに真っ暗になるが、電気を点ける気力もなかった。

「はあ……」

 疲労の中で、いつも以上に静かである事に気づいた。実際はいつもと同じように一人で家を使っているのだから、何も変わりないのだが、この日はやけに静寂が気になってしまっていた。


「あ、そうか……イクコの声が聞こえないからだ」

 いつもは一人でも、常にイクコと繋がっていた。一人で居ながら一人ではないという生活に慣れきっていて、本当の意味での"独り"をしばらく忘れていたようだった。

「…………」

 腹の虫が鳴った。よく考えてみれば、美術館を出てから何も口にしていない。頼んだ白桃サンデーもテネシィに食べられてしまったからだ。だが、食事を用意する事も、シャワーを浴びる事もできなかった。何もしたくなかった。

『──おねえちゃん、そんな自堕落してると身体こわすよ!』

 そんな声が、今にも聴こえてきそうだった。いや、実際に聴こえたのではないだろうか。あまりにもイクコらしい台詞に、アケビは小さく笑ってしまった。

「……ふふ。じゃあイクコが作ってよ……ごはん」

 今年の夏は暑すぎる為、セミの鳴き声すら聞こえてこない。虚しく響いた声は、オレンジ色に照らされた壁に吸い込まれていき、それから、それから。


 それから何もなかった。


「……………………」

 室内が暗闇に包まれてきた頃、アケビは昔の記憶を探っていた。こんな具合に暗いところに突っ伏して、かくれんぼをしていた時の事だった。今ではそうでもないが、幼い頃のイクコは暗闇を極度に恐れる節があった。したがって、土管の中や廃屋の中、そういった日の光が当たらない暗がりに隠れてしまえば、いつまでも彼女をやり過ごす事ができた。

『おねえちゃーん!どこいったのー?』

 その日もアケビは、井戸の中に隠れていた。井戸といってもその半分以上を埋め立てられたただの穴であるため、容易に出入りができるものだった。問題はその井戸が藪の中にあるため、日中でも薄暗く、イクコ避けには最適な場所だったということだ。

『おねえちゃんってばー!』

 学校では完璧なイクコが、頼りなさそうに双子の姉を捜す声はとても愛らしくて、アケビは笑いをこらえるので精一杯だった。ひとしきり楽しんだら自発的に出ていくつもりだったが、その日は少し毛色が違った。

『お、おねえちゃ……ひっ……ぐす……』

『……イクコ?』

 いつもより声が近い。しかしそれは涙声で、明らかに様子がおかしかった。

『う、うわああああん!たすけておねえちゃーん!』

『イクコ!どうしたの?すぐ行くからね!』

 いよいよイクコは泣き出し、もうかくれんぼどころではなくなってしまった。アケビは慌てて井戸から飛び出し、声の方へ駆け出した。イクコは、普段は入らない藪の中で泣いていた。

『イクコ!だいじょうぶ?おねえちゃん此処にいるよ!』

『う、うう……おねえちゃあん!』

 半ば突進するように抱き着いてくるイクコを受け止めた。

『どうしたの。こんなところまできて……』

 よく見ると、イクコは膝をすりむいていた。探しているうちに転倒してしまい、けがをしたのだろう。それで意を決して普段は入らない薄闇の中に足を踏み込んだが、まもなく恐怖心が限界に達したようだった。

『あらら、痛かったでしょ。もう大丈夫だからね』

 アケビは迷わずしゃがみ、イクコの膝に口を近づけた。

『な、なにするの』

『消毒だよ。痛くないからね』

 舐めた傷口は少し熱くて、血と泥の味がした。あまり刺激しないように唾液を満たして、優しく舐めとっていった。

『おねえ、ちゃ……』

 それでも少し沁みるのか、イクコはワンピースの裾をぎゅっと握りしめていた。薄暗い茂みの中、セミの鳴き声だけが二人を包み込んでいた。


「はい、おわったよ、イクコ」

 伸ばした指先は、冷たい鏡面に触れた。気が付けばアケビは姿見の前で座り込み、映り込んだ自分の像に手を差し伸べていた。

「……はは、酷い顔してるや」

 汗と涙とでひりひりする目元は、炎症を起こしているのか若干赤くなっていた。それでも表情だけは穏やかなのは、イクコとの記憶のおかげであることは明白だった。アケビの精神はイクコによって支えられていた。

