第80話 社史編纂室

 社史編纂室の扉の向こうから声が聞こえた。

 「鍵は開いているがノックをするのが礼儀というものじゃないかね」

 揣摩は思わず身構え、左肩で扉を押し開けた。室内は薄暗く、スチール棚が所狭しと並んでいた。棚にはぎっしりとファイルが詰まっており、崩れ落ちたらしいファイルが床に積み重なっている。揣摩は、ファイルの沙漠のような景色の向こうに、一人の男が立っているのを見た。

 「誰だ、君は」

 「まず君から名乗るのが筋というものではないのかね? もっとも今はそんな昔風の挨拶を求めるほうがおかしいのかもしれないが」

 揣摩は周囲に目を配りながら、ゆっくりと男に歩を進めた。踏み出す足が膝までファイルに沈んで、倒れそうになりながらも、顔だけは平成を装っていた。

 「俺はタイラカナル商事広報部所属の揣摩摂愈だ。君は誰だ」

 広報部、と聞いて、男はニヤリと笑った。

「広報部といえば兄弟みたいなものじゃあないか。俺は社史編纂室校正担当主任、庫裏唐孤塁だ。噂は聞こえているよ。君の活躍も、うちの文庫には数多く収録してある」

 「すまないが、こっちはそちらの噂はほとんど聞かない。聞いたものも、あまり耳に入れたいようなものではなくてね」

 揣摩の皮肉に、庫裏唐はニコニコした。

 「そうだろね。肩叩き後リストラ前の緩衝室。というのが社史編纂室の存在意義だからね。で、君はこんな社員の墓場に何を覗きにきたのかい? まず、そこから聞かせてもらいたい」

 揣摩は、相手の落ち着いた応対の背後に何があるのかを探ろうとしていた。もともとは紺色だったかもしれないグレイのくたびれた背広、銀縁の眼鏡にインクで汚れたワイシャツの袖。三ヶ月前に床屋へ行くべきだった髪。中肉中背で、これといった特徴の無い顔をした男には、薄っぺらにしか見えない。

 広報部に籍をおくものとして、社内の「分からないもの」ほど、腹立たしいものは無かった。揣摩はいまさらながら、社史編纂室に専属の社員がいるという、考えて見れた当然のことすら、考えたこともなかったことに気づいた。転属させられた社員が、ここの退屈なルーティンで生ける屍へと作りかえられているという噂は、あくまでも噂の域を出ていなかったし、広報部としても、そのような特殊なプロトコルがあるという証拠はひとかけらも掴んでいなかった。先ほどの揣摩の皮肉は、「いうことを聞かないとお化けが出るよ」という根源的かつ原始的な支配体系のブラックボックスとしての社史編纂室の噂、という掴みどころの無さに起因している。

 とにかく、よく分からないのである。おそらく、実際の活動内容は絵に描いたような閑職に過ぎないのだろう。その人材の墓場の主として、どのくらい君臨しているのかも知れないよく分からない男に、手の内をすべて晒すというのは、留保しておきたかった。だが、行きがかり上、「興味本位の散歩の途中」などといった説明が受け入れられるはずもない。

 「君は、外の様子を知っているのか?」

 揣摩はとりあえずそう問いかけてみた。もし知らないのであれば、非常事態を宣言して一気に押し切れるかもしれないからだ。だが、庫裏唐は

 「知らないはずが無い。私は一昨日からこの状況にかかりきりなんだ」

 と即答した。

 揣摩は、この異常な状況を広報部として取材中なのだ、という無難な線で進もうと決めた。

 「今この会社が陥っている異常な事態を取材し、可能ならば原因を突き止め対策を講じたいと考え、社内を巡回しているところでね、ここにきたのもそういう理由なんだが、こちらでは何か今回の事態について掴んでいることはあるだろうか?」

 庫裏唐はフンフンと頷いて、自分の右手の袖を見た。そして「あーあ」と声を上げ、揣摩に向かって突き出した。とっさに揣摩は身構えたが、すぐに袖についたインクを見せただけだと分かって少々腹を立てた。

 「何か考えがあるか、と聞いたんだが特に何もないようならば失礼するよ」

 「え? あ、意見だったね。君のほうにはなにやら考えがありそうだね。思うにこれは異常な事態だよ。だいたい、こんな状況をどうやって社史に載せればいいっていうんだろう。新任の筆記担当はたいへん困惑していたけど、社史というのはある程度評価が固まった後で纏めれば間に合うというところがあるので、君のトコで頑張って調査してくれればこちらの手間が省けて大助かりさ。もっとも僕は校正担当だからある程度現場の状況を把握した上でないと朱入れができないってこともあって、これでもいろいろ調べていたんだよ」

