第125話 扉のこちら側


 扉には「凪」と書かれてあって、どこまでもドグラマグラ式だなと、隊毛は思った。腕時計を見る。長針が僅かに紫水晶を超えると、ムーブメントからもれ出る微かな明かりが短針に押さえ込まれ、微細に屈曲した秒針の反射で文字盤の各鉱石へ網目状に分光された。

「これは製作者の意図するところではない」という意味のラテン語が裏面に刻まれた秒針の先端は執拗に研がれており、もしそれを肌に刺したとしても蚊に刺されるよりも刺激は少ない。隊毛頭象自身、針を研磨することに研鑽を積んでいた時期があり、その技術はこの時計にも注ぎ込まれていた。

「だが、光を縫い止めようなどというコンセプトは私には想像さえできなかった。独創性のため、ではない。そのような陳腐な形而上学こそが、光を見誤らせるのだと考えていたからだ」

 扉の向こう側は、全てだった。この全てとは、世界の全てであり、宇宙の全てであり、人間の全てであり、神の全てであった。だが、隊毛はその「全て」が気に入らなかった。なぜならその「全て」は隊毛をも含めた「全て」だったからだ。隊毛は自分が要素として含まれる集合に属することを認め得なかった。認めると認めざるとに関わらず、そこに存在する限りにおいて存在物はその集合の要素であり「空」ですら「空」集合の要素の全てなのであった。隊毛はそのような「空」集合を嫌悪していた。

「それは透明な色を思わせる。白でも黒でも赤でも青でもない。透明を色と認めることは断じてできない。そして色のない存在を私は絶対に認めない」

 白くて華奢な隊毛の右手首では、時計の黒革のバンドが光沢をはなって砂漠の陰影を映していた。陰影は白と黒との相克だが、それは透明を争っているわけではない。白でなければ黒。黒でなければ白で、それ以外はない。隊毛はだから、「器体」という純粋属性を認めない。なんにせよ「純粋」という接頭語がついたあらゆる概念はすでに不純なのだから。


 ――さきほどまでいたイフガメの砂漠によく似ている。となればこの砂は脳にとって有害だ、コンピューターにとっても。


 イフガメの砂の一つ一つは巨大化した単一の素粒子で、しかも内部構造をもつことはレクチャー済みだ。いやむしろ、レクチャーする立場に隊毛は立っていたのだが、この場でそうしたポジショントークは足を掬われるだけだった。

 「主要登場人物」と隊毛は総括した。そのように分類される要素として自らが含まれていることが、隊毛は歯噛みするほど我慢ならなかった。フィクサーとは、フィックスしたあて布の印画としてのみ痕跡を残す、メタレベルのポジションであらねば効能がないのだ。すなわち

「作者?」

「否」

 今回の話の中で「主要登場人物」という表紙カバーの折り返しに掲載されないで済まされている登場人物は一人。作者ですら例外ではなかった。あの作者が単なる雇われ作者であったとしても、これまでの騒動が、その発端となった凪の暴走の時点で、凪が全社員に与えた「仮想現実」であるという想定も念頭においた上で、我々は善処してきたつもりだった。


 アクリルの立方体が半ば埋もれて、その埋もれたレベルと同じだけの砂の起伏を現実の300分の一程度の縮尺で再現された中に、数千人がボロボロの毛布を被ってうずくまっている。全員がへしゃげたブリキのコップを手にしており、そこに恵んでもらいたいのは、『水か金』かという、作品タイトルが有刺鉄線のように張り巡らしてあるのが、エントランスにある第一の展示品だった。

 その周辺には、二人分の足跡が乱雑に砂をえぐっていて、その足跡を注意深く観察すると、それは追うものと追われるものとの足跡で、どちらも裸足であり、追いかけている方の右手は砂に引きずるほど長く、追いかけられている方の右足には無数の補助足が垂れ下がってるであろうことが推測される。『ビーナス』というのが第二の展示物。