「イクコの声が、ききたいな」

 だが、返事はなかった。今が何時かも分からない暗闇の中で、アケビはただただじっとしている事しかできなかった。


 ぼーっと座り込んでいると、やがて段々明るくなってきた。窓の外が白くなっている。どうやら夜が明けたようだった。

「…………顔、洗お」

 一睡もしていないが、不思議と眠気は無かった。帰ってきてすぐはあった食欲もいつの間にか失せていた。ただ汗でべとつくのが不快だったため、アケビは洗面所に向かった。

「ふう」

 顔を洗うと幾分かはすっきりした。鏡に映っている時計は、六時二十分を指している。カイリから連絡が来る正午まではまだ時間があった。しかし、やれるような事はなかったし、何かやりたい気持ちにもなれなかった。

 リビングに戻り、何となくテレビを点けた。見覚えのある風景が映っていると思えば、それはイクコが入院している病院だった。ゆうべ発生した火災の状況を伝えるニュースだった。


「うそ!か、火事?」

 ソファから立ち上がり、文字通り画面に張り付いた。ゆうべ深夜二時ごろに病室の一角で不審火が発生し、防災装置が作動したらしい。画面に映る建物は既に鎮火されていたが、壁が黒く焦げているのが窺えた。

「イクコは……イクコは無事なの?」

 煙に気づいて起きた患者を皮切りに、一斉に避難が行われたそうだった。実際リポーターのすぐ後ろには消防士や、寝間着姿の患者がうろついており、状況の混乱を物語っていた。

 だが、次の瞬間、急にテレビが切れた。

「えっ!ちょ、ちょっと!」

 慌てて外を見ると、信号機も点灯していなかった。どうやら停電しているようだった。

「こんな時に……!イクコ!ねえイクコ!聞こえてるんでしょ!」

 だが返事はない。焦りが次第に苛立ちへ変わってゆくのをアケビは感じた。

「お、おねえちゃん本当に心配してんだけど!こんな時くらい──」


『静かにして』


 一日ぶりに聞くイクコの声。アケビは思わず言葉を飲み込み、硬直した。イクコの声には緊張が滲んでいたからだ。その直後、玄関のドアがノックされた。渇いた音が三回。アケビの心臓が跳ねる。

「……な、なに?」

 自然と小声になっていた。耳を澄ませてじっとしていると、外から何かガラス質なものを砕くような音が聞こえた。


「──常盤さん?大丈夫かしら?アテクシよ、高良よ」

「高良さん……?」

 その声はまぎれもなく、昨日会話したカイリのものだった。スマートフォンを見ると、何故か圏外になっている。連絡がつかないため電話ではなく直接家まで来たのだろうか。

『ダメ。絶対開けないで』

「え、でも、高良さんが」

「常盤アケビちゃん、居ないのかしら?アテクシね、あれからよく考えたの。アナタの言う通りよ、組織は信用できないわ」

「ほ、ほら!やっぱり高良さんだ!」

『ダメ!』

 廊下に出ようとしたところを、イクコがアケビにしか聞こえない声で強く制止した。一瞬身体が強張ったが、先ほどまで募っていた苛立ちが再び湧き出てきた。

「……ああ、そうだよね。イクコはあたしがやろうとしてる事に反対だもんね」

『違う!そういうことじゃないの!』

「でももう遅いよ。ここまで高良さんを巻き込んじゃったんだから」

『出ちゃダメ!』

 イクコの忠告を無視して玄関へ向かう。鍵を開けて、チェーンを外し、ドアを押し開けた。


『違うのアケビ!外に居るのは高良さんじゃない!』


 外に立っていたのは、警官制服を着た人物だった。ただしカイリよりずっと小柄で、背丈も二十センチ以上低い。帽子を目深に被っているためはっきりとは分からないが、青白い肌と細い首はまるで少女のそれだった。

