第128話 白砂の声

 少し前、こんな記述があったことを読者を覚えておられるだろうか?


 \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 ボスは揣摩の言うとおり65メートル先の公団地下鉄清川虹公園前B6階段を駆け下り、まもなく通過する滑川市場行の準急が速度を落とさず通過する寸前に、ホーム東から四番目の点字ブロックから線路へ飛び込んだ。

 ゴスッという鈍い音が構内に響き、電車は通過していった。ボスの姿はどこにも見えなかった。

 厚生部のイルカチャン制御コンソールからボスへのコールサインが三度発信された。だが返信はなかった。ボスの座標を示す点は移動しなかった。おそらく帽子が跳ね飛ばされたまま地下鉄坑内に転がっているのだろう。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 今回はこの続きである。作者はボスを消滅させたりしない。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\


 薄暗いところだった。ボスは自分の体がブリキでできた空洞で、そのブリキの空洞の胸がペコリと凹むかのような衝撃を受けて、真っ暗なトンネルの中へ射出されたのを感じたところまでは、覚えていた。

 なにもかもが緩慢だった。身体をとりまいている何かが、これまでのそれとは粘度? そう。粘度が増しているように感じられ、指先を動かすのにも抵抗を感じ、その抵抗がゆるゆると周辺へと波及していき、どこか遠いところで跳ね返されて戻ってくるときに、高さも深さも二倍化されて、こんどはボスの全身を汀としてうちあたってゆらゆら揺らされるので、それがまた波となって打ち消しあって、2倍が2倍となり緩慢さはより緩慢さとなっていつしかもう、高い山と深い谷がつらなる渓谷のただなかに横たわっているかのような錯覚にさえ陥るのであった。

 横たわっていたのだ。とボスは気付いた。それはボス自身の体感による気付きではなく、自らが長い島のようにこの海に在るのだとするならば、それはおそらく横たわっていると表現されるのだろうとの帰納された結論であった。腹も背中も表も裏も感覚できなかったボスだったが、頭と足の方向だけは確信をもって認識することができた。

 するとこれは、タンクなのだ。

 ボスは、通常であれば体感刺激がそのまま認知となる経路の著しい混乱を感じながら、体感刺激を思惟によって処理する回路による認識を初めて体験していた。現在、有効なのは触覚のみで、その触覚刺激は他の感覚との連結をいっさい持たなかった。というより、触覚以外の知覚器官がすべて麻痺していたというほうが正しかった。

 するとやはりこれは、タンクなのだ。

 ボスは眼前に薄暗い廊下の長く続く室内を見ており、その廊下はボスの背後にも同じように長く続いていた。廊下の左右には等間隔に閉じたドアが並んでいることを、ボスは確かめるまでもなく確信して左右のノブに触れ、そこからひとつ前に進んで左右のノブに触れ、最初に触れたノブの一つ後ろにあるノブまで後ずさりしてそれに触れ、扉二つ分後進んでドアノブに触れて、というように、丹念にドアノブに触れていった。

 けっきょく俺は、ここが好きだったんだな。

 天井の埋め込み蛍光灯、両壁面の扉、足元の壁面埋め込み常夜灯、リノリウムタイルの床に埋めこめれた「非常口」案内表示などが均質に前後に続くだけの空間。

 チューブ。トンネル。

 扉を開けば室内空間が広がっているだろうし、そもそもこの空間が地上かもしくは地下かはともかく、何階建ての何階にあるのかもしれない現状において、ただボスの感受したチューブ、トンネル、という空間把握はひじょうに拙いのだということを、ボスは当然自覚していた。それは自身のおかれているのを二次元に限定する観念としてボスを縛ることになるからだ。さしあたり、上下に進む手立てとなる階段やエレベーターは現れてこないし、今のところ触れた扉の全てが施錠されていたことから、ここは二次元であると仮定しても間違いではない。しかし、この結論は、たった一枚の扉の状態によって反駁される程度の確からしさしかもたなかった。

 悪魔の証明。というやつだ。「ない」ことを証明することは不可能だ。とね。

 ガチャ

 扉が開いた。

 タイラカナル商事厚生部の白い天井が見えた。カプセルからそっと半身を起こしてあたりをうかがった。通武頼炉はいなかった。そして、もちろん揣摩摂愈の姿もなかった。

 すさまじい糞尿の臭いが立ち込めていた。ボスは、臭いに殴られるということが比喩としてではなく実際の体感としてありうるのだと知った。臭いも脳で処理される刺激であり、しかも脳の古層に一番近くダイレクトに刺激が伝わる構造になっているのだから、臭いとはつまり直接脳の深部を打撃する効果的な手段なのだった。それが糞尿の臭いだというのも、おそらくは進化論的に説明がつくだろう。考えてみれば、生き物というのは結局、糞尿を薄めただけのものだという気もする……

 誰だ!

