第85話 アンゲルミュ

1 どこからはじめればいいかいつもまよってしまう(というタイトルが現れた。今回の動画は、ぐっと映画的……)


 真新しい社屋の薄暗い片隅にある社史編纂室。壁は亀裂だらけで、扉は内側からいびつに膨れている。辺りの廊下からして、へんにじゃりじゃりしているし、埃の量も多いので、マスクとゴーグルがないとつらい。そんな荒廃した一角だが、別段立ち入り禁止でもなく、ヘルメット着用の表示もない。

 そんな部署に配属になった日には、勤労意欲なんて涌くはずもなく、南側の中庭に通じているはずの高窓からの日光まで、その直下にある僕の机を無視して、背後にある、凹んだ扉の上をこれでもかというくらいに炙っている。一日中、そんな陽射しが天上あたりにあるおかげで、この部屋は冬でもコートいらずだ。

 OA化に逆らって、資料は全てファイル綴り。しかも万年筆による手書きオンリーで、書き直しは一切認めないという内規。それでいて、書体に関する規定がないから、前任者の癖字に慣れないことには一文字だって解読できない。噂では、前任者は書類の雪崩の下敷きとなり、発見時には、身体じゅうに凍傷が見られたとか。いや、真っ黒こげだったのだとか。腕に大きな引っかき傷があったが、血は一滴たりともこぼれていなかったのだとか。

 それほどの大事件だというのに、真っ先に記録すべきこの社史編纂室の資料のどこにも、その件は記されていないのだとか。

 では、当時のことを誰が記録にとどめていたのかといえば、広報部の連中が闇で発行している裏社内報「アンゲルミュ」が、見開きスクープとして粗い粒子の白黒写真を掲載していたのだそうだ。社内をこそこそと、時にはズケズケと、あらゆる障壁をものともせず、取材を行う姿勢と、それでいて、人事課や法務課とは一切協力しない態度から、役付き連中にはひどく嫌われている一方、僕達のような平社員には人気がある。もっとも、つきあうのはごめんだけど。


×××


 見ている連中のうち、真名刑事以外がヘンな顔をした。それは、あまりにも社内の内情でありすぎたからで、社史編纂室での変事を知る由もなかったからだ。ヘンな顔をしなかった真名刑事は部外者だから、自分たちが今いるところを舞台にした映画が始まったのかな、程度の認識しかもっていなかった。そして、今や完全に地媚(方端末)の足元のコード内に埋没している或日野がどのような顔をしていたのかは、誰も知る由もなかった。

 工辞基は手駒を失っていた。彼の三人のエンジェル達の一人の地媚は、室田の報復にあって目の前の端末にされてしまったし、未伊那は所在不明。瑞名はンリドルホスピタルへ搬送されてしまったし、今、肌瑪兎を手放すこともできないのだ。社史編纂室とは因縁があった。前任者とは誰のことなのか? そもそもこの映像のタイムスタンプは? 全くの創作とも思えない細部の細かさに、工辞基は映像の展開の一瞬に緊張していた。


「陣ちゃん」と肌瑪兎がわき腹を小突く。

「ストレス感じてるね。みんな」

「そうかい」

「陣ちゃん」

「なんだい?」

「たぶん私、これ見たことある」

「いつ、どこで見たのかな?」

「さっき、営業二課で、叫んだ人の心の中で……」

「そうか。じゃ、見終わったあとでどこか違うところがあったら教えておくれ」

「ラジャー!」

 という会話は、無論音声を介さず行われた。


 室田の感じている緊迫感は、「アンゲルミュ」の名前を聞いて一段と跳ね上がった。野心を隠さずに社の派閥抗争を渡り歩いてきた室田にとって広報部は鬼門であった。だから動画の中の姿のない語り部の感想は、まさに室田自身の思いに一致していたのではあったが。それにしても、場違いだと思った。先ほどの動画は、釜名見煙のコロニー絡みのものと推察できた。だが、第二部はあきらかにタイラカナル商事の内情に関するものだ。おおかた広報部が何かの悪ふざけでこしらえた動画なのだろうが、社史編纂室という古層を穿り返そうという魂胆が気に入らなかった。人材の墓場とされるこの社の社史編纂室のことなど、広報部以上にかかわる必要のない部署であったし、これまでもそんな部署について考えたこともなかった室田だったが、デジタル化されていないデータの中に、自分の入社時の経緯などが記録されており、この勤怠管理部で読み上げられるなどという事態になるかもしれないと思うと、今すぐにでも地媚(型端末)を破壊してしまいたいくらいだった。


 隊毛にとってこの動画は、先ほどの砂漠の動画ほどのインパクトは持たなかった。だが、血が一滴もこぼれていない遺体の話が、引っかかっていた。隊毛は、この部屋でのことは「幕間劇」だと考えていた。どう考えてもここに本線はなかった。だが、本線に持っていくだけのヒントを得るために、ぜひ立ち寄るべき場所だと思っていた。案の定、奇妙な動画が始まった。最初は自分たちのルーツであるコロニーに関係しそうな砂漠の話。そして次が、騒動の中心となっている会社の話……

 両者が密接に結びついているらしいことは、明らかだった。それは、釜名見がこの会社に接触したためであり、その接触に土師と工辞基が絡んだためであった。となれば、この次にはンリドルホスピタルが取り上げられのであろうと、隊毛は踏んでいた。この動画がどの程度のバイアスをもって作成されたものかを適正に判断することが、自分にできるだろうか? と隊毛は考えていた。ここに、平喇香鳴がいればもう少し事態を整理できたであろうに、と隊毛は考えていた。


×××


 今日も、前任者の手書き文字を、筆跡鑑定ソフトと翻訳ソフトと、広報部がまとめている『社内スクープ5万!』DBとにつき合わせて、解読に励んでいる…… のは専ら社内LANにつながった端末で、僕は書類の束を一枚一枚、カメラの下にセットして、読み取り完了のあと、書類を戻して、という単純作業を、うつらうつらしながら繰り返しているだけだ。


 眠りの終わりは目覚めの始まりだ。けどそれは、眠りの始まりでもあるんじゃないか。砂漠に水を撒くようなイメージが消えない頭で、目の前の書類の、わけの分からない記号の羅列は、ほとんど放送終了後の砂嵐のようだ。

 なぜ、自分はここの飛ばされたのだろう。なぜ、ここには上司がいないんだろう。なぜ、それなのに僕は自分のすべき仕事をしていると信じているのだろう。

 パチーン!

 甲高い音で眼が覚めた。この部屋で時折おこる異音の一つだ。室内から室外にむけて何かが破裂した痕跡をとどめているように見える社史編纂室界隈は、どう考えても、構造上の不安を抱えているに違いない。床だって、凸凹だし。ぎっしりと並んだ棚だって、微妙にかしいでいるから、迷路のように入り組んでいるし。

 僕もまた、なだれる書類の下敷きになって、凍るか焦げるかするんだろうか…… そんなことを考えていると、鳩が鳴いた。15時のチャイムだ。僕は、憩いのスペース「喫茶 凪」へ向かう。

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