オペレーション:ネクティバイト

つくもしき

オペレーション:ネクティバイト

本編

第1話 ジェミナイ・シーカー

 割れた窓ガラスから、刺青の入った太い腕がぬっと飛び出ていた。ねじ曲がったガードレールの傍らで横転しているバンからは燃料が漏れており、いつ引火してもおかしくはない。

 ようやく事故現場にたどりついたアケビは、自転車から降り数歩近づく。本能が警鐘を鳴らし、それ以上近づく事は躊躇われた。しかし、アケビは同時に見た。散乱した鉄板の破片やガラス片にまみれて、恐らくはケースから飛び出た宝石のひとつが、日光に照らされて赤錆色に煌めいているのを。

 焦げたような匂いと微かな血臭でむせ返りそうになるが、アケビはさらに数歩近づく。距離と心臓の鼓動が比例して高鳴るのを感じながら。




『水戸まで来てイオノモール?信じられない!』

 非難の声を無視して、カップの中に入っているダブルアイスクリームにスプーンを通し口へ運んだ。早朝から自転車を休みなく漕いで火照ったからだに、白桃とクリームの甘味が染み渡る。

「休憩だってきゅ・う・け・い。ぶっ通しじゃ持たないってば」

 ベンチに腰掛けたまま、鉛のように重たくなった足を上げる。張って固くなった腿はうっすら熱を持っており、クールダウンが必要なのは明白だった。

『ぼく途中で何度も言ったよね。あそこのカフェおしゃれだよねーとかそういうの。だから女子力ないんだよおねえちゃん』

「あのねイクコ。この大荷物をそのおしゃれなカフェに持ち込むの?」

 ベンチの隣には、アケビの背丈の半分くらいに膨れ上がったリュックサックが置かれている。小ぢんまりした個人経営にカフェには邪魔になりかねないサイズ感だった。

『ミニマリストっぽくていいじゃない。店員さんだって慣れっこだよきっと』

「あーそうですか。でも確かに勿体ない事したかもね。ああいう場所でイクコとデートってのも良かったかも」

『べ、別にぼくはそういう意味で!』と焦りだすイクコの反応に笑いかける。

「あたしはそういう意味で言ったんだけど」

『……ばかじゃないの』

 イクコが静かになった内に、溶けかけているアイスを食べてしまう。日が真上に出てしまってからはしばらく暑くなる。ひたちなかを抜けて水戸市まで入ったものの、ここから自宅までこの大荷物を運ぶ必要があるため、あまりのんびりはしていられなかった。

「でもこのイオノモールも久しぶりだよね」

『そうだっけ?』

「覚えてない?小さい頃、お仕事が忙しくなる前お父さんによく連れてきてもらってたじゃん」

『……そうだったかな』

 アケビにとってはつい昨日の出来事のようだった。現在地のちょうど真上辺りに駄菓子屋があって、家族全員で訪れた覚えがある。着色料が惜しげなく使われたたくさんのキラキラが姉妹を釘づけにして、帰る時間になっても泣いて両親を困らせていた。全てが懐かしく、アケビは思い出し笑いをする。少し間を開けて、イクコが口を開いた。

『じゃあ、おかえりなさいだね。おねえちゃん』

「……ん。ただいま、イクコ」

 あと少しで日常も帰ってくるだろう。アケビはそう信じ、リュックを背負って立ち上がった。

『ふらふらしてるじゃん。大丈夫?』

「ん、まあ、多分」

 あと少しの辛抱だと、アケビは自分に言い聞かせた。



 見慣れた二階建ての一軒家だった。広くは無いが庭があり、剪定された灌木が生垣の役割を担っている。ガレージの中は空車で、ポストの中にはいつのだか分からない新聞が詰め込まれている。日は既に傾きかけていた。何度か休憩は取ったものの、ほぼ丸一日走り詰めだったため全身が悲鳴をあげている。

