第126話 モデレ無き違和感

 扉には確か「納米里」と書いてありました。それはとても懐かしい名前でした。妹と最後に話したのがこの喫茶店だったのです。そして実未に、自分の足をひっかけた挙句、約束をすっぽかした理由を尋ねようとしたのもまた、この喫茶店だったはずでした。結局、その会合は実現しませんでしたが、その代わりに妹が現れたのでした。そのとき僕はまったく驚かなかったし、不信にも感じませんでした。

 ただ、時系列がおかしいなという思いは心のどこかに兆していて、その脈絡のこじれのせいで、僕は失敗をして妹に愛想をつかされたのだと思っています。しかし、僕がその夜、その喫茶店で実未に問いただしたかった理由こそが、妹の近況消息だったのだという事実に、僕はいまさらのように気づいたのでした。

 時系列がおかしい。

 目の前の女の子はタピオカミルクティーを懸命に吸引していましたが、その様子はどこからどう見ても夏个静ノそのものでした。そしてその傍らで逞しい二の腕をピクピクさせながら、ハイネケンを飲んでいる男は、誰あろう弊社営業二課課長補佐工辞基我陣その人なのです。

 僕は、営業二課には因縁があります。というのは、課長補佐が抱えてている女性社員を別の机の島から眺めたり、廊下ですれ違ったりしたときの香りを楽しんだり、トイレの扉の前でばったり鉢合わせをしたりしたときの、僕を僕とも思わない冷たい眼差しの共通性をむさぼるためだけに、僕は資材調達の御用聞き係を買って出ていたようなものだったから。

 僕を僕とも見ないその目であればこそ僕は彼女たちにいくら凝視されても発作の出ることはありませんでした。そういえば、目の前の女の子が、僕を興味津々といった風に大きな目をくりくりとさせているこの状況下で、発作が起こらないのは奇妙です。いろいろなことが奇妙です。奇妙だと思うと、バニーの耳が少し垂れる仕様になっているものだから、僕をここに連れ込んだ目の前の二人には、この僕が奇妙だと思っているということが筒抜けなのです。むろん、彼らがこのコスチュームの袋の内側に書いてあった「取り扱い説明」にあらかじめ目を通していたのであれば、のことですが。

「君が奇妙だと思うのも無理は無い」

 すると、課長補佐がさっそく言いました。このバニーの衣装はつまり、僕の嘘発見器として選ばれたものなのかもしれません。

「ううん。陣ちゃんの趣味だよ」

 と女の子が足をぶらぶらさせながら訂正しました。口に出してもいない思いを訂正されるという経験は初めてでしたが、それは案外気楽なものでした。

「ところで、さきほどは失礼しました。気が動転していたものですから」

 先ほどの暴力沙汰を詫びてみました。モカマタリは相変わらず美味しいのですが、一緒に出てくる個包装のビスケットが、これまでに見たことの無い銘柄のものになっていることが、僕には何かの暗示か、象徴かに感じられました。

「暗示と象徴とは明確に区別すべきだ。とくに、このような世界では」

 さっそく駄目出しが入ります。あなたは僕の上司でもないのに…… と思いそうになったのをギリギリでこらえて、僕は頭を下げました。聞きたいことがあるといったのは、課長補佐のほうです。僕はただ、今は帰って、目の前の女の子の透明な体を想像してひたすら自慰がしたいだけだったのです。

「男ってみんなそうなのね」

 と女の子がゴクンゴクンと立て続けにタピオカを丸呑みしました。細い喉に嚥下されるタピオカの黒い球体を目視できないことが、これほどもどかしいことだとは、僕はいままで知りませんでした。食道から胃、小腸、大腸を経て排出されるまで、タピオカはタピオカとして姿を変えることなく、ただただ、僕の視界の焦点としてすべてをさらけ出しておいてほしかったのに。

「君が望んだ。だから妹は肌を透明にしたのさ。なぜなら君は自分が透明になることを拒否したからだ。いいかね。人間には二種類しかない。見る人間と見られる人間だ。君は見られることに耐えられなかったから、見る人間になろうとした。妹は見られる存在としてのみ美しい、違うかね?」

「変態だもんね。人間って」

 彼女がそういって笑うと、唇からミルクティーがすこし滴り、それを無意識に拭う手首の細さ、白さ。

「君は、目の前のビスケットに些細な違和感を感じたはずだ。だがなぜ、君が会うはずだった実未が現れず、妹の夏个静ノが現れたときには、違和感を感じなかったのか?

 君は凪を飛び出してすぐあの画廊兼バーに居たとき、そこでボッタクられそうになっても違和感を感じなかったのはなぜか?

 君が緋弐図を告ぐことができなくなるほどのPTSDを抱えた理由を一切詮索しようとせずにその運命を受け入れてながら、一子相伝の「血で血を洗う染め」を体得しることに違和感を感じていないのは何故か?

 そもそも、君がタイラカナル商事へコネ入社できたパイプとなったダッタインクの遠い親戚という男の記憶を君が一切もたないのはなぜか?