「…………え?」

 鼻にツンとくる塗料の香りが掠めた瞬間、アケビは咄嗟にドアを閉めようとした。すると少女の履いている革靴が割り込むように挟まってきた。

「くっ、な、なんなのあんた!」

 少女は答えず、ドアの隙間に肩を入れ込もうとしてきている。体格からは信じられないほどの膂力で少しずつこじ開けられる。侵入されるのは時間の問題だった。

『アケビ!』

「分かってる!《レット・ミー・ヒア》!」

 その名を呼ぶと、アケビの身体から能力の具現体アイドルが抜け出た。たてがみのようなビビットオレンジの髪を逆立て、群青色の五指を握りしめている。

『Check it Out!!』

 雄たけびと共に《レット・ミー・ヒア》が拳を振り下ろした。その瞬間、ドアを引いていたアケビは突然抵抗を感じなくなり、勢いよく閉める事に成功した。


『やったの?』

「……いや、手ごたえを感じなかった。ていうか、今のは」

 アケビはじっとりとした違和感を覚えていた。《レット・ミー・ヒア》の攻撃が当たらなかったのは確かだ。だが今のは咄嗟に身を引いて躱されたというより、少女の身体を拳が抵抗なく突き抜けたように見えた。直後にドアが閉まったため彼女がどうなったのか確認のしようはないが、物理的にありえない光景だけがしっかりと記憶に残っていた。

『おねえちゃん、うしろ!』

 イクコの声を聞いて振り返る。すると廊下のリビング寄りに、警官制服姿の少女が土足で上がり込んでいた。いつの間にか背後を取られていたのだ。

「まさか、能力者?あたしと同じ」

 少女は口元に寄せた無線で何かを吹き込みながら、もう片方の手を懐から引き抜く。指先につままれていたのは、グレーの輝きを放つ宝石だった。

『ネクタイト……!』

 そのまま指先の握力だけで宝石は砕かれ、辺りに明滅する光が拡がる。その光は意志を持っているかのように、間もなく少女の手に集まりはじめた。

『逃げてアケビ!攻撃が来る!』

 そしてそれはサプレッサーが備えられた一丁のハンドガンに変形し、真っすぐアケビに向けて構えられた。


 拳銃。生身の人体に対してはたった一発でも致命傷に繋がりかねない殺傷能力を持つ対人兵器。大抵の者は意味なく向けられれば、それを脅しだと考える。だがアケビはすぐさま《レット・ミー・ヒア》で警官制服姿の少女を読み取った。

『忌々しいレジスタンスめ』『プロレタリア独裁の恐ろしさを身に沁みさせてやる』『現党首様の為に』

 言語化された思念は支離滅裂な内容だったが、一貫して気圧されるほど強い害意が放出されていた。彼女は間違いなく撃つ。アケビはそう確信した。

「イクコ!」

『ジ、《ジェミナイ・シーカー》!』

 アケビの目から修道服をまとった女性型の能力具現体アイドルが飛び出し、少女の眼球に"感染"する。視界をジャックしたイクコは射撃を阻害するために焦点を上へ逸らさせたようだが、少女は構わず発砲してきた。

「うっ!」

『アケビ!』

 玄関に置いていた花瓶が割れ、水と破片が散る。アケビは構わず少女との距離を詰め、二発目を撃たれるより早く《レット・ミー・ヒア》の拳で拳銃を持つ手を殴り飛ばした。結果として二発目の弾丸は壁を貫通し、リビングへ突き抜ける。