「はあ、やっと着いた」

『おつかれさま、おねえちゃん』

「ほんと疲れた。正直今すぐ寝たいとこだけど」

 鍵を開けて扉を開く。外から舞い込んだ風が、床にうっすら積もった埃が舞い上げた。

「……そういうわけにもいかないよねコレ」

『がんばれっがんばれっ』


 結局一息つけたのは久々に訪れた自宅の掃除を終えた後で、その頃には日はとっぷり暮れていた。換気のためにリビングの窓を全開にして、カーペットに大の字で転がっている。

「イクコー」

『何?』

「今何時?」

『二十一時前かな』

 もう体は一ミリも動かないが、まだやるべきことは終わっていなかった。しかし身体の限界よりも先にタイムリミットが訪れたようだった。

「病院、頼み込めばまだ間に合うかな」

『明日で良いよ』

「……」

『泣かないでよ。しょうがないじゃん』

「は?泣いてないし」

 最後の気力を振り絞り、起き上がる。

『どこいくの?』

「シャワー浴びる。汗だくできもちわるい」

『大丈夫?一緒にはいろっか?』

「すけべ」

 イクコを放っておき、脱衣所に向かった。泣いてはいない。しかし酷い顔をしているのは鏡を見て自覚した。汗をたっぷり吸った衣服を脱ぎ捨て、ひんやりしたタイルを踏む。お湯を出すには蛇口をひねってから数秒間待つ必要があることを、アケビはしっかり覚えていた。

「明日も忙しくなるなあ」

 熱い湯を浴びながら、アケビは明日やるべきことを順番に整理していた。まず病院に行く。これはマストで、最優先事項。

 次に役所と郵便局へ届け出。学校に報告。ガス会社・水道局へ連絡。荷ほどきは余裕が出来てからでも遅くないだろう。


『おねえちゃん』

「うわっ、びっくりした」

 ドアのすぐ向こうからイクコの声がした。シャンプーを中断し、湯を止める。

「なに?イクコ」

『あのね、お父さん達の事なんだけど』

 ばつが悪そうに言いよどむのは、イクコにしては珍しかった。それだけに彼女が何を言わんとしているのか、アケビには容易に予測できた。

「分かってるよ。妙な事は考えない」

『ほんとうに?ぼくにはもうおねえちゃんしか居ないから』

「あたしもそうだよ。イクコがあたしの全てだから……これからはイクコの事を第一に考える」

 すりガラスに手を添え、向こう側のイクコに答える。本心だった。叔母の制止も顧みず、この家に戻ってきたのも、全ては双子の妹であるイクコのためだった。

『それは嬉しいけど……ぼくとしては』

「っくしゅ!」

 くしゃみがイクコの声を遮ってしまった。

『だ、大丈夫?』

「うん……ちょっと冷えたかも」

 再びシャワーを浴び始める。身体をあたためなおす必要があった。

『明日も大変だろうけど、無理はしないでね』

「うん、ありがと」

 しかし、果たしてかつての生活を取り戻せるのか、甚だ疑問だった。あの時とは状況が何もかも変わっており、アケビもまたそれを自覚していた。ただやるべきことを成すだけでは不足であることも重々認識していた。その一方で──では何をすれば良いのか、肝心な点についてはまだ何も思いついていなかった。



 翌朝、アケビはまだ日が昇る前から支度を整え、ガレージに入れていた自転車を引っ張り出した。この時間からではまだ病院はあいていないが、一刻も早く行く必要性を感じていた。

『おはよう、おねえちゃん。早いね?』

「うん。あんまり眠れなくて……目覚まし代わりにいいかなって」

『朝ごはんはどうするの?』

「途中でコンビニ寄るよ」

 荷物が無い分、昨日の引っ越しに比べれば随分とペダルが軽かった。筋肉痛であまり身体が動かないことを差し引いても自転車はすいすい進み、まだ人通りの少ない道路を我が物顔で滑走できた。

 涼しい風を楽しんでいる内にコンビニが見えてきた。客はまだ少ないのか、駐車場には黒いバンが一台停まっているだけだった。ドライバーと思しき男性二人がすぐ傍で煙草を吸っている。

「おい、そこの女」

「はい?」

 自転車を停めて店に入ろうとした矢先、男性に呼び止められた。外国人のような風貌だが、日本語は流暢だった。

「ついでに酒買ってきてくれや。エサヒのロング缶でいいからよ」

 ぞんざいで不躾な物言いに、アケビは腹を立てた。明らかにドライバー側に立っている彼にとっては飲酒運転にあたるとか、そもそもそんなことをしてやる義理はないとか、そう言った感情を飲み込んで毅然と返す。

