第2話 カフェ・マロニエ
共有できるのは思念と視覚のみ。アケビとイクコは常に共に有り、同時に常に単独だった。その生活は不便極まりないが、そんな中でもより良く過ごせるための工夫は最大限に凝らしていた。
『おねえちゃん、アレ忘れてるよアレ』
「おっとアブナイ。ありがと」
朝の支度をしているアケビは、慌てて靴箱の上に置いているワイヤレスイヤホンを装着した。このご時世、誰もが使用している小型マイクと一体型のそれは、スマートフォンと併用する事で歩行しながらのフリーハンド通話が可能となる。端的に言えば、これさえ身に着けていれば路上でイクコに話しかけても、独り言だと思われなくなるという利点があった。
『でもこれ通話してない事バレたら余計アブナイ人に見えるよね。おねえちゃん怪しい~』
「誰のせいだと思ってんの」
イクコの軽口をあしらいながら、新品の布マスクを一枚ポケットに入れた。学校の中など、ワイヤレスイヤホンが使えない状況下で已む無くイクコと精密な会話を行う時、口元を隠す事ができる布マスクは重宝していた。
思念のやり取りには必ずしも声を必要としないのだが、無意識下のノイズに邪魔されないよう伝えるには発声するのが最も確実な手段だった。
『あと今日はアレがいいな。ソルトアウト!』
「またぁ?ほんと好きね」
ソルトアウトはイクコが好きなヒップホップバンドだった。通話の代わりにスマートフォンからイヤホンへ流すのは、彼女が特に気に入っているアルバム。音楽を直接聴くのはアケビだが、《レット・ミー・ヒア》を通じて、その音やアケビのテンションなどをひっくるめた総合的な思念がイクコにも届く。つまりアケビが音楽を聴けば、イクコも楽しめるということだった。
アケビには五感があっても、今のイクコには視覚と聴覚しかない。その片方を充足させる事は、姉妹の奇妙な生活を続ける上で何よりも重要なことだった。
「じゃあ、行こっか」
『うん!すっごいたのしみ!』
テネシィと出会ってから数日が経過し、転居後の事後手続きは概ね完了していた。比較的余裕ができてきた日曜の早朝、イクコと出かけることにしていた。
「久しぶりだもんね、デート」
『色々あったもんね。ネット回線の開通、おねえちゃんが手続きしくじったり』
「おかげで今月の通信量もうヤバイわ。向こうWi-Fi繋がってるといいんだけど」
『カフェならともかく、美術館だからどうだろうね』
移動手段は自転車しかないため、日が上って暑くなる前に到着しておく必要があった。ラップパートのリリックが特徴的な曲をバックグラウンドミュージックにして、アケビは力いっぱいペダルを踏んだ。
到着した頃には開館時間が差し迫っていた。入館の手続きで一人分のチケットを高大生金額で購入する。
『なんか得した気分だね』
「二人分払ったら逆に怪しい目で見られるっての」
建物の外観や、エントランスの造りに多少の見覚えがあるのは、アケビが幼少の頃連れてこられた記憶があるからだろう。だが、わざわざイクコにそれを告げる程の思い入れはアケビにはなかった。どちらかといえば、この手の美術品に目が無いのはイクコの方だった。
クロード・モネ、ピエール・ボナール。立ち並ぶ数々の絵画は素人目に見ても美しく、繊細で、時に迫力のあるものに見えた。言い換えれば、アケビはそれくらいの月並みな感想しか持てなかった。自然と意識は絵画そのものではなく、先ほどから沈黙しているイクコへ向く。
「……大丈夫?イクコ。退屈じゃない?」
『何言ってんの。楽しいに決まってるじゃない。……あっ、ちょっと歩く速度落として!』
単に見入っているだけのようだった。彼女が
『ちょっとおねえちゃん!きょろきょろしないでよ!』
「あ、ごめん」
『まったくもー落ち着きがないんだから』
肖像画の少女は常に一点を見据えているが、アケビもまた同じように自由がなかった。
「イクコはさ、将来こういうの描けるようになりたいの?」
