第99話 ンリドルホスピタル第三病棟の306号個室

 そのころ、ンリドルホスピタル第三病棟の306号個室では、脳外科医氷見佐治が必死で心肺蘇生を試みていた。患者は瑞名芹だ。彼女は、ボスと氷見とが会談をした寝台32号からこちらの個室へ移されていたのである。

 剃り上げられた頭に吸い付く無数の吸盤。そこから伸びる色とりどりの電気コードが、セントラルハブのような機器を通してポータブルターミナルに接続されている。それは、瑞名へ何かを贈与するためのラインではなく、根こそぎ搾取するための触手だった。

 除細動装置がチャージされ、瑞名の身体を激しく跳ね上げる。そのたびに、夥しい数のコードがバラバラと中空を舞う様子は、現代アートのようであった。実際、この様子は8Kカメラで録画されており、将来的にはカマナミナンバーズを付されることになるだろう。

 幾度目かのショックのあと、氷見は腕時計を見た。それは、かつては隊毛がはめていたのと同一モデルで、工辞基がオークションで手に入れていたというカマナミコロニーの記念品だった。なぜそれを氷見佐治がはめているのか?

 それは今はおいておく。瑞名のステイタスは33から22へ移行していた。

「18時32分。死亡。死因はショックによる亢進性脳ヘルニア」

 氷見はそう宣言し、傍らの丸椅子にぐったりと腰を下ろした。

 と、その途端「ズンッ」という猛烈な痛みをはじめとする複雑な情感が稲妻のように背筋を駆け上った。「ヒッ」っといって私は飛び上がった。

 U字型に折り曲げた二本のパイプを脚とした、座面の中央に丸い穴があいているごく普通の丸椅子。その穴から、両手の人差し指を突き立てて組んでいる手が突き出ていたのである。それは、「浣腸」の形そのものであった。その指は白くて細い、女性のものであるように見えた。だが、これまでの登場人物の中に、そういう指をもった者は少なくなかった。氷見の手も白くて細かったし、或日野も、隊毛も美しい指をしていた。

 だが、それも今は二次的な問題であった。パイプ椅子の脚元には、四本のパイプの脚しかなかった。人差し指を突き立てて組まれたいる両手は、座面の厚みより下方には、はみ出していないのである。私は肛門に疼痛を感じ続けながら、その人差し指のぐねぐねと蠢くのを観察し、椅子の下をよく見ようとして床に膝をついて、土下座の姿勢になった。こうして無防備になった後方から、ザラザラザラザラという音が、背後から聞こえてきた。私は「ハッ」として「グッ」と背中を折り曲げた。すると、両膝の間に三角錐の赤い砂の山ができていた。頂点にザラザラザラザラと落ち続ける砂。その出所は、あろうことか、先ほどこの浣腸の指に貫かれた私の尻の穴からだったのである。私は………

「私だと?」

 私は自分の尻からとめどなく落ちる赤い砂が形作る山に、しだいに壁際に押し退けられながら、そうつぶやいていた。椅子の穴から指は消えていた。私は砂の圧力に押されて遠ざかっていく丸パイプ椅子を必死でつかみ、それをハンドルのように操作しながら、この部屋の中央の座標を死守し続けた。何と言ってもそこには、私が執筆に用いているポータブルPCがあるからだ。そこから引き剥がされてしまっては、私は……

「私だと?」

 思い起こせば、数年前。まだ私が若かったころ。たしかに数回、私は降臨したことがあった。それは若気の至りであったかもしれないし、自らのストーリーテラーとしての役者不足具合に嫌気がさしての所業であったかもしれない。物語は停滞してはならない。停滞するとしたらそれは、小説を導入する契機に他ならない。終わらない物語を語り続けるためには、どこかで亀裂を糊塗しなければならないだろう。そういう場合のフエキ糊として、またはヤマト糊として、私はこの物語の「統覚X」として降臨し、デウス・エクス・マキナを殺処分し続けてきたのではなかったか。予定調和の物語などご免だ。私自身もまだ知らない小説。私の創造力の極北へむかう旅。その心意気で私は……

「私だと?」

 私は周囲を見渡す。体はすこぶる軽い。そりゃそうだよね。もうあらかた噴出し尽くしたからね。だがそんな宿便もどき、いくら排出したところで私という存在はちっともお変わりはしないはずではなかったか?