「無理です。あたし未成年なんで」

「へへっ、そんなでけえ乳ぶら下げてりゃ立派な大人だぜ。自信持てよ」

 朝のさわやかな気分がぶち壊しだった。このまま何も言わずに引き下がるのは癪だと思ったアケビは、何か彼の秘密のひとつやふたつでも暴露して、狼狽させてやろうと考えた。

 それをどのように実現するかは問題ない。"手段"は既に、アケビの影を通して顕現していた。


 目元まで覆う夕焼け色の髪に群青の肌。男性型を模すアケビの異能具現体アイドルは、アケビ自身の影にぺったりと張り付いて、二次元上から無礼な男を捉えていた。アケビは心中でその名前を呼ぶ。


 《レット・ミー・ヒア》と。


 するとアケビの視界は補色に反転し、現実には聞こえていないはずの彼らの声がハウリングしてきた。アケビが持つ能力レット・ミー・ヒアは視界に入った者の思念を読み取る。意識の表層から言語化された情報を得るものだった。


『ほんとカラダだけはバツグンじゃねーか』『ジャパニーズも悪かねえ、悪かねえな、へへっ』『マリファナ吸いてえなあ』『金がねえ。腹減った。金が入ったらまずは酒だな』『仕事中じゃなけりゃあなクソッタレめ』


 少し読み取っただけでもこの男がロクな大人じゃない事は読み取れたが、フェイタルな秘密やコンプレックスと言ったものは今のところなさそうだった。アケビは《レット・ミー・ヒア》を通してさらに深くまで読み取ろうとした。

『クソが、日差しが出てきたせいか騒いでやがるな。時間がねえ』『五分以内に車を出すしかねえか』『あのネクタイト、全部捌いたらどれだけの儲けになるんだろな』


「えっ……?」

 狼狽したのはアケビの方だった。視線が泳ぎ、男が視界から外れた事で能力は中断される。アケビはそのまま踵を返し、店内へ逃げ込んだ。

『大丈夫?おねえちゃん』

 様子がおかしいことはイクコも察してくれているようだった。だがアケビは今、どうするべきか考えることで精いっぱいだった。思ってもみなかった単語の流出は、ともすれば病院に行くという最優先事項を塗り替えてしまう。突然舞い込んできた好機に恐れと焦りは募る一方だった。

『おねえちゃんってば』

「…………イクコ。今すぐ《ジェミナイ・シーカー》であいつらを追跡して」

 《ジェミナイ・シーカー》はイクコが持つ千里眼の能力であり、目から目へ感染した眼球の視野をジャックするものだった。

『は?正気?なんでそんなことする必要が』

「あいつらネクタイトを持ってるかもしれない。早く。五分以内に車を出すって言ってたから」

 そうこうしている内に車のエンジン音が聞こえた。アケビは何も買わず店から飛び出たが、バンは既に駐車場から出るところだった。

「どう、イクコ」

『間に合いはした……けど……これからどうするつもり?まさかとは思うけど盗むなんて言い出すんじゃ』

「そんなことするわけないじゃない。誰とどういうやり取りしていたかさえ分かれば……あたしたちも買えるかもしれないじゃん」

 自転車に乗り、出発する。ただし行き先は病院ではない。

「というわけでナビゲートよろしくね、イクコ」

『ほんと無鉄砲なんだから……危ないと思ったらすぐ撤収するからね』


 あの男達を追跡する必要があった。速度では勝てないが、イクコがナビゲートしてくれる限りどこまでも追跡できる。とはいえ思い切った行動であることに変わりはなかった。アケビの心音が高鳴っているのは、立ち漕ぎの連続で疲労が蓄積しているからではない。不安と同じ大きさだけ、期待も膨らんでいた。

 いっその事、追跡を断念せざるを得ない事態が起こってほしいとさえ思った。それでもペダルを踏む足の力が緩まないのは、イクコのナビゲートを注意深く聞き漏らさないのは、全ては彼女のためであり、ひいてはアケビ自身のためでもあった。


『えっ、ちょ……っと!』

「どうしたのイクコ」

『あっ、うそ!なん……!』

「もういいイクコ!《ジェミナイ・シーカー》を戻して」

 T字路を右折した直後、信じられない光景が広がった。男達が乗っているバンが急に左へブレたかと思えば、そのままガードレールに接触した。火花を散らしながら惰性で十数メートル走行しただろうか。最後は縁石に乗り上げ、大きく跳ねた後に横転してしまったのだ。