「《レット・ミー・ヒア》!」

『Check it, Check it Oooooooouttt!!』

 右と左の拳を高速に打ち出す、目にも留まらぬ速さでラッシュを叩き込む。だが次の瞬間、拳とアケビの身体は少女を突き抜け、何の手ごたえもなく背後へ通過してしまった。

「なっ……また!」

『えっ、うそ……!《ジェミナイ・シーカー》が!』

 イクコの異能具現体アイドルがアケビの眼球に帰ってくる。その口ぶりから、イクコが能動的に解除したわけではなく、何らかの方法で"感染"を解かれてしまったのだと理解した。狼狽する二人をよそに、少女はゆっくり振り返り、銃口をアケビに向けてくる。

「レ……《レット・ミー・ヒア》!」

『Check it,Check it,Check it,Check it,Check it...』

 機関銃のごとく拳を浴びせるが、そのどれもが空を切る。目の前にいるのにまるで実在しない、幽霊に向けて攻撃しているような感覚だった。

『Check it Ooooooooutttt!!』

 全力の一撃も虚空を振りぬき、風圧の音だけが虚しく響く。いちかばちかアケビは少女をすり抜け、二階へ上がる階段を駆け上った。一時的に撤退する必要があった。


「なんなのあいつ……!攻撃が全然通用しない!」

『ど、どうするのアケビ!』

 スマートフォンは相変わらず圏外。停電は依然として復旧する様子がない。アケビ達は完全に隔絶されていた。

「あいつ、ネクタイトで声を変えてたんだ……それにこの停電と電波障害、全部ネクタイトによって作られた状況かも」

『でも、ネクタイトを砕いて使える能力は一回限りのはず。だから攻撃が当たらないのは、あいつ自身の能力だよきっと』

 どこまでを一回と定義するかは能力によって差があるが、ネクタイトの使用には大きな制約があった。

「かもね。でも他にもネクタイトを持ってるとしたら、あいつあたし達を本気で殺しにきてるよ」

 両親が使っていた寝室に入る。ベッドルームとは別に備えられているコスチュームルームへ飛び込み、ハンガーにかけられた大量のドレスの中に身を隠した。生前母親が集めていた衣装の数は膨大で、それだけで外側から姿は全く見えなくなる。イクコと屋内でかくれんぼをする時よく使う手段だった。

『なんで"感染"が解けたのかわからないけど……なんとかしてもう一度"感染"させないと』

 階段を登ってくる足音が聞こえてくる。アケビは息を潜めて考えていた。

『でも感染させたところであいつが無敵なんじゃ意味が無いし……』

「……多分あいつ、無敵ってわけじゃないんだと思う」

『どういうこと?』


 強い引っかかりを覚えていた。思い返すのは、ドアを閉めようとした時に足を挟んできた時。それと二発目を阻害する時に放った拳は命中した事。さらに、ラッシュを仕掛けていた時。その気になればあの隙に、少女はもう一発くらい発砲できたはずだった。

「多分あいつは、スイッチを切り替えるようにオンオフしかできないんだと思う。オンにすると何もかもがすり抜ける代わりにこっちにも干渉できないとか」

『たしかに、無敵状態のまま攻撃できるならずっとそうしてればいいもんね』

 しかし厄介な能力である事に違いなかった。いつオンオフを切り替えるかは相手に主導権がある。加えて複数のネクタイトを所持しているとすれば、長引かせるだけ不利になることは明白だった。

