第139話 音の光

 「ナカナカヨクヤッテイル」

課長がそう言ってモニターを弾いた。するとモニター下部にある音声出力孔がキュっと窄まって、むずかるように震えるとトロリと白濁した汁を垂れ流し、それは潮の香りがした。

「触れなば堕ちん、といった様相だね」

 隊毛がそう評したのは、砂上を疾駆するボスを追っているドローンから撮影したような映像にむかってのものか、それとも画面一面に広がる白砂に二重写しになっている或日野の知りの細胞分裂のごとき亀裂が、指数関数的増大をさしてのものかは定かではなかった。その隣で、平喇香鳴は渋面のままディスプレーを見て微動だにしない。

「砂が関係してるのだろう。自律的挙動は織り込み済みだったのではないのかい?」

 と隊毛が懐からシガレットケースを取り出しながら尋ねた。すると香鳴も、ショルダーバックからシガレットケースを取り出した。同じシガレットケースから、同じタバコを取り出し、同じライターで、同じように指に挟んで。

「かなり、気に入らないようだね」

 モニターの中、ボスはとうとう社屋に取り付いた。途中、揣摩摂愈からもぎ取ってきたプラズマガンを何発か発砲し、そのたびにモニターは一時的に砂嵐になった。

 タイラカナル商事の社屋内部は、壊滅前のタイラカナル商事社屋そのままに矩形だった。そこには砂粒ひとつ墜ちていなかったが、カウンターのそこかしこにダリの絵画のようにアリが行列していた。人影はなかった。ボスはアリの列を、防犯センサーをかいくぐるかのように跨ぎ越しながら、営業二課へ急いだ。その途中で一度だけ、シャフトの折れ曲がったパーシモンのドライバーが通路に落ちているのをしげしげと見るために立ち止まった他は、その疾駆に迷いはみうけられなかった。右肩にプラズマガンを担ぎ、左手で帽子を抑えて、ボスはいよいよ営業二課の、或日野の机に刻み込まれた黄間締の筆跡に対面した。

『十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八』

 ボスの目には、そのようにはっきりと読める文字が、刻み込まれていた。隊毛も香鳴も課長も室田もその文字を判読できた。会場にいた数万の群衆の全員がその文字を何の疑問もなく読み取ることができた。モニターもその文字を音声として読み上げることができた。

「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」

「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」

「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」

 会場のあちこちから、この文言を音読する声があがった。それはやがて、声明ででもあるかのような調子を伴って会場に暗い渦を巻き始めた。モニターの向こう側でも、ボスが「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」と発声していた。意味が判るか否かが重要だった先ほどまでとはまったく違った感情が、ボスの心には兆していた。社史編纂質の庫裏唐孤塁が謀ったこと、それに揣摩摂愈が乗せられたこと。だが、右手のプラズマガンの重みと殺傷力の実証性は、その謀略のすべてが虚偽であったわけではないことを示していた。謀略が謀略でなくなったのだとボスは確信した。そして、現時点で意味が判読可能だと判った文言の意味はむしろ無意味となっていた。意味は辛うじて、それが意味として理解できる、という意味のみによって意味を担保するのみだった。古代人が粘土板や紐といった脆弱なメディアにたよってまで、言葉をモノに刻み痕跡を残そうとした理由はここにあった。言葉は文字として刻まれなければ容易に変化する。そう、あたかも自在な絵空事のように、夢の変容のように、空想のように……

 今や、この会場の全員がモニターを凝視していた。釜名見作品ナンバー18は、人々を圧倒的に魅了していた。だが、それはモニター内部のボスの挙動がそうさせているのではなかったか? 人々がディスプレーに釘付けになる理由は、ハードとしての魅力ではなくコンテンツの力によるのではないのか? だとすれば、釜鳴見煙の作品ナンバー18とは、今、大衆を虜にしているボスの行動そのものではないのか?

