第110話 ギャラリー裏美疎裸

 裏美疎裸は、裏通りに面していた。だが、ゴミバコがいくつも並んでいて、そこここに吐瀉物がこびりついて饐えた臭いが充満しており、さまざまな配管が、かつては目に痛いようなビビッドな色で塗りたくられていたものが、経年劣化を経てバクテリアの培養シャーレのような色合いに変化していて、不定期的にシューッという蒸気を吹く金属製のとんがり帽子がならんでいたり、空は洗濯ロープに細分され、ネオンはみんな切れかけていたり、角に穴があいていたりするような、The 裏通りというわけではなく、間口の狭い料亭の、竹垣や石灯篭が点在する閑静な裏通りにあった。

「裏美疎裸」という看板レリーフは凝った代物だった。

 ブロンズ鋳造の30×70ほどのサイズに、アールデコ風の文様を透かし彫り風にして、その空隙のところどころに切子硝子風のステンドグラスを施してある。

「38万円といったところだろう」と隊毛は査定をし、売価は140万円から、と見積もった。

 それからあたりを見渡し、懐からシガレットケースを取り出すと、精巧に収納されたピッキングの道具のような一式を手馴れたように選び、レリーフにはめ込まれていた中で、もっとも立方体に近い硝子キューブを難なく取り外すと、その透明なキューブを空に透かしながら、特殊な角度のついたカッターのような道具で瑕をつけた。

 その間、1分もかかっていない。

 やがて隊毛は、そのできばえに満足したかのようにうなずくと、もう一度キューブをピカピカと太陽に反射させ、それを紫色のハンカチに来るんでポケットにしまった。そうして、ネクタイなどを調えると、今度は裏美疎裸の呼び鈴を躊躇せず押した。

 リンドンリンドン

 案外な重低音が響く。

 扉は重厚な鉄製で深い藍色をしている。先週まで「アニメ原画展」を催していた、というが、この外観を見る限りは正統的な「画廊」であって、たとえば、展示即売の版画を取り扱うような格の門構えではないように、隊毛には思われた。

 カチン。パチン。と小気味宵サムターン錠の音が二回し、カチリ。カチリ。と金属製ドアストッパーをはずす音が二回。それから、バチンバチンという金庫を閉ざしているかのような鉄パイプのロックが外れる音と、ドッシューという機密扉内部に大気が侵入するときの音が続いた。隊毛は、これらの音が続く間、直立不動のまま、眉一つ動かさなかった。

「どちらさま?」

 バーテンダースタイルの40代くらいの、やせて油の抜けきった男が扉から顔を覗かせた。肌に油分が少ない分を、伸びすぎた髪を撫で付けるのにポマードをたっぷりと使っていて、安物の整髪料の臭いが鼻を突いた。隊毛はこのとき初めて、眉をピクつかせた。

「画廊主の方か、バイヤー担当者にお目にかかりたいのです」

「で、あなたは?」

 隊毛は名刺を渡した。

「「キオラ画廊 隊毛頭象」さん? アポイントはありますか?」

「いえ。じつはここに画廊があることすら知りませんでした。さきほど偶然知り合った人にギャラリーがある、と聞き込みまして。このタイミングでギャラリーの情報が手に入るということは、きっとめぐり合わせだろうと考えたわけです」

「このタイミングとはなんのことです?」

 隊毛はここで、まったく無意味に頷いてみせ、それからささやくように言った。

「実は現代芸術に関するちょっとしたことを、先日聞き込みました。1937年8月24日に37歳で死んだとされる、釜名見煙の未発表ナンバーズの試作品の件なのですが……」

 釜名見、と聞いた瞬間に、バーテンダーの顔が引き締まった。それは、非常に微細な変化で、たとえば頬や唇の毛細血管の瞬間的な拡幅だったり、毛穴の緊縮であったりする程度のものだったのだが、隊毛がその変化を見逃すはずはなかった。

 また、その変化から、今目の前にいる単なる留守番のような態で現れたバーテンダー風の男が、実質的にギャラリーを取り仕切る者なのだということも、看破していた。

「ど、どうぞ。お入りください」


 裏美疎裸内部は、ギャラリーというよりもキャバクラそのものだった。作品展示が可能なのは周囲の壁面と、スキップフロアになった階段部分の片側の衝立、そしてロフトの手すりといったところだろうか。もっとも、奥に通じるドアが二つあり、そのいづれかがギャラリー機能を満たしているのかもしれない。隊毛は、キャバクラ店内のバーカウンターに通された。つまり相手はまだ警戒を解いていないのだと隊毛は理解した。

「何か、召し上がりますか?」

 とバーテンダーがピスタチオの小皿を置いた。

「ではジンライムを」

 バーテンダーは無言で頷き、教科書どおりにジンライムを作った。

「どうぞ」

 可もなく不可もなく、といったごく平凡はジンライムだった。

「これで、いくらです?」

 隊毛は単刀直入に尋ねた。

「チャージ料にピスタチオチャームに商品代金に酒税とサービス税をあわせて、4万3千6百2十5円です」

「なるほど。ではこれで。釣りはキリルでもらおうかな」

 と隊毛は、ポケットから紫のハンカチを取り出し、バーテンダーの前に置いた。

「こ、これは」

「釜名見ナンバーズ18の試作品b-24と称されるエスキスだ。これがどういった代物か、君ならわかるね」

「ちょ、ちょっと拝見」

 バーテンダーは、震える両手に白い手袋を嵌め、慎重に片眼鏡を装着した。

「モチーフはscrap 02. 凝視。だと、私は推測している。出所もたしかなものでね」

「そ、それは、ど、どこからの?」

「霊山町山戸田の妙音寺の小庫裏で、長らく文鎮として使われていたのです」

「ぶぶぶぶ文鎮ですと?!」

「当時を知る住職は当時は子供だったそうですが、釜名見煙を覚えていました。『山も空もみな枯葉』とつぶやいては、境内を歩き回っていたそうです」

「一即全全即一を提唱した釜名見煙でしたら、そう言いそうなものです。いや、その寺には私も何度も足を運んだんですが。住職はまだご健在でしたか」

「だいぶお悪いようです。私も断片的にお話を伺っただけですので」

 オブジェを検分していたバーテンダーの手が、再び震え始めた。慎重に両手で持ち上げ、それを天井のライトにむかって掲げ、一辺一辺を覗き込むように確認している。

「私はおそらく釜名見はこの作品から、歴史へ回帰しようとしていたのではないかと考えています。いわゆる、終わったとされる大文字の歴史へ」

 バーテンダーは、オブジェをそっとカウンターに置いて、強炭酸のペットボトルを開けて、のどを鳴らして飲み干すと、グェ~~~~~っと長いゲップをした。隊毛はそれを微笑んで見守っていたが、内心では「死ね」と思った。

「釜名見はもう終わった芸術家だとみる向きもあります」

 バーテンダーは、ボウタイをいじりながら話し始めた。

 隊毛は、ピスタチオの殻をそこいらじゅうに撒き散らしながら、そのボウタイがなんらかのシステムの起動ボタンだろうと推測していた。

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