第141話 膜は破られる

 ふぅーっと息を吐く。すぅーっと息を吸う。ゆっくりと、ふかく。意識して呼吸をする。お腹を膨らませて。お腹を浮き輪みたいに膨らませて。そのとき体の真ん中は浮き輪の穴みたいになるんだと思い込むことが大事。膨らむ、萎む、お腹。おへそを意識する。浮き輪に空気を入れるときにだけ、ポコンと飛び出す透明な、ママの乳首みたいな感触の、あの弟のおちんちんみたいに柔らかな、決して成熟しない逆止弁は、真ん中の穴を斜めに交差している。

 呼吸が大事。パパはいつもそういっていた。パパのことを思い出すだなんて何年ぶりだろう。パパの声が聞こえる。髭の感触が蘇る。油の臭いに包まれる。パパはエンジニアだった。つなぎはいつだって汚れていたけれど、それはわたしにはイケてるデザインに思えてならなかった。青いつなぎは血の色を黒く目立たせない。血の色? パパが扱っている機械のオイルはそんな色をしていた。パパの子供を産みたかった。ママは嫌いだった。ママがパパと出会う前にわたしがパパに出会いたかった。そして弟を産みたかった。そういうことを話すべきだと、スクールカウンセラーは涙を零しながら、わたしを保護施設へ収監したのだった。

本気ダスのって、だから嫌いだった。いつも嫌いだった。いろいろ思い出してしまうからね。その思い出したものをみんな捨てるために穴がゼッタイ必要だから、浮き輪のペニスを引っ張り出して吸い付かないと生けないんだ。クラインの壺といってしまえばそれまでだけどね。って村長は笑ってわたしのおへそを舐めた。虐待かといわれればそれはもうアウトなんだけれど、わたしが連れてこられた砂漠の王国は安っぽい金網のフェンスに囲まれていて、脱走は蒸発と同じ意味だったし、パパが村長に引き継がれたんだなっていう認識はそのまま、世界の狭さや単純さや、複雑なようで実はとてつもなく単純なあれやこれやを明晰な光のしたに踏みつけられている濃い影みたいな穴の上をフワフワ漂っているんだなって悟ったのだわたしは。目に見えるものはみんな薄っぺらだったし、どうせこの砂漠の距離感の中では、∞とフェンスとペニスのの三つの絵文字が記されたアナログ写真機みたいなものだった。みんな見えるものばかりにこだわって、見えるものと触れるものとをなんとか融合させようと必死だったし、それが気持ちいいことなんだって、隷属? とか 被虐? とか、そういう支配されたがる人ばかりの王国を、村長は作りたかったのね。村長はママともセックスしてたし、パパは相変わらずわたしのところに自由に面会に来ていたし、そのたびにわたしのヴァギナには砂がまじって、もしかしてわたしが妊娠したら生まれてくるのは正真正銘のサンドマンなんだろうなって思った。図書室があってね。わたしはそこに一人でいるのがすきだった。活字は一切読めなかったけどね。だって誰も私に文字を教えてくれなかったから。だから、わたしには、割り箸の袋も、ヒエログリフも、線文字Aも、クロレラの効能書きも、養子縁組書類も、どれもみんな冗談にしか感じられなかったし、わたし自身がかわいそうだとも感じたことはなかった。そういうわたしを引き取ってくれたのが陣ちゃんだったんだけど、この話はまだ早いんだ。深呼吸して、順番に吐き出して空っぽにしておかないと、音が濁って、おかしなエコーが発生してしまうから。

 だからわたしは空想ばかりしていた。施設のペントハウスは図書館だった。登るときは階段で。下るときは滑り台で。本当は滑り台は使用禁止になっていて、緑色のビニール紐で、亀甲縛りみたいになっていたけれど、わたしは滑り台に仰向けにペタリと、そうわたしはなぜだか裸っぽで滑り台をすべり降りるのが好きだった。汗なんてかかないツルツルスベスベのお尻。血でヌルヌルする背中。園長先生はいつだってわたしに暖かな山羊のミルクをくれた。白くて濃くてすこし臭かった。味はなんて覚えていない。そういえばわたしは「味」を感じたことは一度もなかったような気がする。

 空想は病だと言われた。

 現実に手に取ることのできないこと一切のことを語ることが禁じられた。

 ギャグボールから唾液を滴らせると、院長は自分の口で直接それを受けた。髭が汚かった。いつだって院長の髭は乾いた精子がこびりついた陰毛みたいで臭かった。山羊の乳みたいに臭かった。その臭いは、院長の鼻がわたしの鼻から最も遠いところにあるわたしのお尻に突っ込まれている間にも臭っていて、コアラの赤ちゃんはお母さんの柔らかな便を食べて大きくなるのだから、想像力を補うためにはお前のような空想の病を持つものから直接サプリメントのように摂取するのが一番効果的なのだから、お前の糞便はすべてわたしたちが摂取させてもらうのだから、わたしの許可なしに今後いっさい排便を禁ずる、といって院長はわたしのお尻にトパーズ製のアナルプラグを差し込んだのだった。それは始め、すこしきつくて、すこし冷たかったけれど、すぐにわたしに馴染んだ。

 アナルプラグをされると、わたしは不思議と空想をしなくなっていた。空想が蓋をされていたのだと思った。でもそれは嫌な感覚ではなくて、わたしはわたしの体があって、体がわたしなんだなということが、とてもよく実感できるお尻になって、いままで聞こえていた音が、外から聞こえてくるようになっていった。

 わたしは耳が良かった。

 わたしの空想の源はすべて「音」だったということに、アナルプラグをされてしばらくして気づくだなんて不思議ね、とい陣ちゃんに言ったことがある。そしたら陣ちゃんは、空想と体とは本当は同じものなのだね。と何度もうなずいて、陣ちゃん自身のアナルプラグをもぞもぞいじっていた。わたしにはそれが何を意味しているのかわからなかったけれど、そのとき陣ちゃんは勃起していたことだけは、手に取るように分かっていた。

 本気を出すために、わたしは今もなおわたしのお尻を塞いでいるアナルプラグを引き抜かなければならないのかもしれない。でもそれは、制御棒としてわたしをわたしの形に整えている冷却装置のようなものなのかもしれないし、引っ張った途端にわたし自身がクラッカーみたいにはじけ飛んで、何かが、そう、ないかが飛び出してくる仕掛けが施されているのかもしれない。あの欲深い院長のことだ。それくらいのことはやりかねない。院長はヴァギナよりアヌスが好きだった。執着。そうわたしにはとうとう、この執着という欲望だけが聴き取れなかった。それこそがアナルプラグの威力だったのかもしれない。わたしは空想の言葉を語ることを禁じられ、しかし現実がどこにどんな風にあるのかを誰かも教えられないまま空っぽになった。空っぽの壜の口を風が吹くときになるビョービョーという音が、そのときのわたしの実体だったのだ。そこにはふくざつなカルマン渦が発生していて、その渦の干渉が今の宇宙の発生源だった。だったらやはりわたしは今ここで、アナルプラグを思い切り引き抜いて、景気よくクラッカーを弾けさせて、今、宇宙のすべての音を聞き分けている耳を、その鼓膜を、破ってしまわなければならないのだと確信していた。

 膜は破られなければならない。から。

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