「うそ──イクコ!だいじょうぶ?イクコ!」

『う、ううん……なんとか間に合った、けど』

 事故現場まではまだ距離があるため、アケビは自転車を漕ぎ続ける。だが意識はすっかりイクコの方に向いていた。

「なにがあったの」

『ぼくは助手席の男にジャックしてたんだけど……運転してたあのセクハラ男が、いきなりこっち見て何か喚き散らして……』

 イクコが感染させられるのはあくまで視力だけであるため、近くに居なければ何を言っているのかまでは聞こえない。だが、アケビには何となく彼が何を喚いていたのか、分かるような気がした。

『ぼくの目に……仲間の目に思い切り目つぶしを仕掛けてきたの。咄嗟にそいつの目に感染させて逃げたんだけど、いきなりの事だったから加減できなくて視界シェイクしちゃって……』

「大丈夫。イクコのせいじゃない。多分あいつ、仲間がジャックされている事に気づいてたんだよ」

『ぼくたちと似たような能力を持っているってこと?』

「ネクタイトを取り扱ってるなら十分にありえるんじゃないかな……とにかく行ってみないと」

 そういうと、それまで微かに震えていたイクコの声がけたたましくなった。

『は?なにいってんの!あいつらぼくがジャックしてた事に気づいてたんでしょ?あぶないよ!やめようよ!』

 イクコの指摘はもっともだった。彼らの立場ならこの状況で一番最初に近づいてきた人物を疑うはずだった。ましてや一度出会った女が追いかけてきたとなれば、偶然同じ道を通りがかったと思ってくれるほど呑気な相手ではないだろう。

「わかるよイクコ。でも、イクコだってもうこんな生活はたくさんなんじゃないの。少なくとも、あたしはそう」

『……でも、おねえちゃんの身に何かあったら』

「大丈夫。無茶はしないから。危ないって思ったら、すぐ逃げるから」

 イクコはしばらく黙っていた。そうしている間にも事故現場までの距離は近づいてくる。

『約束して。絶対無事に帰ってくるって。ぼくのために』

「うん。あたしだって、イクコの手を握れなくなるのはイヤだからね」

 

 割れた窓ガラスから、刺青の入った太い腕がぬっと飛び出ていた。ねじ曲がったガードレールの傍らで横転しているバンからは燃料が漏れており、いつ引火してもおかしくはない。

 ようやく事故現場にたどりついたアケビは、自転車から降り数歩近づく。本能が警鐘を鳴らし、それ以上近づく事は躊躇われた。しかし、アケビは同時に見た。散乱した鉄板の破片やガラス片にまみれて、恐らくはケースから飛び出た宝石のひとつが、日光に照らされて赤錆色に煌めいているのを。

 焦げたような匂いと微かな血臭でむせ返りそうになるが、アケビはさらに数歩近づく。距離と心臓の鼓動が比例して高鳴るのを感じながら。

「──おい、そこの女」

 窓から突き出た腕が、アケビの足首を掴んだ。

「うわっ!」

 もがいて逃れようとしたが、想像以上に彼の膂力は強く、びくとも動かない。

「救急車はもう呼んだのか」

「えっ……い、いや、あっ、すぐ呼びます!」

「いや、それならいい。ちょっと手だけ貸してくれねえか」

 アケビは誘惑に駆られた。彼が車内から脱出するには、確かにアケビの助力が必要だった。言い換えれば、今ならばこの男を沈黙させ、運搬物を全て手中に収める事だってできるということだった。

 生唾を呑み、手を差し出してくる彼を一瞥する。彼を自由にした途端、こちらが攻撃を受けてしまうかもしれない。イクコとの約束を反故にするわけにはいかない。今のうち。今なら勝てる。今なら奪える。今なら。


「テネシィだ」

「……へ?」

「俺の名前だぜ。へへっ、よく見りゃあんたさっきコンビニで……縁があるじゃあねえか」

 気が付けばアケビは、テネシィと名乗った男に手を貸していた。割れた窓を通してへしゃげた車体から引きずり出す。

「も、もう一人居ましたよね。そちらも早く助けないと」

「いーやダメだ、もう死んでるぜ。全くツイてねえ。つくづくツキがねえ。少し油断すりゃこれだからな」

『死ん……』

 イクコが言いよどむ。無理もないことだが、ショックを受けているようだった。潰れたフレームのせいで見えないが、車内にはアケビとイクコが追跡した事によって生まれた死体がある。直接手を下したわけではないが、その事実を即座に咀嚼することはできなかった。

