第5話 中澤さんの刺繍画 ③ 外出

 白粥に味噌汁だけの食事は、すでに呼吸も落ち着き身体も回復してきた現在の僕にはあまりにも寂しく味気無いものでした。

 喘息という病気は、「これで完治」となることが無いので、入院した場合には発作を起こさぬことはもちろん、体力が充分に復活しないと退院出来ません。

 …西日が病室の窓の向こうに沈んで、茜色の空から夜のとばりが降りて来た6時を過ぎると、患者たちは検温の時間です。

 体温の計測に病室にやって来た看護師さんに僕は訴えてみました。

「僕の食事メニューを白粥から通常食に直して下さい!」

 看護師さんはちょっと苦笑しながら、

「あら、お粥嫌いだった?…うふふ、冗談よ!分かったわ、若いからお腹に足りないわよね !? …明日からは通常食にしておくからね!」

 と、からかうように言いました。

 やれやれと思いながらそれとなく中澤さんを見ると、針仕事を小休止して今は美味しそうにお茶を飲んでいるところでした。


 長く長く感じられた僕の入院大部屋生活一日目が終わり、そして翌朝を迎えると入院患者たちは6時半過ぎの検温タイムを知らせるアナウンスで起こされます。

 就寝中に閉じていた仕切りカーテンをシャッ ! と開け、ベッド脇の戸棚の引き出しから体温計をがさごそと取り出して、みんなは脇の下に挟んで待機します。

 …「36度2分、平熱ね!…あと脈を計ります」

 病室に回って来た看護師さんに手首の脈拍をあたられながら、僕はそろりと、

「…発作はもう落ち着いたんだけど、あとどれくらいで退院出来るのかなぁ…?」

 と訊いてみました。

「それは回診の時に先生に訊いてみないと…ただ、喘息患者さんはまず一週間はダメよね…!」

 看護師さんはキッパリと答えました。

「2日や3日で焦って無理矢理退院しても、結局翌日また具合悪くなって戻って来ちゃう人がほとんどなの…!だから今の時期は先生も簡単には退院許可を出さないわよ」

 そう言われると僕はちょっとガッカリうなだれるしかありませんでした。

「…ガッカリしないで、焦らずゆっくり治療しようね!森緒さん」

 僕の気持ちを見透かすように、看護師さんは明るくそう言って病室を出て行きました。

 …検温が終わると、まもなくして朝食が配膳されて来ました。

 気を取り直して僕の分を見ると、きちんと通常食になっていました。

 メニューは白御飯に焼き鮭、ヒジキ煮と味噌汁。

 ガツリと食べてあっけなく朝御飯終了。

 …あとはベッドに横になって西村京太郎ミステリーの続きを読んで時間を過ごそう…と思う間もなく今度は点滴がやって来ます。

「…さっき朝御飯たらふく食って腹いっぱいなんで俺は点滴要らないよ、看護師さん!」

 同室の患者から冗談半分の言葉も飛び出てきます。

「…点滴液には皆さんの病気を治すための薬が入ってるの!つまんないこと言ってないで腕出してちょうだい!」

 看護師さんがちょっとイラつき気味に応えます。

 僕は点滴を受けながらも文庫本は読むことが出来ますが、中澤さんはさすがに点滴中は刺繍画作りは出来ず、ガマンして横になるしかありません。

 と思ったら、看護師さんが病室から立ち去った瞬間、みんなは薬液中継アダプターの調整つまみを回して注入速度を上げました。

 ポッタンポッタンだった液落下が、ポタポタポタポタッ ! と変化したのです。

(…看護師さんが去ったあとでしてるってことは…本当はやっちゃいけないことなんだろうな!)

 僕はそう心の中で呟きながら、ズルいことはせず正々堂々真面目に自分の点滴ポッタンを見上げてベッドに横たわりました。


「じゃ、私はこれから外出して来ますんで!…皆さんごゆっくり」

 …しばらくしてふと気付くと、中澤さんがスピードアップさせた点滴を早々と終了させ、看護師さんに針を抜いてもらっていたのです。

 中澤さんは素早く外出服に着替えると、幸せそうな笑顔を僕たちに見せて、

「行って来ま~す !! 」

 と言って病室から風のように消えて行ったのでした。

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