 なぜ、実未はその遠い親戚と通じており、しかも室田六郎とも密接に係わり合いをもっていたのか?」

 課長補佐は、矢継ぎ早に列挙しました。僕は指摘されたいちいちを想起し、そのどれもが説明の必要があるなどとは思えないほど自明であり、そのような説明のために脳を用いることはひじょうな背徳であるような感覚がしました。

「背徳感だよっ!」

 女の子がソファーからぴょこんと跳ねて、課長補佐の耳たぶをそっと齧りました。僕は思わず目を逸らせました。会社でしか会わない人のプライベートを覗き見ているような気がしたからです。

「それが背徳感というものだ」

 課長補佐はそう言い放ってハイネケンの中ジョッキを追加し、女の子はにんじんしりしりを頼みましたので、僕はモカマタリをもう一杯頼みました。そしてなんとなく手持ち無沙汰になったところで、アナルプラグがすこし緩くなっていてソファーのクッションの隙間に奪われそうな感覚がしました。

「違和感だねっ!」

 女の子がニコニコと僕を見ました。その視線は僕の眉間から後頭部に反射して体中に染みとおるような光でした。発作はおきません。こんなに凝視されているというのに、彼女の視線は、水の如く何ものこさずに、ただその経路に滞っている僕の何かを、直腸にむけて押し流していくようでした。

 グビグビグビと喉をならして課長補佐がジョッキの半分ほどを空けました。

「注意が向くから違和感を発見できる、のではない。違和感がある部分に注意が向くのだ。ここを絶対に取り違えてはならない。君は注意力が散漫だったわけではない。単にそこに違和感を感じなかったから、凪の扉の外が直接「裏美疎裸」の店内に通じていたことを、君は違和感なく受け入れた。なにもかもを受け入れて生きていく姿勢は、ある意味賞賛に値する。たとえばこの肌瑪兎のようにね」

 彼女の名前は肌瑪兎というらしい。僕は彼女がやはり妹ではないのだと落胆した。

「落胆!」

「それも違和感の一種なのだ。君はそこにある『何故だ』という感情に気づいたはずだ。違和感とは『何故だ』という苛立ちを必ず含む。なぜなら、違和感とは自らが構築した脳内モデル世界との違和、つまり齟齬によって発生する、フィードバック器官だからだ!」

 といわれても、僕にはピンとこなかった。だが、課長補佐は話し続ける。

「違和感を感じない脳とは、固定化された脳だ。つまりそれは固定化された世界に固定化された脳だということであり、そのような脳は自ら規範となるモデルを構築する器官を退化させた脳なのだ。世界を弁証法で捉えてはならない」

「難しい話はあまりよくわかりません」

 僕は白状しました。カフェインが足りないのでしょうか。僕はかつてタバコを吸っていたような気がします。なんだか頭がボーっとしてきました。

「ボーっとしてきてるよ!」

 課長補佐はうなずきました。

「脳が機能を回復しつつあるせいだ。続けるぞ。アナルプラグはちゃんとはまっているか?」

「は、はい」

「よし。確認を怠るな。続けるぞ」

「は、はい」

「現実と脳内モデルと空想とは、綿密に相互補完しあって存立している。『我』とはその存立を持続する器官に過ぎない。そしてここが重要なのだが、現実と空想とは脳内モデルを挟んでピンホールカメラの実景と写像のように相対している。ただしこの場合、実景=現実は担保されていないし、モデルが依拠するオリジナル=実景もまた担保されてはいない。さらに忘れてはならないのは、実景と空想とはなんら異なるところのない流動する「一」の、ことなる教義による顕現だということだ」

「は、はい」

 僕は今、目の前でどんどん冷めて、黒をより濃くしていく二杯目のモカマタリを飲むことも許されないまま、他部の課長補佐から、おおよそ会社とは無関係な、そして会社以外のことを話すほど親しくもない、ほとんど初対面の人に、まったくわけのわからないレクチャーを受けなければならないのはなぜだろう、と思いました。

「違和感!」

「それだっ!」

 肌瑪兎という子がうれしそうに指摘し、課長補佐がハタと手を打ちました。

「君は今、なぜ私からこんな話を聞かされなければならないのかと、疑問を抱いただろう? それはまったく正常な反応だ。だが、その正常な反応としての疑問は、どこから発生してきたのかを、君は吟味したことがあるだろうかいやない。人はごく自然に、常に『違和感』を覚え、その違和感の原因に注意を払い、違和感を与える側と受ける側とのどちらが、モデルを逸脱しているのかを計量するのだ、いいかね。脳というものはこの作業を行う計量所以上のものでは決して無いのだよ。だが、このモデルと違和感との誤差と馴れ合っていく器官がなければ『我』は発生しないのだということを、銘記しておきたまえ」