 テネシィは二人が茫然としている間に、トランクの鉄板を引きはがし、丁寧に梱包されたケースを回収していた。足元に落ちている宝石もしっかり拾って、こちらに振り返ってくる。

「こんなもんか。ほとんど割れてねえだけでもまだ"マシ"だったぜ。おい女、名前なんて言うんだ」

「えっ……ア、アケビ」

『ちょっ、おねえちゃん?』

 あまりにも軽い口調で訊かれたため、咄嗟に答えてしまった。先ほどテネシィが名乗った時もそうだったが、彼はこの状況において、アケビを全く疑っていなかったのだ。念には念を入れて《レット・ミー・ヒア》で思念を読んでみたが、アケビに対する興味はほとんどない。テネシィがこちらを警戒していなさすぎるため、アケビもまた警戒が緩んでいた。


「ア、ケ、ビ。アケビか。よし、アケビ。これから重要な事をふたつばかり言うから耳かっぽじってよく聞いとけ」

 テネシィは血まみれの額を拭う事もせず、薄笑みを浮かべたまま続けた。

「ひとつ、ポリ公と救急車は呼ぶな。ひとつ、今日見た事は忘れろ。ひとつ、助けてくれた礼は後日必ずさせてもらうぜ」

「……みっつ言ってますよね」

「今増えたんだよ!クソうるっせえなイイ気になってんじゃあねえぜ!」

 とても助けられた者の態度ではなかったが、少なくとも彼はうそを言っていなかった。能力でも読み取れないくらい本心をひた隠すのが上手いか、あるいは何も考えていないかのどちらかとしか思えなかった。

「っと忘れてた。もうひとつ、その靴なんだがよ」

「靴?」


 視線を誘導され、俯いた瞬間、爆発したような風圧がアケビに襲い掛かった。とても立ってはいられないほどの衝撃に、思わず尻餅をつく。


『おねえちゃん!』

 イクコの声で我に返った頃には、テネシィの姿は影も形もなくなっていた。

「な、なにされたの?」

『わからない。ぼくも一瞬だったから……《ジェミナイ・シーカー》に見張らせてるけど、半径一キロ圏内にはもう居ないみたい』

 状況は全くつかめないが、少なくとも脅威は去ったようだった。

『もう、ほんとひやひやしたよ。いきなり本名言っちゃうんだもん。無事に終わったからいいものの』

「いや、まだ終わってないよ」

『まだ無茶し足りないの!ばかじゃないの?』

「そうじゃなくてほら、警察と救急車呼ばないと」

 前後の経緯は置いておいても、ここが死者の出た事故現場であることに変わりはない。テネシィは呼ぶなと言っていたが、呼ばないわけにはいかなかった。


 通報したのち、車両の後方に標示板と発煙筒を置き、アケビは歩道で待機する事にした。日が本格的に出てくると交通も増えてきて、道行く市民が奇異の視線を寄せてくる。

「……なんだかあたし達が事故起こしたみたいだね」

『間違ってないんじゃない?ぼくが殺したようなものだし』

「だーかーらーイクコのせいじゃないって言ってるでしょ」

『ごめんねおねえちゃん、ぼくこの歳にして早くも犯罪者になっちゃった』

 イクコは先ほどに比べて、自虐的な軽口を叩ける程度の元気は取り戻しているようだった。

「イクコが犯罪者ならあたしも犯罪者だよ。教唆したのあたしだし」

『えーやだな。ぼくどうせならおねえちゃんに逮捕されたい』

「あ、そういうプレイ?」

 二人でふざけて気を紛らわせているが、事実としてこの事故の原因を立証する術はなかった。アケビとイクコはこの車に一度も触れていないし、立場は事故を目撃し通報した一般市民でしかない。前方不注意の単独事故により一名が死亡。軽傷を負ったドライバーは逃走中。そういった名目になるだろうし、実際に後ほど駆けつけた警官にはそのように説明した。疑われる余地はない。イクコの能力は、それほどに強力で、危険な代物だった。


