ショートショート詰め合わせ

水上明

等身大の世界

 暑い。

 そして、果てしなくかゆい。

 私の人生にして24年目の秋。初めて手伝った稲刈りの感想はそれだった。


「なーにが、それだった、よ。今日中にこれ全部終わらせるからね」


 5つほど歳の離れた姉が、腕を組みながら絶望的な言葉を私に告げる。

 これを?

 全部?

 正気の沙汰とは思えない、が、それに従うしかないのもまた事実だった。何せ私は、現在実家に戻って来てしまっているのだから。

 そんな事を考えている間にも、姉とその連れ合い(まだ新婚さんだっりする)の二人は、黙々と作業を続けていく。……いや、刈り入れに使う機械の音がうるさすぎて、まともに会話が出来る状態でもないのだけど。

 仕方がなく、私もそれに続いて自分に与えられた仕事をこなす。手を止めてふと辺りを見渡してみると、まだ今日の予定の半分にも行っていないことが分かった。

 ……先は長そうだ。


「とは言ってもまあ、大したことじゃないか」


 事実を確認するように、あえて口に出してそう言ってみる。

 私は今年の夏の始めまで、東京で暮らしていた。それが実家に戻ってきたのは、ついこの間のことだ。別にリストラにあったとか、そういう事ではない。

 全力で走れなくなった短距離ランナーに、企業チームでの居場所は無かった。それだけの話だった。会社側はそのまま通常の社員としての待遇を約束してくれては居たが、走れない足で残る気はしなかった。

 あの時、あの瞬間。私の第一の人生は終わってしまったのだ。

 別に珍しくも何ともない、練習中の怪我という、あっけない事態で。

 都会にいた頃にあんなに近くに感じていた世界は、もうこの手に掴めない。多くの人達と、ライバルと、東京の高密度の社会と。あの広い世界は、もう目の前には開けていなかった。


「まあ、それも人生か」

 思わずそう口に出して、


「何か言った?」

「ううん、なにも」

 訝しげに尋ねる姉にそう答える。


「そう?まあ、それはともかく、一休みしよっか」


 言うが速いか、姉は道に止めてある車の方へと歩いていった。一人で私の倍以上の仕事をしているのに元気なものだと思いながら、私もそれに続き、ふと空を見上げる。 

 秋の心地良い風が吹いていた。左手の方には、さして高くもない山が連なっている。正面に見えるのは、やっぱり山と田圃たんぼだった。そのまま右の方を見ると、それなりに大きい家が建ち並ぶ住宅街。ぐるっと振り返って見ると、やっぱり見えるのは田圃だ。

 走っていって、そして戻ってこれるだけの距離。一つしかない小学校と中学校。酷く緊密で複雑な、村の親類関係。両手を左右に広げたら掴めてしまいそうな、小さな世界。

 それが今の私の周りにある風景だった。

 世界すら掴めそうだったあの頃に比べると、なんて、ちっぽけな世界。でも、それは等身大で歩いて行けそうな世界だった。


「結構広いもんだね」


 軽トラックの荷台に座り、姉か無造作に渡された缶コーヒーを開ける。

 たとえば、今見えている正面のあの山のふもとまで走ったら、どれくらいかかるだろうか。目に見えているよりは、ずっと距離はあるだろう。でも、行けない距離ではない。それは自動車なんてなくても、人間の足で歩いて行ける距離だった。

 そう、歩いて行ける距離だ。全力で走れなくなった、私の足でも。


「いっその事、しばらく旅にでも出てみようかなぁ……」

 割と本気でそう考えてみた。


「なにあんた。放浪でもするつもり?」

 私の声が聞こえたのか、運転席に座っている姉がそう尋ねる。


「別に放浪なんて大げさなものじゃないけど」

「いいじゃん。若い頃は旅でもしてたほうがいいんだよ。あ、お土産よろしく」

 それが傷心の妹に言う言葉か。仮に世を儚んでそのまま自殺にでも走ったらどうしてくれるつもりなんだろうか。


「この程度であんたがくたばるタマじゃないことは良く知ってるしね」

「……頼むから考えてる事を一発で当てないでよ、お姉ちゃん」

「さて、何の事かさっぱりだねぇ」


 ……車の影に隠れて顔は良く見えなかったが、なんとなく姉がニヤニヤと笑いながら喋っているのは分かる。まったく、なんて姉だ。


「まあ、あんたが何をやろうと、どう考えようと、私は構わないよ。好きにやりゃいいさ」


 親父やお袋はどう思うか分からないけどね、とその言葉に付け加えて、それで話は終りとばかりに姉は運転席から煙草たばこの煙を大きく吹き出した。

 その煙を目で追いながら、もう一度空に見上げる。

 私の周りに広がる、このちっぽけな村という世界。でもそれと同じような世界が、この星には無数に広がっていることを、今更ながらに思い出していた。

 長く長く、もう十年近くも忘れていたことだ。

 私の居た、もう一つのちっぽけな世界。全てを掴めるとすら錯覚しそうな、あの生き方。

 ――それとは別の道を歩いたって、別に構わないよね?

 秋の変りやすい空を見上げながら考える。カメラの修行でもしながら、世界を回って写真を撮ったりするのも面白いかもしれない。ルポライターの真似事をして、雑誌社にでも企画を持ち込むのもいいだろう。

 とにかく、行けるところまで行ってみたいと思う。追い込まず、でも熱心に何かを見つめて。

 あの頃とは違うけど、やっぱり、自分の足で。


「あ、どうでもいいけど、本当に今日中に全部これ終わらせるからねー」

「……うう」


 目の前に見えるのは、金色に輝く稲穂の海。


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