『どうするの、なんとか隙を作って逃げる?』

「……いや。わざわざあたしを殺しに来るって事は、それなりの理由があるはず」

 うそがバレていない限り、タランドスが殺しに来ることはありえない。茨城県警はそれ以上に無いだろう。

「ありえるとしたら、うそがバレたか……あるいは"桐生"側の刺客か。どっちにせよ、今ハッキリさせておかないとあたしは殺されると思うよ」

『……戦うって言うの?どうやって?』

「イクコの《ジェミナイ・シーカー》は多分スイッチオンの度に解除される。だから、"感染"には頼らずいく」

『だから!どうやって!相手は拳銃を持ってるんだよ!』

 恐怖がないと言えばうそになった。実弾の拳銃を相手に戦ったことは一度もない。緊張と恐怖でえずきそうになるのを堪えるので精一杯だった。

「イクコは視てて。あいつがあたしの前を通りかかったら、合図を送って」

『そ、そんな単純な方法で』

「その単純が効くの。攻撃する瞬間とか、あいつが意識していない時なら攻撃は当たる。その一発で……終わらせる」


 幸い、《レット・ミー・ヒア》に人を殺められるだけの殺傷能力はない。無力化してから情報を引き出す事ができれば、今後どのように立ち回るべきか検討できるはずだった。

 ドアの開く音。寝室に入ってきたようだった。ゴツ、ゴツと靴底の音がクローゼットに響いている。アケビからは見えないが、イクコからは今どこで何をしているか一目瞭然のはずだった。

 イクコを信じていれば必ず勝てる。そう確信しているにも関わらず、手は震え、膝は笑っていた。失敗した時、頭蓋を弾丸が食い破り、脳漿を散らす場面を何度も想像した。その度に、やはりこんな単純な作戦では通用しないのではないかと疑いを持った。

『コスチュームルームに来た……まだ、まだだよ。もう少しひきつけないと』

 イクコが言うまでもなく、足音が、気配が近づいてきているのを五感で感じ取れる。塗料の臭いが強くなっていく。息遣いまで聞こえてくるかのようだった。今この瞬間だけ自分の心臓を止めてしまいたいくらいに、緊張はピークに達していた。


「今だよ!"おねえちゃん"!」

「《レット・ミー・ヒア》!」

 イクコの声を合図に衣装の中から飛び出す。持てる限りの力を込めて渾身の一撃を放った。

『違う"アケビ"!それはぼくの声じゃない!』


 渾身の一撃は、空を切った。


 当たっていない。なぜならば、少女はその一歩手前で拳銃を構えていたからだ。アケビのこめかみのすぐ傍で。獣のように喉を鳴らしながら。

『逃げてアケビ!』

 どっと汗が噴き出す。イクコの声を真似て、誘き出されたのだ。逃げ場はない。引き金に指がかかっているが、一か八か勝負を仕掛けるしかない。もっとも間に合う見込みは十中八九無かったが。

「レット・ミー──」

 直後、引き金は引かれた。サプレッサーにより消音された小さな発砲音が鳴る。アケビは反射的に目を閉じたが、いつまでも衝撃が襲い掛かってくることはなかった。


「……?」

 うっすら目を開けると、にわかには信じられない光景が広がっていた。発射された弾丸がすぐ目の前で完全に停止している。少女もまた同様に硬直し、そのすぐ後ろには大きな『通行止め』標識にキスマークが重なったような図式が、電飾のような黄色の光を絶えず明滅させていた。

 よく見るとそのマークは少女に接触している。あたかもそのせいで完全に"停止"することを余儀なくされているかのようだった。

「間に合ったようねえ。アテクシの《メルティ・キッス》は」

「高良、さん」

 紛れもなく高良カイリだった。息があがっている事と、うっすら汗をかいている事から、ここまで走ってきた事がうかがえた。

「銃を捨てて手をあげなさい……と言っても指一本動かせないでしょうけどね」

 勝ち誇ったようにカイリが言うと、次第に少女の身体が透け始めた。

「ヤバイ!また逃げられる!」

 制止する間もなく、少女は再びその場から消えてしまった。同時にカイリが展開していたものと思われる明滅するマークが消える。

「高良さん気を付けて!まだどこかに居るはず!」

 辺りを見渡すが、どこにも姿は見えない。気を尖らせて見張っているが一向に出てくる気配がない。しばらくするとインターホンの音と、テレビの点く音が一階から鳴った。信号は点灯され、スマートフォンの通信状況も改善されていた。