「はい、質問は以上になります。ご協力感謝いたします」

 柔和な笑顔が特徴的な警察官はバインダーにメモを取りながらそう締めくくった。茨城県警の交通機動隊である彼が提示した手帳には、"桐生"と書かれていた。

「しかし災難ですねえ。お引越し早々事故に立ち会われるだなんて。まだ事後処理も済んでらっしゃらないのでしょう?」

「はあ。ええ、まあ」

 警察官は呑気に世間話を始めているが、レッカー車や救急車はまだ到着していない。というよりこの現場に彼一人しかいない状況だったため、まだ事情聴取しか受けていない状態だった。


「あの、大丈夫なんですかね。なんか渋滞しはじめてますけど」

「ええご心配なく。間もなく応援が駆けつけますし、交通整理も順次行いますので。常盤さんは帰っていただいて結構です」

 さわやかに笑う警察官の後ろで、ひっきりなしにクラクションが鳴らされている。まるで大丈夫に見えないが、帰って良いと言われたからにはこれ以上此処にいる理由もなかった。

「すぐこちらで片付けますからねえ、ええ」

「そ、そうですか。じゃあ失礼します」

「あ、最後にひとつだけ」

 自転車を押して立ち去ろうとした矢先、警察官に呼び止められた。

「何か気になることがございましたら、こちらまでお問合せください。私桐生が承りますので」

 そう言ってふたつの連絡先が書かれた紙を手渡された。

「は、はあ。どうも」

 ニコニコと笑う桐生を置いて、アケビは今度こそ事故現場をあとにした。



『ぼくそんなに詳しいわけじゃないんだけどさ、警察ってああいった対応するのかな?』

「どうなんだろ。ドラマとかだと必ず二人一組だったよね」

『そうそう。それにそれ手書きの紙じゃん……なんか手間取ってたし、新人の巡査さんなのかも?』

「にしては落ち着いてたよね。イクコがおまわりさんの立場だとめっちゃテンパってそう」

 現場から離れ、本来の目的地へ向かう頃には、先ほどまで張りつめていた緊張感はすっかり解けていた。非日常から日常に帰ってきたかのようだった。

『でもぼくたち以外の能力者って久々に見たかも。最後のあのスゴイ風も多分テネシィの能力だよね?』

「多分ね。ネクタイトって聞いて、まさか!って思ったもん。惜しい事しちゃったな」

『おねえちゃんが無事なだけで十分だよ。ネクタイトが他にも実在するって分かっただけでもいいじゃん』

「……そうだね」

 しかし病院が近づいてくるにつれて、自然と口数も少なくなっていった。到着するやいなや何かに急かされるように受付へ行く。引っ越す前も月に一度はひたちなかから通っていたため、看護師も顔を見るだけですぐに察してくれた。


「イクコ」

『……なに?』

「早く会いたい」

『……うん』


 上りのエレベーターがとてつもなく遅く感じた。どこまでもどこまでも上へあがり、やがて雲を突き抜けて、一面に広がる青空の中で太陽に照り付けられるのではないかとすら思った。四階で止まり、ドアが開くのとアケビが飛び出すのはほぼ同時だった。

 酸っぱい匂いと薬品の香りが入り混じった廊下を走り、突き当りの病室を一秒でも早く目指す。早く。速く。もう十分すぎるほど待ったのだから。


 かくしてアケビは病室の扉を開け放ち、その先に眠っている者と対面した。


「──イクコ」

『おねえちゃん』

 イクコの声は、すぐ傍で聞こえる。


 だがベッドの上で横たわっているのもまたイクコだった。


 彼女はおよそ一年前、とある日からずっと昏睡状態だった。おぼつかない足取りで、一歩、もう一歩と近づく。アケビの声は、既に掠れていた。

「……ただいま、イクコ」

 応えるイクコの声もまた、湿っぽかった。

『おかえり、おねえちゃん』

 アケビの能力レット・ミー・ヒアは、対象がイクコの場合に限り、視界や距離を無視して思念の送受信が可能になっている。

 イクコの能力ジェミナイ・シーカーは、アケビの瞳に常時感染している。肉体は離れ離れになっていても、思念と視界は共有できる。それがこの姉妹にとって、現状唯一の救いであり、活力の源泉だった。