 扉のこちら側は、砂漠を模した美術館さながらの企画展示場なのであった。

 遠くからサーカスが蜃気楼を振り子のように滑っていた。火吹き男もいたし、裏表女もいる。空気女、狼男、テーブル娘、三面鬼。蛇女もいるし、砂男もちゃんといる。そして無数のピエロとクラウン達。白黒のピエロ。白赤のクラウン。みな同じ涙のメイクを施されて悲しげだ。裸足だからだろうか? この砂漠を裸足で歩けば、毛穴からも体内に入り込まれてしまい、その毛穴から入り込んだ砂粒のひとつひとつが世界の全てであることに我慢ならなくなるのだった。

 「呼吸すら有害だ」と隊毛は思った。

 サーカスの後ろをキャラバンがやってきた。それは平喇香鳴と部長の一群だった。後ろのロバの背には小箱がくくりつけられている。中身はご存知のとおり、元老医師と元真名刑事からなるタコブネ型CRTである。隊毛はその中身を知らされてはいないが、おそらくあの中身が、釜名見ナンバー18 として今宵お披露目される予定のブツなのだろうと推測していた。


 「すみません。用意に時間がかかってしまって」

 隊毛の背後から声が聞こえた。室田六郎だ。

 「おおよそご注文のとおりにセッティングできたと思いますが」

 「うん。こんなもんだろうね。間に合わせにしてはがんばった方だ。やはり『凪』システムを使ったのだろうね?」

 「釜名見煙の新作を縫い止める標本箱なのですから、それなりの器でなければ収まりきらないでしょうし。そもそも『凪』システム自体が、このための準備だったのでしょう?」

 室田は、謙遜しながらも自分が隊毛と同じ土俵上にいるのだというアピールを怠らなかった。隊毛は「そうだな」と簡単にうなずいて会場の中心部へと歩き始めた。室田もまた、砂に足を掬われながら後を追った。

 「ときに、工辞基はどうしました? ご一緒のはずでは?」

 会場には同着する、それが計画だった。だが、平喇香鳴がまだ蜃気楼の上方にいて、到着まではまだ数刻かかりそうな状況では、むしろ先行してこの会場を検分しておく時間がとれたことは僥倖だと隊毛は考えた。もはや工辞基を単なる調達家などと軽んじているわけにはいかない。経費をかけて作者まで仕込んだ策略は、九分九厘成功していた。だが、工辞基側の陣営が未だにほとんど成果を挙げておらず、撤退に撤退を重ねる電撃戦の様相を模しながら、見せた手札はほとんどが見せ札の捨て札でしかなく、撤退即前線といった無軌道ぶりは、ヤケクソにしては一定の倫理に貫かれているように思われた。隊毛は、誰か優秀なブレインがついているものと踏んでおり、そのフィクサーの尻尾をつかまない限りは、九分九厘以上の確度はありえないと思っていた。

「ボスについてはうまくやってくれたね」

「ええ。誰にでもバックドアはあるものです。人事などという下らんものでも、使い方によっては」

 社内の政治に血道をあげるがごとく、出世を第一義としてきた室田の、それは確かにもっとも秀でた部分ではあった。

「絡め手というやつだね」

「自分に自信をもっているやつというものは、あんがい身内にアキレス腱があるものですね」

「そうだな」

 こうした会話の全てが、隊毛には虫唾が走るのだった。

 パッヘルベルのカノンの振動が砂紋の形を次々と変えていく。いや、砂紋のほうが早かった。風は砂紋をレールとして右往左往している。遮る物とてない沙漠が空との空隙をほとんど埋め尽くしてしまっていて、もはや風の抜け道は砂丘にうねりくねる砂紋の僅かな窪みだけなのだろうか? だが、それならばその砂を踏みしめて、僅か数センチのU字型のすき間に、目刺しのように首を挟み込まれ、死に体となってぶら下がりながら、しきりとハットを取ったりかぶったりしている、作品『失速する窒息』や、インドの行者が祈る上空彼方からスルスルと垂れ下がってきたフンドシ状のフンドシとしか形容できない白いフンドシの先端が首吊りの輪となって、コリオリ力によって次第に大きな振り子運動を成すその未来の軌道に、その輪の到達を首を長くして待っている女のドール、題して『風と共に去りぬ』、さらにその奥の、犬のように尻を高く上げ、尻の下から激しく砂を掻き出すそばから、ざらざらと埋め戻されてしまう下半身丸出しのザトウグモのような形態の『水色のファイル』なる作品を、こうしてそぞろ歩くことができるのは、果たしていかなる空隙を我々は抜けているというのか? いや、この会場の砂紋もそれを奏でる風も『自由』と題した作品の一つなのであった。これら、動的な作品こそが「釜名見ism」の特徴なのよ。とこれは香鳴が漸く会場入りしたらしい。