「あ、あれ」

「多分しばらくは来ないわ」

 カイリはそう言うが、アケビはとても気を抜くつもりにはなれなかった。

「な、何あくびしてるんですか!相手は銃を持っているんですよ!」

「だから……もう来ないって言ってるじゃないのよこのブス。大人の話は聞くものよ」

 先ほどまで話していたイクコが黙っている。もし姿を現せば真っ先に反応できるはずのイクコから反応がないという事は、本当にこの場からいなくなってしまったのだろうか。

「そんなこと、何を根拠に」

「"ダチア"よ」とカイリは遮った。

 そう言われてアケビの脳裏によぎったのは外車の車種だったが、それを示しているわけではないという事だけは伝わった。

「今朝、交通部の若手が死体であがったわ。現場にはネクタイトの破片とシンナー臭……遺体の損壊具合から、ブカレストより国際指名手配されている"ダチア"の犯行だと推測されているわ」

「シンナー臭」

 あの塗料のような独特な臭いはそうだったのかと静かに納得する。

「まあそれも実際に姿を見て確信したわ。アナタが立ち会った事故の聴取を引き継いだのは、被害者に成りすましたダチアで間違いないわね。つまりどういうわけか"桐生"とダチアは手を組んでいる」

「タ、『タランドス』ではないんですね?」

 そこが一番の懸念だった。カイリはアケビを一瞥し、続ける。


「まずないわね。はっきり言ってダチアは過去の国家に縋っているただのジャンキーよ。金で雇えるようなタマじゃないし、組織立った行動はまず不可能。手がかりを残してしまう時点で『タランドス』の構成員は務まらないわ」

 昨日と比べると、やけにすらすら物事を話してくれている事が気になった。意を決してアケビは切り出してみる。

「じゃあ、その"桐生"って人はいったい……」

 カイリの表情が曇る。だが浮かんでいる思念は拒絶ではなく、何かを悩んでいるようなものだった。

「それよりもまず、もっと重要な事があるわ」

「……なんですか」

 深刻な表情に気圧され、固唾を呑む。次にカイリはその口調を維持したままこう続けた。

「ここの家は客人に茶も出さないのかしら?」


 一階のキッチンでインスタントコーヒーを淹れ、カイリに振舞った。ダチアとの交戦による屋内の被害は最小限で済んだため、先ほどまでの出来事は夢だったのではないかと思えた。もっとも、まだ残留しているシンナー臭が、それが現実であることを物語っていたが。

「桐生という警察官は実在したわ。ただし、茨城ではなく東京のだけどもね」

 カイリはコーヒーを一口飲むと、アケビの反応を探りながら語り始めた。

「社会的にはあまり表沙汰にされていないけれど、アテクシやアナタのような能力者というものは少なからず実在するの。そういった手合いが起こす犯罪は立証が極めて難しいって事、アナタも知ってるわよね?」

 向かいの椅子に座ったアケビは静かにうなずいた。

「そういった不条理を防ぐための組織というものは存在するわ。アテクシも表向きには捜査第一課だけれど、ジッサイはそれとは違う部署が本業ね」

『まあ流石にどういう名前の課なのかは言えないんだけれども』

 カイリはまだ言葉を選んでいるようだった。話してくれているからといって油断していると、いつ手を引かれるか分からない状況に思えた。


「桐生もまたそれと似た組織の一員だったわ。もっとも数年前に気が狂って、今ではどこにも属さないただの犯罪者だけどもね」

「気が狂って……?」

「元々パーソナリティに問題があったのよ」

 呆れたように言いながら彼は続ける。

「あいつは能力者が憎くて憎くてたまらない。能力者ってだけで命を奪うような破綻者よ。見た目や物腰はフレッシュだけれども、ああいう融通の利かないところはアテクシのタイプじゃないわねえ」

