第93話 空想と脳

「君はンリドルホスピタルから来たのだろう?」

 隊毛はボスにそう声をかけた。

「ンリドルホスピタル? あれはロータリーの反対側にあって車で40分はかかるはずだぞ」

 真名刑事が憤然と隊毛に詰め寄った。

「死体が異常で現場も異常。おまけに関係者が全員異常とくれば、それはもうほとんど正常といってもよろしい。が、俺は好かん。四人か、五人か。死んだのは? 二人か、三人か、失踪してるのは? その上、数百人規模で社員の安否が不明なんですぞ! SF空想漫画みたいに楽しんでいられる脳みそが疑われますなッ」

 この捨て台詞に、ボスと工辞基と隊毛の三人がニヤニヤと笑った。

「なんですか、あんたたちは。この俺を馬鹿にしとるんですかな!」

 三人の間には突如として融和と理解のリボンが輪を描いていた。それが何色なのかを足元の肌瑪兎がツンツンとつついて見極めようとしていた。そして、三人の無言の視線のやりとりの結果、もっとも第三者的立場であると真名刑事が考えていると思われる隊毛頭象が、ちょっと帽子をとって「失敬」と会釈をした。

「いや、意味ありげにニヤニヤしたことを断罪するには及びません。このとおり謝罪いたします。我々、と俄かに共同で合資会社でも設立した発起人でもあるかのような呼称はくすぐったい気分ではありますが、これで我々は真名刑事を少々見くびっていたと反省したのですよ。いや、お怒りにならずに聞きなさい。真名刑事。あなたは今、今回の状況の中枢を見事に言葉で射抜かれたところなのです。我々は、感服したのです。さすがその人あり、真名の真贋を見ぬく心眼の前では、五里霧中の現場であろうとも暗雲たちどころに吹き払われて、実相が露わになるのも時間の問題だろうとね」

「ほめても、何も出やしませんよ」

 真名はまんざらでもなさそうにカウンターに寄りかかった。話を継いだのは工辞基だった。

「いや。細かな事情をご存じない真名刑事が、空想と脳に疑いを向けられている点には、超人的なものを感じました。確かにそのように言い表されてみると、全ての展開が繋がってきそうです。確かに、私も室田も個人的な思いはある。それは、隊毛さんもそうだろう。広報部は少し毛色が異なるようだが、それでも社のために状況改善のために尽力してくれているといえる。空想と脳。問題はそこにつきる」

「空想と…脳…」

 真名刑事はそういって頭を抱えた。

「だが、それには器がいるでしょう。人間の頭という、輪ッパをはめるにふさわしい体をもった頭が!」

「それが不明なのだよ」それに答えたのはボスだった。

「私は、いましがたまでンリドルホスピタルにいた。モップ掛けで縊れていた二つの遺体の検死につきあいながら、泌尿器科の千曲医師の通夜と、院長との過去の経緯を聞いてきたのだ」

「ははん。そのタイミングでしたか。あんたがここを無断で抜け出したのは……」

「今となっては昔のことです。それはさておき、ンリドルホスピタルの精神科病棟で、平喇香鳴女医と有意義な会見をしてきました。これは隊毛さんにご報告申し上げて起きましょう」

 隊毛は一瞬不快そう眉根を潜めたが、簡単に右手を上げ下ろしした謝意を伝えた。

「真名刑事。お聞き及びですか? 釜名見煙」

「ああ。先日の夜、パーティーの警備に駆り出されたばかりだよ。石膏とテレビのおもちゃみたいなものの周りで乱痴気騒ぎさ。まったく、金持ちのすることは理解できん」

 真名刑事の言葉に、隊毛と工辞基の二人が息を呑んだ。

「あの夜、あのキオラ画廊に、いらしてたのですか?」

「ああ。あの後ちょとした事件があって、その検分があって。ひと段落ついたところでここの事件だ。俺だって人間なんだまったく……」

「その、事件というのは、その……」

 と室田がおずおずと首を伸ばした。

「画廊主の骸骨煎藻なる男への傷害事件だよ。もっとも被害者が行方不明になってしまって事情聴取は滞ったままだが」

 隊毛は工辞基を、工辞基は隊毛をぎろりと見た。さきほどまでの共闘姿勢はまったく失われていた。口を開いたのは隊毛が先だった。

「先ほど営業二課に現れた死体について検視報告などは?」

「忙しくてね。簡単な所見くらいはあがっとるかもしらんが、俺は遺体も遺留品もみてないんでね。殺害現場は他所だっていうし、どうやってあそこにもちこんだのかが不明だからな…… そうか。お前がンリドルから突如としてここに登場できるような、抜け穴があるんだな!」