『まさか。ぼくにはとても無理だよ。でも、そういう関係の仕事はしてみたいなーって考えてるよ』
「昔っから絵描くの好きだったもんね。ノートにほら、なんか漫画みたいなものとか描いてたし」
『え?ちょっと』
「なんだったかな……ドリームナイト・プレアデスだっけ?藍色の甲冑着たイケメンの」
『ちょっとちょっと!なんでおねえちゃんがそれ知ってるの!』
「おねえちゃんに隠し事はできないのだー」
『ぼくが入院してる間に漁ったでしょ!サイテー!信じらんない!』
「だ、大丈夫だって。中身まで読んでないって」
イクコはアケビにはない独特のセンスを持っていた。豊かな感受性だとか、想像力もそうだが、一度見たものを忘れないため、模写の技術が特に秀でていた。以前一度どうすれば同じように描けるのか聞いたことがあったが、その時の答えは「見たままに描いてるだけ」とのことだった。
あとから知った事だが、イクコは映像記憶の持ち主らしい。一度見たものを映像として保存し、いつでも引き出せる類まれなる記憶力が、その技術をバックアップしているのだろう。
「……あれ?」
そこまで考えて、アケビは引っかかりを覚えた。何かがちぐはぐになって、矛盾しているかのような感覚。だがそれがいつ、どういった物事に対して覚えた違和感なのかまでは分からなかった。
『どうしたのおねえちゃん。この絵が気になるの?』
気が付けば、アケビは歩く足を止めていたようだった。目の前には、これまでの肖像画や風景画、静物画とは一線を画した、抽象的かつシュールな絵画が広がっていた。
「……『花売り』?」
そう題された一枚の絵を、アケビはお世辞にも巧い絵だとは思えなかった。人間の肌とは思えない極彩色の補色が、本来ありえない箇所にある輪郭の稜線を隔てて、不規則な文様が塗りたくられている。全体のまとまりとして、それが顔であり、それが首であり、それが肩であることは伺えるが、個々のパーツはまず間違いなく写実的ではない。それでいて、サイコロの二の目が見えているのに、"五の目"も同時に映っているような独特の奇妙さは自然と惹きつけられるものがある。波紋状の視覚化された太陽エネルギーと、平面化された背景とが合わさって、最終的に得たアケビの感想は。
「ナニコレ」というものだった。
「キュビズムというものだよ」
問いに答えたのはイクコではなく、見知らぬ男性の声だった。絵画からあまり目を離せないという都合上、今の今まで気づかなかったが、すぐ隣に彼は立っていたらしい。日本人離れした輪郭とブロンドの髪が特徴的の中年紳士といった見た目だったが、日本語は流暢そのものだった。
「あっ、すみません。うるさいですよね」
「いや結構。急に話しかけてすまないね。随分熱中しているようだったから気になってついね」
「は、はあ」
実際、彼はブツブツ呟いているアケビに目くじらを立てて声をかけた様子ではなさそうだった。顔色に余裕が感じ取れた。
「年代によって傾向や解釈は異なるが、キュビズムを一言で表すなら造形の革命といったところだろう」
「革命……」
「それまでの透視図法を否定した画法であるからね。いろいろな角度から見た形をひとつの画面に収めているかのようだろう?」
先ほどまで空想していた、展開されたサイコロが想起される。
「言われてみればそう……ですね。じゃあやっぱりこれもスゴイ絵なんですね?」
「そう捉えるかどうかはキミがどう感じたか次第だ。そこが絵画の良いところだと、私は思っている」
アケビは男性から目を離し、再び絵画を見上げた。造形の革命とまで言われると、途端に凄まじく価値のある絵に見えてきた。だがそれはこの男性から得た見解をもって補正された感想であり、アケビが率直に感じ取ったものではない。
「キミの精神の旅に善き極点があらんことを。チャオ ムヘル・ボニータ」
「……えっ?あっ」
振り返った頃には、彼は既に踵を返して違う展示物へ向かっていた。
『なんだか変わった人だったね。スペイン語……外国人かな』