「その……東京の桐生さんが、どうして茨城に?」

 カイリは逡巡しているようだった。アケビに話してもいいか、という点ではなく、そもそもあまり自信を持てない内容のようだった。

「……これはアテクシの憶測だから話半分に聞いてほしいのだけれどもね、今言ったようにあいつは能力者とあれば誰でも殺す破綻者よ。今でもあいつの被害に遭う人は少なくないわ。でもね、統計から見ると微差かもしれないけれど、あいつはより社会に食い込んだ能力者を優先しているようなの」

「──『タランドス』が狙いってことですか」

「言ったでしょ、憶測よ。でもネクタイトを売りさばく『タランドス』ほど分かりやすいカルテルは珍しいから……あいつらが来日した噂を聞きつけて、ここまで潰しに来たのかもしれないわ」

 しかしそれならば辻褄が合った。何故桐生がアケビにカイリの電話番号を渡したのか。何故ダチアをけしかけてアケビを殺そうとしたのか。カイリには分からないだろうが、アケビの中では既に半分答えが出かかっていた。


「さ、この辺で良いでしょう。お望み通り『桐生が何者なのか』、情報提供はしたわ」

 コーヒーを飲みほしたカイリが椅子から立ち上がる。

「アテクシ達が関わると妹さんにとって都合が悪いのでしょう?『タランドス』は金にならない事に固執はしないわ。さっさとその情報を渡して解放されてきなさい」

「カイリさん……」

「ただしこれっきりよ!」

 念押しするように、カイリは語気を強めてきた。

「もう金輪際『タランドス』とは関わらない事!桐生の事も、アテクシ達の事ももう忘れなさい。悪いけれど身内が殺された以上は組織を動かさざるを得ないわ。ダチアまで使ってアナタを殺そうとしたとなれば、もう一刻の猶予もないもの」

『一刻も早く桐生とダチアを排除しなきゃ……その足でタランドスも検挙すれば、漏れた情報も意味はなくなるし、アケビちゃんの安全は守られるわ』

 カイリの提示した折衷案は、『タランドス』とアケビの一件は目をつぶる代わりに、目下の脅威である桐生の対応を組織的に行うといったものだった。ただしこれは表向きのもので、彼は順次『タランドス』も対応する腹積もりでいた。事実上、アケビの希望に沿う事なく、茨城県警は動くと考えるしかなかった。

「……わかりました。ありがとうございます、高良さん」

「フン。アナタのお父さんに感謝する事ね。分かっていると思うけれど、事が片付くまでは大人しくしてなさい」

 そう言ってカイリは足早に家から出て行った。去り際に読み取った思念は、既に次の仕事の事で埋まっていた。


「イクコ」

『……』

 コーヒーカップを洗いながら話しかけるが返事はなかった。ダチアとの交戦中は已む無く会話していたが、当然アケビの事を許したわけではないようだった。

「さっきはありがとね」

 それでもアケビにとっては喜ばしかった。拳銃を持ったダチア相手に立ち向かえたのは、イクコの声と協力があったからこそだった。

『だいっきらい』

 憮然とした声色で吐き捨てられた。

『アケビなんてだいっきらい。ばか。無鉄砲。サイコパス。シスコン』

「……シスコンはイクコもでしょ」

『違うし。だいっきらい。アケビのことも、ぼくのことも、みんなみんなだいっきらい』

 相変わらず拒絶の色が強かったが、昨日の思念よりかは多少軟化しているのが窺えた。

「あたしはともかく、なんで自分のことまで嫌うの」

『アケビは心が読めるくせに、そういうところが鈍感なんだよ。ぼくがどんな気持ちでいると思ってんの』

 そういわれると返す言葉もなかった。

『自分の事なにもできなくて、アケビに頼るしかなくて、でも心が読める相手にそういう負い目を見せないように振る舞うのがどれだけ大変かなんて、考えたことないんだ』

「イクコ……」

『ぼくだって自分の立場くらい分かってるよ。ぼくだってアケビと一緒に生活したいよ。でもぼくが望めば望むほど、アケビは危険にさらされていくじゃない。あの時もぼくが望まなければ、お父さんだって死なずに済んだんだ』