 真名刑事は口から泡を飛ばしてボスに詰め寄ろうとした。そしてカウンター下にピンと伸ばされていた白い棒状の棒にひっかかって、盛大に転倒しそうになった。だが、その先には或日野の糞尿がまだ湯気をたてていたので、あわててカウンターに身体を預けたのだが、その場所が悪かった。

 三角形は安定しているが、その重心を通過するそれぞれの辺から三分の二だけ外れた点は、ラグボアジェの脾骨と呼ばれる特異点で、そこに外力が加えられると、三角形の安定はたちどころに崩れてしまうのだ。室内の長い長いコンピューターラックをおさめて、会社側と社員側とを明確に区分するベルリンの壁かのように部屋を仕切っていた長い長いカウンターごと、ボスはひっくり返った。カウンターは中空で近くにいた五人をなぎ払いかねない勢いで回転した。全員がその場を逃れたが、ヒュンという風切音と熱風を頬に感じていた。幸い、全員が或日野の糞尿からも免れたが、カウンターの下におしこめられていた色とりどりのコードの塊が、空気をはらんで膨れ上がり、ブルンブルンと震えた。それはあたかも小腸の蠕動運動のようだった。

「あっ!白い人が!」

 床にペタンと座っていたおかげで、その場を一歩も動くこともなく、中空で錐揉みするカウンターの一撃をまぬかれた肌瑪兎が、地媚型端末の股間を指差した。

 白い棒状の足をきっちりとそろえて、コードの布団に包まって糞尿放屁を繰り返していた或日野の腰から上は、もはや見えなかった。ちぎれたのではない。あろうことか彼の白いからだは、足をうねりくねらせながら、地媚型端末の股間奥深くへ、その身を捻り入れているのであった。

「受精……」

 ボスは思わずそう呟いていた。

「逃がすものか!」

 とこの場合、適当か否かが疑われる表現で真名刑事が白い足先に飛びついた。だが、ブルブルと震えているだけに見えたその運動は、真名の巨体を一撃で吹っ飛ばした。

「きょ、協力せんか!」

 こういう時の官憲の声には矯正力があった。さきほどまでの共闘関係が俄かに再燃した三人と、あまりのことに思考停止していた室田との四人が真名刑事に習って、三人と二人とに別れて、もはや膝までもぐりこんでいる足を掴んだ。

「うんとこしょー どっこいしょー うんとこしょー どっこいしょー」

「肌瑪兎……」

 五人の男は汗まみれで床にへたり込んでいた。つま先が地媚型端末の股間にスルリと消えた。とたんにボスの帽子にすさまじいアウトプットが始まった。広報部からのMOMUSモニター班からの報告だった。

「pranaria が猛烈な勢いで膨れ上がっています。500Mb/sec」

 それと同時に、室内の温度もみるみる上昇していた。猛烈な圧力がかかっているようだった。そしてその行き着く先は

「爆発するぞ!」

 真名刑事が、隊家が、室田が、ボスが、工基基が室内を飛び出した。その直後、勤怠管理部は爆発を起こした。爆風は屋外側へ抜けていったため、彼らが対比した廊下側の被害は少なかった。だが、爆発以前から社屋は荒廃しきっているようだった。床にも壁にも、水平や垂直は皆無だったし、平滑な面は小指の先ほどもなかった。そして、大量の砂がいたるところに積もっていた。その砂は爆発したてであるかのように暑かった。

「君。あの女の子はどうした?」

 真名刑事が工辞基に尋ねた。肌瑪兎の姿はどこにもなかった。

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