 ボスは目を閉じてあたりを見回した。この部屋に誰もいないことは明らかだった。だが、今の「感想」は明らかに、ボスがこれまでに培ってきた経験からは生じるはずのないものだった。だから、そのような「感想」はボス以外の誰かが、おそらくボスの内部に潜んでいるのに違いない誰かが、とボスは考えた。

 不用意にタンクへ収まったことを、失敗ということはできない。あの場合、通武は最善の手を打ったといえる。ボスはあの状況からの脱出の際、脚の一二本を欠損することも覚悟の上だった。これまでの主要登場人物の中で、もっとも煙たがられていたのが自分であり、もっとも核心に迫っていたのも自分だったということを、ボスは自覚しており、しかも自らの損得には関わらない立場にいるという点が、今回の騒動の要因となった連中には脅威だったろうことは明らかだった。ボスは、今回の騒動のうちでは閾値の不明瞭な変数のうちの一つだった。そしてもう一つが或日野文之だろうと、ボスは踏んでいた。

 だが、これは或日野の感想ではない……

 ボスはタンクから出ようと膝を立てた。するとサラサラと何かが膝を滑り落ちた。ボスは改めて自分の髪やジャケットに触れてみた。タンク稼働中、内部は液体で満たされているはずだった。だが、ボスは服を着たままタンクに横たわっていた。ンリドルホスピタルの、左右に延々と扉が続くリノリウムの床の擦れる音を思い出した。クレオソートの臭いを思い出した。平喇香鳴が吸っていたメントールの香りを思い出した。メントールの香りが、いつもしていたような気がした。隊毛が吸っていたタバコの香り。何本も何本も、俺はそのタバコをもらって吸っているうちに、メントールの刺激を感じなくなってしまっていたのだったが、それは吸い終わった後も服や髪や、空気や光に染み付いていて、いつだってメントールの強い香りの中に俺たちはいたのではなかったか? あたかも、真夏の蝉の、あまりにも蝉に飽和してしまった夏の大気に糞尿の臭いが充満していることを感覚がまったく無視してしまうがごとく、それでいて、その聞こえないメントールの声のため、その他の無数の放屁音を聞き逃してたことにも気付けないまま、そんな日常にどこか不便と物足りなさと、ストレスとを無意識裡に抱えながら、そんな不安を払拭するためにこそ、夏はビーチでバカンスに興じていたのではなかったか?

 ボスは鼻を摘んで耳抜きをした。ペコンという音がして鼓膜と眼球とが凸型となり、洟が出そうになった。

 砂だった。

 タンクのなかは細かな白い砂で満たされていた。その砂は目や口や耳や体中の大小全ての穴という穴につまっていた。それが砂だと分かるとボスは全身にいいしれない不快を感じ、サラサラと砂を溢れさせながらシャワー室へ駆け込んだ。だが、そこですぐに服を脱いでシャワーを浴びるほど迂闊なボスではなかった。

 ボスには予感があった。

 タンクの中を、今だけでなく導入当初からずっと、満たしていたのが液体ではなくこの砂だったのだとしたら……

 ボスはレバーをカラン側にして、蛇口を少しだけひねった。

 サラサラと渦をまいて蛇口から滴っているのは砂だった。白い砂だ。ボスは蛇口を閉め、洗面台にむかって唾を吐き捨てた。

 唾も砂だった。湿り気のないサラサラの白い砂がゆっくりと排水口へ流れていく。続いてボスは内ポケットからアーミーナイフを取り出して鏡に向かうと、右の耳たぶに傷をつけた。じわりとにじんできたのは砂だった。赤い砂。一応、色の記憶に齟齬はなさそうだった。

 それから、トイレで小便をした。黄色っぽい砂だ。大便をしてみると茶色っぽい硬い砂だ。糞尿の臭いが一際強くなった。自分の糞尿の臭いではないようだった。

 ボスは再びタンクが並ぶ元の部屋へ戻ってきた。そしてそこにあった9番アイアンでタンクを思い切り叩いた。外装の一部が砕けるとそれはやはり、白い砂のように見えた。

 あらゆるものが砂でできていた。

 ボスは9番アイアンを床にたたきつけた。ズブ。9番アイアンではなくSWを用いるべきだったと、ボスは思った。

 それも砂でできていた。砂浜で行われるサンドアートでは、水糊によって砂を固めたりするが、今砕いた砂を手にとってみると湿り気も粘り気もなかった。砕かれたとたんにそれは「タンク」や「9番アイアン」であることをあきらめ、開き直ってしまったかのように砂だった。その砂を、本体の砕けた部分に振りかけたところで元にはもどらず、砂は砂のままで、断面は断面のままだった。


 □原子同士はどのように結びついているのか。割れたり壊れたりしたものはなぜ元どおりくっつかないのか。それまではなぜくっついていたのか。

 □砂を部分としていながら全体として砂ではないのはなぜなのか?

 □水を砂と錯覚するプログラムが施されていたのだとすれば、われわれはいつから砂なのか?

 □われわれは砂なのか?

 □この砂はイフガメの砂なのか?


 最後のチェックボックスは簡単に答えが出た。イフガメの砂は光の下では黒い。それにこれがイフガメの砂だったとしたら、そこに埋まっていた自分は到底無傷ではすまなかっただろう。なにしろイフガメの砂は刃をもっているのだから。


 □では、この白い砂は一体何だ?


 「それが釜名見ですよ」

 ボスの足元から声が響いた。

 と思う。

 それは声として認知できる刺激だったといった方が正確だろうか。鼓膜が震えたという実感はない。が、物音を聞くとき、よほど大きな音でないかぎりは自分の鼓膜の振動を感じることなどないだろう。それは「声」ではなかったと思うが、ボスの脳内ではたしかに声を処理する回路を通過した感覚があった。

「誰だい?」

 ボスは足元を見回した。

 そこには、先ほどまでタンクの一部だった砂が、いつのまにかフェイスマスクのような形に広がっていて、その口がはっきりとい動いているのであった。

「土師無明。能面師だよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る