「最後なんて言ってたの?」
『またね、かわいい人 って意味だと思うよ』
「……あたし、外国人にナンパされたの初めてかもしれない」
『おねえちゃん相当幸せなアタマしてるよね』
イクコが満足するまで一通り回った頃には、足が棒になりかけていた。時間も正午まで三十分を切っていたため、美術館の傍にあるカフェ・マロニエで一服することにした。
「はーもう足がくたくた」
『体力落ちたんじゃない?』
「まさか。毎日チャリ漕いでんのよ?イクコが必要以上にゆっくり歩かせるせいだって」
一人しかいないが、客がほとんどいなかったため、案内されたのはボックス席だった。シートを広々使って座り、メニューを広げる。
「イクコ何にする?あ、食べられないんだっけー」
『おねえちゃんそればっかだよね。さっきの人じゃあないけど、もう少し教養を身に着けても良いんじゃない?』
「あ、白桃サンデー、あたしこれにしよーっと。すみませーん」
イクコの煽りを無視して通りかかった店員に声をかける。だが目線を上げた先に居たのは店員ではなく、先ほど美術館で出会った紳士だった。
「あっ、す、すみませんあたしったら」
「……また会ったね。相席良いかな?」
「えっ?」
アケビは反射的に周囲を見渡した。空席はいくらでもあり、わざわざ相席を取る必要はない。だが柔和に微笑む男性を呼び止めたのはアケビ自身である手前、なんとなく断りにくい空気が生まれていた。
『うわ、ほんとにナンパだったんだ。いいじゃんおねえちゃん、オーケーしちゃえば?』
「ど、どうぞ」
「グラシアス」
向かいのシートに男性が座り、店員を呼んでくれた。
「アイスコーヒーと……白桃サンデーでよかったかな?」
「は、はい」とアケビ。やはり聞かれていたようだった。
「じゃ、じゃあそういうことだから一旦切るね~」
通話を切断するようなそぶりを見せてから、ワイヤレスイヤホンを外した。
「おや、良かったのかね?団欒のひとときを遮るつもりはなかったのだが」
「い、いえ。向こうもこれからごはんにするみたいだったので」
『たべられないけどね』
「ふむ」
男性は相槌を打ちながら、アケビの隣に置いてある袋を一瞥した。イクコへのお土産として画集を一冊買っていたのだ。
「キミも画集を?」
「あ、はい」
「いいね。私も一冊買ったんだ。エドヴァルド・ムンクのものをね。キミのは?」
「えっと……パブロ・ピカソ」
「ほう!」
彼と出会った時に見ていた絵画も、パブロ・ピカソのものだった。勿論彼もそれを知っているのか、興味深そうに自身の顎に手をあてた。
「キミはユニークだ。ピカソがお好き?」
「いえ、好きというか、正直なところよくわかんないんですけど」
「そうだろうね。では"あの絵"から何かキミだけの感想を得られたのかね」
アケビは答えに窮した。この画集に惹かれたのは事実だが、その源泉となる感想が自分のものなのかどうか、まだ答えは見つかってなかったからだ。
「得られたようなそうじゃないような……いえ、すみません。多分あなたの"革命"という言葉に惹かれたんだと思います」
率直な意見を言った。自信を持って説明できない時点で、恐らくこの興味は彼の言葉によって装飾されたものに過ぎないのだろう。もし彼と出会っていなければ、この画集は買っていなかったかもしれなかった。
「何も謝ることはない。革命史がお好き?」
「いえ、勉強は苦手で……」
「ではキミ自身の心が"革命"という二文字に強く焦がれているというわけか」
心臓が高鳴った。単なる消去法から、それらしい答えを当てずっぽうで言われただけだったのだろうが、その言葉にはアケビ自身がその渇望を強く再認識する作用があった。
「本当にユニークだ。もしそうならキミは私と同じということになるのだから」
「同じ、ですか?」
「先ほどは偉そうに講釈を垂れたが、実のところ私も一般常識程度にしか絵画の事は知らなくてね。仕事の息抜きがてら、インスピレーションを求めて訪れたわけだが、奇しくもキミと同じ地点で足を止めたのだよ」
