交信者
朝楽
第1話
男は好んで河川敷をよくランニングしていた。日めくりカレンダーをめくるようなその日も、冷たい朝焼けに、鳥がチュンチュン鳴いている中、くたびれた紺のジャージを身にまとい、走っていた。昨夜とその日の仕事のことを考えながら、体のフォームを意識して、小気味に走っていた。
ふと前方を意識したとき、グレーの河の縁のほうに、一点黄色の浮いているものを認めた。その上にある台形の堤防も、薄くらい空も無彩色なのに、その点だけが鮮やかな原色をしていたので、際だって見えた。
次の瞬間その点が人らしいことが分かった。自分が一段低いランニングコースを走っていたため、その点のバックに河があって、浮いているように見えたのだ。細部はよく見えないが、あぐらをかいて、背はひどく曲がっている。河に沿って遠いところに水道橋が見え、その向こうの太陽が、いまかいまかとその姿を現そうとしていた。
妙に思って近寄ると、どうやら、びっくりするようなやせ細ったの老人が、全身黄色の胴着を着て、ヨガのポーズをとっているようだった。あぁ、そういうことか。男の頭の中で、疑問の霧が一カ所に集まって、理解の結晶となった。こいつは、そういう人なんだ。そして男は、早朝の澄み切った空気の河川敷と、老人の奇行に、ふいに笑いがこみあげてくるのを感じるのだった。男は話しかけた。
「おはようございます」
「おはよう」老人が目をつむったままそう答えると、しわくちゃの顔の皮膚全体が、一音節ごとに動くのだった。しかし体の方はびくりともしない。まるで漫画の登場人物じゃないか。男はなぜかその境遇に爆笑せざるを得ないと行ったふうで、懸命に堪えていた。いつもは滅多に笑わないのに、そんな境遇がなぜか男の笑いの壷にはまった。
「いい天気ですね」
「うむ」
「ところで、あの、ここで何をされているんですか?」
「ふむ。世界と交信しておるのじゃよ」
息が漏れて、男はすぐに咳を続けて繕った。男は、それは世界か、あるいは妄想上の自分かという質問をぶつける想像をしてまた笑いがこみ上げた。声が漏れてしまっていたが、構いやしないと思った。男は笑いに乗じて、わるふざけをしてみることにした。
「それはすごい。わたしも世界と交信、やってみたいんですが、まねしてみてもいいですか?」
「好きにすればいいわい」
堅いコンクリートに尻をつけて、あぐらをかく。下になった方の足の裏を持って、ふくらはぎの上にのせる。世界と交信できないな皮肉を込めたせりふを頭の中で唱えてはみたが、なるほどこの姿勢は気が落ち着く。ガラスのように透き通った朝日の前の空気のなかでは、神聖な気持ちにならないわけではない。狂気にも一理はあるものだなと男は感心した。
「それはただのヨガのポーズじゃ。ちゃんとわしをよく見ぃやさい」
「あぁ、はい、やってみます」
男が一瞥の先には、交信者の言うとおり、よく見ると細かい部分が自分と違っている。交信者をまねて、ひざを地面になるべく近づけ、背中を前傾にし、首を前に突き出す。目の位置が低くなったおかげで、景色が広くなった。奇妙な格好をまねることで、視点が変わり、いつもと違う世界の見え方になると、男は新鮮な気持ちになった。
「うむ。格好はさまになってきた。だがまだ意識が残っているようにみえる。意識を消さなければ、世界とは交信できん」
「いったい、意識を消すとは、どういうことなんです?」
「とにかくやってみればいい。思うままに」
男は目をつむり、なるべく心が無意識になるよう意識した。
「どうじゃ。意識が消えていくのがわかるじゃろう」
「なんとなく」
「意識を消すというのは、物体に近づくということなんじゃ。物体に近づくことで、無機質な世界と同じ立場になれる」
「分かったような分からないような気がします」
「分からなくていい。理解など、まだ精神のなかの範疇じゃ。理解すらしなくなったとき、世界に近づくことができるんじゃ」
「はい」
「少しずつよくなってきたようじゃな。そうくれば、待つだけ、あとは時間が経つのを待つんじゃ。いや、時間すら、物体や世界は知覚できないわけだから、待ちながら、時間の感覚を失う事じゃ。そうすれば、世界に近づけるはずじゃ」
男は交信者の言うとおりにした。自分の足下から、無意識が、這いのぼってくるイメージを描いた。時間をなるべく忘れようとした。世界と交信するイメージをした。いや、正確には、自分が物体となり、世界と同質化する様を想像した。時間を忘れようとした。
ふいに、背中の低いところで、小突かれるような感触があった。振り返ると、野良犬だった。日はすっかり上っていて、交信者もいなくなっていた。男は急激に意識を取り戻し、我に返って、慌てて立ち上がり、周囲の視線を気にしながら、そこから立ち去っていった。
交信者 朝楽 @ASARAKU
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