 アケビはベッドの前で跪き、イクコの白い手に五指を重ねた。壊れ物を扱うように、繊細に、慎重に指を絡め、その上からもう片方の手をかぶせた。

「……ねえ、感じる?イクコ。あたしのきもち、あたしの感触」

『うん、うん。おねえちゃんの手、すごくあたたかい』

 勿論、イクコの触覚を処理できるほどの余裕はイクコの脳には無い。だがアケビが感じている熱と感触を、思念に変えてイクコへ届ければ、まるで互いに触れ合っているような、あるいはそれ以上の感触を共有できた。

 その多幸感は、可能な事なら一生こうしていたいと思える程だった。状況が許すならばイクコをこのまま自宅へ連れて帰っているだろう。


『ぼくね、すっごくこわかった。おねえちゃんがテネシィと話している時、気が気じゃなかったんだよ』

「うん、うん。ごめんねイクコ」

『どうしてあんなことするの。昨日妙な事は考えないって言ったばかりなのに。うそつき』

「イクコの言う通りだよ。おねえちゃん、焦ってたのかも。治癒のネクタイトさえ手に入れば…………こんな事しなくてもずっと二人で一緒に暮らせるんじゃないかって」

 イクコの頭を撫でながら、宥めるように言う。アケビはむろん、現状を良しとしていなかった。イクコもまたそうだろう。可能な事なら四六時中触れ合いたいし、同じものを食べ、自由に歩き回り、堂々と二人で対話したい。視覚と聴覚だけでは、あまりにも不足していた。

 だが、イクコの示すところはそこだけではなかった。


『──おねえちゃん、あの時テネシィを殺そうとしてたでしょ』


 アケビは絶句した。数秒後、思い出したかのように表情筋が引き攣る。

「するわけないじゃん、そんなこと」

『うそつき。あの時のおねえちゃんの思念、冷たくて、どろどろしてて……すごく怖かった。おねえちゃんがおねえちゃんじゃなくなっちゃうかと思った』

 否定できない事実だった。もしあの時、テネシィが出し抜けに名乗り出ていなかったら、どうしていたか自信を持てなかった。身を守るためという建前も勿論あるが、それとは異なる思考が手段という二文字の皮をかぶって、ごく自然に浮き出ていたことは否めなかった。

『お、おねえちゃんが人殺しになるくらいなら、ぼくはずっとこのままでいい。だからもう……あんなことやめてよ』

 肉体から涙は出ていないが、イクコは紛れもなく泣いていた。アケビは、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。


「……イークコ」

 だから、笑うことにした。イクコの身体に覆いかぶさり、動かない首筋に顔を埋める。

「やめてよそんなこと言うの。ちょっと魔が差しただけじゃない。現にテネシィはまだ生きてる」

『そんな言葉で誤魔化せると思わないで』

「誤魔化してない。テネシィが死ななかった事、もう一人は死んだ事、両方事実でしょ」

『……!お、おねえちゃ……?』

 アケビは、その言い回しが狡い事を知っていた。しかし曖昧な約束で一時的にイクコを安心させるほど不誠実でもないとも考えていた。

「イクコは悪くない。でも、万が一あたしが人殺しになるなら、イクコも共犯者じゃない?」

『そんなこと……!』

「ずっとこのままでいいわけがないじゃない。あたし達が奪われた"日常"は、平々凡々と暮らしているだけじゃ決して取り戻せない」

 左手のバングルに嵌っている、サンストーン型のネクタイトを撫でる。イクコの右腕にも同様のバングルがつけられており、そちらにはムーンストーン型のネクタイトが淡く発光していた。

「ネクタイトは、誰かの"日常"が奪われた証。イクコを治すには、ネクタイトの力を借りるしかない。それってつまり、そういうことでしょ」

『……お、おねえちゃん』


「認めたくないなら認めなくていい。おねえちゃんの事、きらいになってもいいよ。でも忘れないで。あたしは必ず、イクコとの日常を取り戻すから」


 イクコの身体を抱きしめながら、アケビは自分に言い聞かせるよう再度決意した。感情が熱を持っている一方で、思考はむしろクールダウンしている事を自覚する。恐らく、近日中にテネシィが何かしらのアクションを仕掛けてくる。それが好機となるか、身を亡ぼす錆になるかはわからないが、少なくとも何かが変わるはずだった。

 今まで通りにはいかなくなる。その予感をアケビは静かに受け入れていた。

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