 これまで沈黙していた分のわだかまりが、堰を切ってなだれ込んでいるかのようだった。

『思い出さないようにしてたのに、また同じことの繰り返しで……こんな事なら、あの時ぼくが死んでいればよかったんだ』


「それは違うよ!」

 何処へともなく声を張り上げた。

「それは違う。お父さんが死んだのはあたしだって哀しいよ。その上イクコも目を覚まさなくて、この先独りで生きていかないといけないのかと思うと……」

『……』

「でも、お父さんの『ネクティバイト』のおかげでまたこうして話ができるようになって……イクコとなら生きていけるって思ったもん。たった一日声を聴いていないだけでも実感したよ。あたしはイクコに助けられてる。イクコが居ないとダメなんだって」

 左手のバングルをそっと撫でる。窓から差し込む光が、表面に付着した水滴を通してオレンジ色に反射していた。

「イクコの気持ちも知らないで、無神経な事ばかりしてごめんね。傷口抉られているようなもんだよね」

 先日感じた違和の正体が分かった。水戸に来てすぐ訪れたイオノモール。あの時イクコは記憶が曖昧であるかのような受け答えをしていた。だが映像記憶と高い記憶力を併せ持つイクコが忘れているはずがなかった。イクコは意図的に意識しないようにしていたが、アケビがこれまで繰り返してきた数々の無謀な行為は、否が応でも陰惨な過去を想起させていたのだ。


『……そんな困ったような顔しないでよ』

 イクコの声は、どこか吹っ切れたような清々しさがあった。

『それで、高良さんからはフラれちゃったわけだけど、これからどうするの?』

「イクコ……?」

『どうせまだ手は残ってるんでしょ?言ってみなよ』

 アケビは躊躇った。イクコの言う通り、カイリとの会話でまた新たな道筋が見えてきていたが、それを口にすることはイクコの神経をまた逆撫でしてしまうのではないかと恐れていた。

「……桐生と直接会う。あたしの憶測通りなら、それでアケビを助ける事ができるかもしれない」

『わあ、それはまた……今度こそ殺されちゃうかもね』

「イ、イクコ大丈夫?」

 あまりにもあっけらかんとした返事を受け、逆に心配になった。怒りが臨界に達して一周回ったのではないかと。

『今更でしょ。どうせぼくが止めても無茶するんだし……ぼくが意地張っても、結局アケビが危険な目に遭ってたら手を貸しちゃうんだから。なら開き直って初めから協力した方が良いじゃん』

「でも、そのなんていうか……辛いんじゃない?」

『辛いよ。すごく辛い。でもなんだろ、辛いのはアケビも一緒なんだなーって、この一日で分かったからさ』

 アケビが疑問符を浮かべると、イクコはくすくす笑いながらおどけた口調で続けた。

『いやーちょっと見てられなかったなー。妄想の内容は口から出ちゃうわ、鏡に向かってぼくの名前呼んじゃうわ、傍から観たら完全にアブナイ人だったよね』

「わーっ!ちょっとちょっとやめて!」

 比喩ではなく本当に顔から火が噴きそうだった。イクコの声が聴けなくて精神的に参っていた事は事実だが、それを本人の口から言及されるのは拷問以外の何物でもなかった。


『ふふ。まあ、だから信じるよ。"おねえちゃん"にはぼくが居ないとダメなんだってところはね』

「もー……勘弁してよねほんと」

 熱くなった顔を手団扇であおぐ。顔を洗って冷やしたいくらい火照っていた。

『それで、桐生に会うっていってもアテはあるの?』

「多分あそこに行けば会えるってところはあるけど……ちょっとその前に確認しておきたい事があるかな」

『確認?』

 時刻はまだようやく十一時を回ったところだった。予定より早くカイリと会話ができたため、少しばかり時間の余裕がある。カイリには大人しくしているように言われたが、アケビは早速外出する支度を整える必要性を感じていた。

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