店員がアイスコーヒーを持ってやってきた。彼はそれを受け取ると、コーヒーフレッシュの蓋を開けながら続けた。
「もしかすると、求めている"極点"まで同じかもしれない。キミ、ちょっと手伝ってもらえるかね?」
「え、いいですけど」
アケビが答えると、彼は自分が購入したエドヴァルド・ムンクの画集をアケビに手渡してきた。
「えっと……?」
「その中に『太陽』という画があるはずだ。さがしてくれないかね」
そういうと彼はコーヒーフレッシュが入って色の変わったアイスコーヒーをストローでかき混ぜはじめた。続けてガムシロップが投入される。
言われたとおりに索引を引いてページ数を調べる。その間に彼はふたつ目のガムシロップを入れ、混ぜながらさらに三つ目のガムシロップを入れていた。それでもまだ飲み始めない。彼は追加のコーヒーフレッシュにも手を伸ばしていた。
『ものすごい甘党?』
その光景に目が滑り、なかなか索引を見つけられない。そうしている内にもガムシロップとコーヒーフレッシュのミルフィーユは層を増やしていき、グラスに八分目程度だったアイスコーヒーが、今や溢れそうになっている。
「あ、ありました!」
アケビがそう言うと、彼は六つ目のガムシロップを投入しようとしたところで手を止めた。黒かった液体は乳白色になり、表層まで浮いてきた透明なシロップはグラスの表面張力によって辛うじて支えられていた。
『ギリギリセーフ』
イクコの茶々入れを聞いてほっと胸をなでおろす。そしてようやく、手元の絵画を見る余裕ができた。
「わっ──」
中央に浮かぶ眩しいまでの太陽が、明るい空と海とを放射状の光で貫いている。左右対称の照らされた色にも、他のページに掲載されていた不安を煽るような色合いは使われていない。色遣いは華やかで、タッチは荒々しく、力強かった。アケビはそこから、一種の神々しさと同時に、安心に似た感情を得た。
「フィヨルド海に浮かぶ太陽。彼が晩年オスロ大学に描いたとされる壁画だ」
「すごい……ですね。ムンクっていうと『叫び』くらいしか知りませんでしたけど、これは」
男性は恐らくとてつもなく甘くなっているであろうアイスコーヒーをストローで吸い、満足そうに肩の力を抜いた。
「彼の家庭環境や人生観をもって、作品の傾向が変わりつつある事を説明付けた諸説はいくつもある。その作品が闘病の成果なのか、習慣を変えた結果なのか、私はその点について論じるつもりはない」
話を聞きながら、アケビはその絵画の釘付けになっていた。
「いずれにせよ、彼は自らの精神の旅に打ち克ち、善き"極点"に辿り着いたのだと私は考えている。内なる革命の末に、安心と安定の日常を得たのだ」
「革命……日常」
「私という一個人の感想に過ぎないがね」と彼はことわりを入れて、上体をテーブルの上に乗り出した。肘をつき、組んだ五指に顎を乗せ、アケビを至近距離からまじまじと見つめてくる。
「な、なんですか」
「実際、私が望んでいるものこそがそれだ。私は現状に満足していない。自らに内なる革命を起こし、より充足した日常を求めている。キミもそうなのではないかね?」
数日前にアケビが決意した事をぴたりと言い当てられていた。イクコとの合意はまだ取れておらず、あの夜から有耶無耶になっているままだが、一時的な興奮から口走った世迷言でないことは確かだった。
黙っていると、彼はそれを肯定と受け取ったのか、笑い皺を深めてシートの背もたれに身を預けた。
「……なるほど納得だ。キミの事はよく分かったよ──"アケビ"くん」
血の気が引く感覚に息を呑んだ。それと同時に、視界の端に白桃の乗ったパフェが見える。店員が持ってきてくれたのかと思いそちらを一瞥すると
──テネシィが軽薄な笑みを貼り付けて立っていた。
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