 一人一人の脳裏にモニターがあり、そのすべてにボスがおり、営業二課に室内のテーブルの文字があった。みんながボスを見ていた。そしてそのとき、ボスもまた、自分を見ている全員を見ているという実感を得ていた。

 その合わせ鏡のような状況からいち早く抜け出したのは部長だった。部長は、タコブネモニターが人々と同じ数だけ増殖していることを発見し、タコブネモニターの脚部が、眼前の一人一人の胴体にしっかりとまきついているのを確認し、とりあえず、自分と、香鳴と、隊毛に巻きついている触手を引きちぎった。すると、自分の手足も引きちぎれたが、課長は案外冷静な顔で、ゴロリと胴体を砂に横たえたのだった。香鳴と、隊毛は、モニターに映し出される無数の、うごめく白い尻に目を奪われていて、課長が何をしたのか、自分たちがどのような状況に置かれていたのか、また、この砂漠でタコブネモニターを凝視している状況が現在置かれている状況であるということすら失念し、ただ白い尻がくねる映像との距離がしだいに失われていく感覚に酔いしれていた。それは落下する感覚だった。地球の重力をもって対抗することの適わない圧倒的な質量がもたらす自由落下の先が、白い尻にくねりであることを、二人は、そしてタコブネモニターに魅了された全員が予感し、それ以外の予感を何一つもたなかった。

 ボスはタイラカナル商事営業二課が無数の目に晒され、その無数の目がボス自身に肉薄してきて、とうとう距離が失われてしまうと、ボスの目と手にしたプラズマガンの筒先のなぞっていた、「十二三五 煙様 明日打ち合わせキオラ画廊 変更八三八」の文字が次第に振動を始めたのを感じた。そのとき、数千億の目のすべてがボスの体に密着しており、それらの目は互いを覆いあっていたので、ボスもまた見ることができなかった。その「見ることのできない」は、闇ではなくむしろ光に似た音であり、波光のさざめきだったので、ともするとボスとそしてボスに密着した目に寄生するすべての人間達の瞼裏にも同様の、光の粒々、それはあたかもフェルメールが施した珠のごとく混じり気のない光そのものとしかあらわしようのない単純で澄んだ音色であって、間違っても、スーラのような点描派はおよびではなかった。

タコブネモニターの尻とその肛門から飛び散りつづける糞と白濁液とは、モニターを汚し続け、それでも白い尻のうごめきだけは決して途絶えることのない通奏低音として宇宙を蠕動させ続けた。肛門を取り巻く肛門括約筋によって小出しにされる糞とスペルマは、べっとりとした音でふさぐべき腕をもたない人間の耳と鼻に横溢し、臭いもまた音であった。その胸糞悪い音は奪われた姿形を求めて人間に自立を促していたが、タコブネモニターとしての作品ナンバー18が、地上の全ての手足を捉えていた。例外は、課長と隊毛と香鳴の腕だけであった。(注記:この場に居合わせなかった工辞基と肌瑪兎、そしていまだ行方不明の地媚の腕は、目下、捜索中なのである。工辞基らは、緋弐図孔痲と接触したところまでは、砂漠も感知していた。だがそれ以降の足取りがたどれなかった理由は、緋弐図孔痲のアナルプラグにあった。つまり、あちらとこちらの筒抜け構造はいわゆるO-Aパイプによるものであり、そこにV-P接続は未設定だったからである)

 砂漠の砂の一粒一粒が人間であり、人間の目であり、人間を示す点であり、人間の存在そのものであった。そして同時にそれは、既存の言葉の原始的形態であり、文字の種であり、音素の形であって、つまりは光を発する音なのであった。

「イフガメ砂漠の砂の本質が「音」であると看破したのが、誰あろう! 釜名見煙、その人だったのですっ!」

 室田が朗々と宣言した。隊毛と香鳴とはその声に初めて我に返った。そして、贋作を真作と偽るための催しは、いつからか釜名見煙にのっとられていたことを瞬時に悟っていた。

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