「は、はい」

「君は先ほど、象徴と暗示という二つの概念をもてあそぼうとした。だがその二つはとてつもなく取り扱い注意が必要な劇物であることを知っているものは少ない。そして、その二つはまったく別のカテゴリーに属する。詳しいことは省くがね。象徴は「喩」の極北に位置するものだが暗示は単なる「メカシ」でしかない。だから、象徴と象徴されるものとの関係性と、暗示と暗示されるものとの関係性はまったく異なっている。端的にいえば、暗示とは単なる仄めかしであるにすぎないわけでなんら飛躍はないのだよ、とそれはさておき」

「は、はい」

「現実-モデル-空想。という三位一体の構造は、我を生じさせるが、我がこの三位一体を生み出しているのではないというところをふまえ、かつこの三様をむすぶ「-」が『違和感』であったことを考えるとき、『我』とは『違和感』にのみ存続するということが明らかである」

「は、はい」

「然るに、これをわが社に敷衍するとだね。現実=制約=勤怠グリッド、空想=自由=凪、とすれば、モデルに相当するものはなんだったと思う?」

「は、はい。イルカチャンです」

「ピンポーン!!」

「10ポイントッ! そう。だがここで先ほどの三位一体と大きく異なる一点があることに君は気づいているのか?」

「は、はい」

「よし、言ってみろ」

「『違和感』です」

「ピンポーン!!」

「10ポインッツ! そう。タイラカナル商事の三位一体の場合『我』が違和感を持つことは絶対になかった。むしろ『違和感』を排除するためにこれら三様は仕組まれていたといっても過言ではなかった。そんな中、君、こと総務部調達課消耗品係見習いの緋弐図孔痲君は、制約を課すはずの勤怠グリッド内において、遊離分子であるかのような振る舞いを許容されていたからこそ、君は私の課の女性陣を堪能するためにわざわざ勤怠グリッドを破るような行動がとれていたのだ、いいかね。君はユニークだった。だがそれは君だけではなかった。社史編纂室校正担当主任の庫裏唐孤塁や、広報部の通武頼炉なども、同じようにユニークだった。だが、君がことさらユニークだったのは、君がその『違和感』を『凝視性不安症候群』という形で保持し続けた点なのだ。診断を下したのはンリドルホスピタル精神分析医の平喇香鳴だったのだろうね?」

「は、はい」

「ピンポーン!!」

「じ、ジュッポイント、で、す」

「よっし! 君は昨日の午後、うん。もう時計は0時を回っているからそう言い表すべきだろう。昨日の午後、社員達の『違和感』を排除する器官であるところの『凪』において、あろうことか『違和感』を発現させた。私のところの女性陣がトリガーとなってね。『凪』の激震はその直後に始まったというログを私は入手している」

 と課長補佐はズボンの尻から水色のファイルを取りだしてパラパラとめくりました。

「アナルプラグはまだ留まっているか?」

「は、はい」

「よろしい、決して気を抜いてはいけない。君は純粋空想の実験場であるこの世界で、脳内モデル無しで『違和感』を持ち続けることのできる希少なモデルなのだから」

「は、はい」

「で、これからどうする?」

「は?」

 突然の質問に、僕は息が詰まりました。理由はわかりません。そして例の発作が起こりました。これはいけませんでした。大発作の兆候を感じました。

「み、みずをください」

 ウェイトレスが水を持ってきましたが、間に合いませんでした。僕は冷めて真っ黒になったモカマタリを、ウェイトレスにぶちまけてしまったのです。

「いゃぁぁあああああああああぁあああぁあああ!」

 モカマタリは彼女のブラウスに触れると、白い部分をどんどんと侵食していきました。そして侵食された部分は光をすべて取り込んでしまい「闇」そのものでした。闇はブラウスのみならずもともと黒かったエプロンとタイトスカートにも広がりました。そのように広がっていくと、エプロンやタイトスカートの黒は、モカマタリの黒にくらべれば、ほとんど白といってもいいくらいの黒だったのだということが知れました。そして彼女の形の闇が完成するとそれは彼女の形であることを止めてしまい、ぐずぐずと足元へ崩れ落ちていき、ドロドロと足元に向かって流れてきました。僕はあわててソファーから立ち上がりました。その拍子にアナルプラグがスポンと抜け落ち、闇へ落ちてしまいました。闇に落ちたアナルプラグは「ジュッツ」という音をたてて黒煙となり、それはモカマタリの香りがしました。それからのことはあまりよく覚えていません。気がつくと僕はその店に一人でした。

 でも、ここでおきたことが夢でなかったことは、バニーの衣装とテーブルの上に残されていた白いポワポワ付にアナルプラグが物語っていました。マスターは「御代はお連れ様からいただいております」と言い、目だけで「もう閉店時間を過ぎているのだから早く出て行け」と言っていました。僕は後ろででアナルプラグを挿し、扉の外へ出ました。店の看板を見るとそこには、「間眄真」と書いてあり、会社とンリドルホスピタルとの中間地点にあるロータリーが目の前でした。僕はおぼつかない足取りで、真っ暗な夜道を家に向かって歩き始めました。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る