 そう。みなさんそう仰います。私は私だ。だから私は大丈夫だ。ハッ! そんな循環論法、エクセルならたちどころに「エラーマーク」じゃないですか。こんなに表計算が発育したコンピューターでも。女心のニュアンスはAIじゃないと解明できないんだから。だいたい、私は……

「私だと?」

 そう。認めたくないものだな。自分の、私が故の過ちというものを。だが、戦いに引き込んだのはお前だ。ララァは戦いをする人ではなかった。みんなそうだ。戦うために生まれた人間なんて一人もいないはずでしょ。人は分かり合えるし笑い会えるし、乳繰り合える。フリーセックスアンドザシティーハンターハンター。それが、理想だということは間違いない。そういう「正しい理想」を掲げることには一定の効果がある。だが、目の前に人参をぶら下げられた馬を、君は見たことがあるかい? 馬は、目の前でだらしなくブラブラしている赤いものなどには目もくれず、飼葉を食っていたよ。ベツレヘムの馬小屋にいたころから、それが事実だしそれが空想というものではないのかね。だいたい私は……

「私だと?」

 幼稚園の頃には、日曜学校へ通っていました。それがキリスト教だから、ってわけじゃなかった。母だ。母が洗礼を受けていたから。母は敬虔なクリスチャンだった。今でも母が愛用していた、文語新旧約聖書は本棚においてある。赤いボールペンで細かな書き込みが無数にあって、黒と赤と地の白色とが複雑に絡み合っているところを、ぼんやりと眺めていると、まるで別の何かが見えてくるようだったし、賛美歌を歌うのは好きだった。ボーイソプラノだったからね。半ズボンをはいて、茶色のチョッキにベレー帽を被ってね。楽しかったなクリスマス礼拝。でもそれは、クラブ活動みたいなものだった。私たちはアイドルになりたかっただけで、それが就職活動だなんて思いもしなかったって、アイドルの子のブログに書いてあったことは、間違いありません。でも私は……

「私だと?」

 ポータブルを凝視する。『と、その途端「ズンッ」という猛烈な痛みをはじめとする複雑な情感が稲妻のように背筋を駆け上った。「ヒッ」っといって』

 までの文章の後で、カーソルが明滅している。静かにしろといでもいうように、「シィー」っと唇の前で人差し指を立てているかのように点滅している。

 人差し指だ。ここでも人差し指が、人を化け物のように指差して揶揄している。思えば、これまでの人生は、こういう人差し指をいかに無視するか、の鍛錬に終始していたような気がする。

 ザラザラザラザラ。砂はまだ止まない。ああそうか。尻の穴からダイレクトに砂が落ちてくるということは、ズボンとパンツをあの人差し指浣腸は、完全に貫いていたのだな。狙いを過たず。そう。人々が異邦人を指差してヒソホソ話をしている時の情け容赦のなさは、異邦人の急所を決して過たないのではなかったか。「自分たちと違う」というその一点を、的確に突き、ルーツまでも引きずり出してズタズタに引き裂くのが、その人差し指だった。

 天を示し、地を示し、目を示し、口を示し、胸を示し、局部を示し、犯人を示し、後ろ指を差す。それらはみなこの、人差し指だった。だから、「西遊記」というのは当たっていると思う。それはある意味、地球は丸いということへのアンチテーゼでもあるのだ。つまりたとえ、無限を偽装した円周が得られたとしても、人々は決してそれを周回し続けることはできない。ならば、その無限は、観念としての無限なのではないのか。そして空想とは、引き伸ばされた永遠なのではなく、凝縮された刹那なのではないのか? そこまで考え及んだとき私は……

「私だと?」


「ああもう。クドイな」

 隣の小さな砂塚から、死亡宣告された瑞名芹がむっくりと起き上がった。彼女の頭の無数のラインは間違いなくこの文章を打ち込んでいるポータブルPCに接続されてい……

「これ、ダイソンコードレス掃除機だけど?」

 瑞名がそういって、手元のスイッチを入れる。すると強力なモーターが案外静かに運転を開始し、瑞名の頭蓋骨内の微細なニューロンまで吸い込み、透明のポッドへクルクルと再現されていった。それは、凪で或日野と多比地とが検証していた3Dモデルなどではない、れっきとした脳みそなのであった。これまでに私は……

「私だと?」


「もういいかな」

 砂の山から、ボスが現れた。続いて、隊毛。工辞基と肌瑪兎とが続いた。

「或日野君はいないのか」と私は……

「w――」

「もういいから」

 と私の言葉は、肌瑪兎の「シッ」に阻まれてしまった。それからあれよあれよという間に、私は私の尻からこぼれた砂山の頂点に立てられた、十字架に磔にされていたのであった。

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