「久しいね」

「あら、午後に会ったばかりじゃないの」


 香鳴はそう言って剥き出しの歯茎を広げた。隊毛は、マスクを外した香鳴に美を見出すことはなかったが、卑俗さを感じることもなく、歯と歯茎と筋肉と眼球とをむき出し、皮膚の襞によらず、いわば感情の原型を露呈させているところに崇高を感じることもあったが、それは自己犠牲という隊毛の手前勝手につけた決着の作用が大きく評価を歪めているのだろう。平喇香鳴は、ポストモダンの現代美術評論家として、顔を失うことが顔以上の顔になる、という現実を生きているだけのことだった。だから、そういう顔以外のとき、たとえば、ンリドルホスピタルの精神分析医の顔としてのマスクは、ちゃんと保存液に浸して所持しているのである。

 隊毛は保存液のシリンダー内をヒラヒラと漂う香鳴の、けっして老いない人工皮膚の顔皮が、このイフガメ沙漠の深い青空を閉じる瞼になれば素晴らしい、とおもった。そして、今夜の自分がこれまでになくセンチメンタルであることを、認めない訳にはいかなかった。


「少し遅れたようだが、何かあったのか?」

 その質問に全く無反応なロバから、部長が木箱をひょいと下した。そして、アルミとガラスと竹の組み合わせで構成された台へその箱の中身を軽々と設置すると、台の裏からとても長いボルトをぐりぐりとねじ込んで、タコフネ型CRTが台から浮き上がり始めると、右手でガッシと押さえつけ、さらにギリギりとボルトをねじ込んだ。そのボルトが骨をもたない蛸の背骨となったかのように、タコはタコの形で台上に立ち上がり、その頭上に貝殻を捧げ持つ状態となった。貝殻の口にあるモニターに、白いものがぼんやりと映った。


 ――これが18か


 隊毛はその、軟体動物だか大理石像だか粘土だかボール紙だかよく分からない素材でできた、不格好なテレビジョンをしげしげと眺めた。美術画廊の企画主任の肩書をもつ隊毛であればこそ、やはり芸術作品には興味を惹かれる。その上それが釜名見であれば一入である。たとえ贋作と分かっていても、このお披露目によって周知され、香鳴によって作品の位置づけが確定すれば、それは紛れもない釜名見ナンバーズの新作となるのだ。コロニーの所定鑑定人である我々が真作と認めれば、それは釜名見煙なのである。


「造形に癖があるね。単純な形の組み合わせ、数字やアルファベットを模していた時代からまた変遷したということかね?」

「釜名見こそ生きた歴史だわ。歴史は停滞を嫌う。そうでしょ?」


 タコフネモニターに、砂が映し出された。それは蟻の巣を観察するときみたいに砂中の断面のように、映し出されているのだった。


「形而上的問答から、砂か。なかなか悪くない趣向だ」

 だが、香鳴の目は泳いでいた。

「まだ、設定してないのよ だからこれは自発的な……」


 単為生殖せるヨセフ


 そう読めるラテン語がモニター内を駆け回る。その背後に純白でぼんやりとした人型の人が、胎児の姿勢で逆さに吊られていた。

「或日野か……」


 隊毛はモニターを丁度二分するようにアップで映し出された真っ白な尻をみて、ギリと歯ぎしりをした。

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