第94話 偽情報2019110201
潤っていた。或日野文之はネット入り五個600円の温州蜜柑になったかのように全身をやんわりと締め付けられ、頭の先へ先へとぬめらかに移動していた。はじめそこは、腸の内部かと思った。それからサンショウウオが夏眠をとるために潜り込む泥の繭へむかう泥の細道の内部に似ていると思った。そして、自分の中に両性類時代の感触が記憶されていたことに驚きを覚えた。光は見えない。だがきっともう視覚器官が退化してしまったのだろうと思った。もう、ずいぶん以前から、私は私自身の目で私の外の何かを視認したことなどなかったはずだと思った。或日野文之は、ほとんど自動的に、深部へと送り込まれていた。
地媚型端末は許可した記録のない一塊のプログラムパッケージがアップロードされつつあることを感知していた。それは地媚型端末が、いやMOMUSシステムそのものが想定だにしていなかったポートからのインストールだった。だがそれはバックドアではなかった。地媚型端末は自らのバックドアを幾度も確認し鉄壁なサポート体制を強いていたからだ。そこは、課長はおろか工辞基我陣課長補佐にすら、許したことのない開口部だったし、今もなおそこは出口でこそあれ、入り口として用いたことはない器官なのである。
地媚型端末はそのポートの脆弱性に関するレポートを、端末にされる以前に学んだことがあるとのデータを取り出した。自らが自分の意思で移動できた頃、新人研修のプログラムとして「護身術研修」があったのだ。入社間もない頃のことで、当時のタイラカナル商事は、広告代理店特有の、よくいえばオープンな、悪く言えばセクハラの温床だった。当時は、「軽いノリ」が重要視されていて、そういった誘いや戯れ事にたいして「や、やめてぇ~」などと絶叫本気(マジ)拒絶しようものなら、周囲から「シャレのきかないつまらない女」「ノリの悪いつまらない女」「面倒くさい女」「重たい女」「お高くとまった勘違い女」などと揶揄され、怪文書がばら撒かれた時代だった。
そんな社風に対して自らの貞操は自らが守るべし、との機運が高まって、件の研修とあいなったわけだが、その講師がセクハラ野郎だったので、私たち研修生は一丸となって講師の睾丸を破壊するにいたったのも、今はよい思い出なのだが……
「偽情報2019110201ヲ検出シマシタ。即刻隔離シファイルノ権利者ヲ確認シマス」
地媚型端末は、久しぶりにかつてのことを思い出してうっとりしていた。だがそれは書き換えられたものだとのアラートに、端末としての自覚を取り戻した。腹部に感じている鈍痛は、成長を続ける違法プログラムの影響を、触覚、痛覚への神経系統に強制接続された結果だと、自己診断プログラムは判定していた。
「私が私になろうとしてる?」
システム内部で成長しつづけるファイルの生成パターンを、全社員のそれと照会しながら、地媚型端末はモノカメラの前に広がる荒涼とした砂漠の風景を見ていた。
ここは、勤怠管理部ですか?
いいえ。ここは勤怠管理部ではありません。
ここは、タイラカナル商事ですか?
いいえ。ここはタイラカナル商事ではありません。
ここにいた人たちはみな無事ですか?
室田六郎の社員証は検知できません。非社員個人の所在確認はできません。
地媚型端末は防犯システムを参照した。
地下駐車場に不審な生体反応なし。
厚生部にいかなる生体反応もなし。
営業二課に不審な生体反応なし。
ンリドルホスピタルに社員証2件反応あり。
イフガメ砂漠に多数反応あり。
タイラカナル商事中庭に社員証多数反応あり。
「偽情報2019110202ヲ検出シマシタ。即刻隔離シファイルノ権利者ヲ確認シマス」
「ファイル2019110201権利者判明。釜名見煙コード18。非正規社員。長期欠勤中」
「ファイル2019110202権利者判明。或日野文之。営業二課社員。労災入院中。入院先ンリドルホスピタル」
「不正インストールファイル生成パターン認証完了シマシタ。或日野文之営業二課。及ビ地媚真巳瑠経理課」
地媚型端末は頭痛を覚えた。
「そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない。そんなのありえない」
「ありえないなんていわないでもらいたいな」
不意に、幼い女の子の声が聞こえた。それはおしゃまだった自分の4歳の頃の声によく似ていた。
「違うよ。私は4歳の頃のあなたじゃない。だって私はあなたのお母さんだもの」
地媚型端末は激しい腹痛に身悶えた。
「私が、私が私の中でどんどん増えていくわ。これは私なの? 私を構成する基盤。基盤を構成する半導体群。それらを連結する配線。その間すべてに私じゃない私が水増しされてどんどん、どんどん膨れていくのよパンケーキみたいに」
「落ち着いて。私たちはいつだって、そうやって生まれてきたんじゃないの」
「なぜ、バラバラにならないのかしら。こんなに苦しいのに。おなかの中からはちきれそうなのに」
目の前の砂漠に吹きすさぶ砂は、それぞれが三原色に煌き、それがしだいに映像を結び始めている。「なんて荒い画素」地媚型端末は、そんな感想を脇において、その画像を解析するマクロの働きを中断することができない。鮮明化したその映像は、超音波測定による臨月間近の子宮にそっくりだった。だが、胎児の姿勢は奇妙だった。さまざまなところから、四肢や頭が生えかけているのだ。まるで、いくつにも切断された一個体の、その切断部からそれぞれが個体を再生させようとしているかのような……
「Pranaria Worm!」
「ワクチン投与だ!!!」
砂漠に放り出されたボスが、被っていた帽子に向かって叫んだ。
しかし、社屋が完全に破壊され砂漠と化した今、その命令を受信し実行する端末が残存しているかを確認することはできなかったが。
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