 揣摩は辺りをざっと見回した。だが、情報収集の役に立ちそうな端末はどこにも見当たらない。庫裏唐のもったいぶった態度も、社内の墓守として小さくまとまってしまったためなのだろう。揣摩はここで、ようやく精神的優位を確信した。

 「社史というものを俺は今まであまり見たことはないが、今回の騒動がおさまったら、熟読してみるよ。君の努力を思いながらね」

 庫裏唐は難しい顔で腕を組んだ。嫌味を嫌味と受け取るだけのプライドは持っているのだなと揣摩は思った。だが、庫裏唐は別のことを気に病んでいたのだった。

 「この騒動おさまるのかな? 僕はね、揣摩さんとやら。ほかの連中とは違って、入社時の希望が叶ってここに配属された。ここはひどい状態だったんだ。社史といっても、君のとこの広報誌やらいろんな会議の議事録やらが束ねてあるだけで、誉められるところといったら、未整理であるが故の客観性のみ、といた有様だった。僕は歴史が好きでね。ジャンルを問わず、いろいろな出来事を時系列で並べていって、物事の誕生から進展、そして滅亡を一覧するのがたまらなく楽しいんだ。タイラカナル商事って会社の成り立ちについて、君らはあまり情報を開示してくれていないようだが、僕もその辺りのことは随分と調べたんだよ。大きなプロジェクトはもちろん、社史と呼ぶには些細な個人の職歴とかね、そういった部分も含めて、網羅した社史を編纂しインデックスを完備することが僕の目的だった」

 揣摩はこの男を過小評価していたかもしれないと思い直した。社史編纂室がこの男のいうように機能していたのだとしたら、MOMUS導入に至る顛末なども新たな発見がなされるかもしれない。だが、そんなものがあるとして、広報部や内外のハッカーから、それを完璧に隠蔽しえたのはなぜなのか、揣摩には不思議だった。

 「君の努力は分かる。だが、その成果が社に十分に還元されているとはいえないんじゃないかな。君の言う社史を検索できればわれわれも大いに助かったと思うのだが、そういうデータベースが登録されているという事実は存在しない」

 庫裏唐は揣摩の言葉に対して、あからさまに顔をしかめて見せた。

 「歴史の保存形態として最も相応しい媒体は紙ですよ。僕は記録保存の形態として磁器や電気を信じません。それらは容易に改ざんされるものです。一時は、社史の電子化が検討されたことがありましたが、簡便に閲覧できる形式が普及した場合、原本にあたろうという気がなくなり、結果改ざんに気づかないまま、誤った歴史が流布し回復不能になる。僕はそれが許せない。だからここのファイルの電子化を、私は阻止し続けてきたんだけどね……」

 とここまで威勢良くまくし立てていた庫裏唐だったが、ここで語尾が不明瞭になった。

 「どうした。君の意見は、時代にそぐわないとはいえ、一つの賢察であることは認める。君の許可があればちょっと調べてみたいこともある。閲覧させてもらうわけにはいかないだろか?」

 庫裏唐はうなだれたまま頷いた。その様子があまりに気の毒に見えたため、揣摩は歩み寄って、肩に手を置いた。

「何か不都合でもあるのか?」

 肩が小刻みに震えていた。呼吸する音がヒューヒューと響いた。大きな感情の波をやり過ごしたのか、それから庫裏唐は顔を上げた。驚いたことにそこには涙の軌跡があった。

 「どうしたっていうんだ。君の努力は無駄にはならない。こういう時こそ、過去の事例というのは重要な意味を」

 「駄目なんですよ」

 庫裏唐は意を決したように手を挙げて揣摩の言葉を遮った。

 「駄目、とはどういうことだ?」

 庫裏唐は黙って、近くにあったファイルを揣摩に渡した。揣摩はパラパラとめくってみた。そこには見たことも無い記号が並んでいるだけだった。

 「なんだ、これは……」

 揣摩は驚いて、手当たりしだいにファイルを引き抜きめくってみた。その全ては、見たことも無い記号で埋め尽くされていたのだ。

 「一体どういうことか、説明できるのか?」

 この部屋一杯のファイルのすべてが見たことの無い記号で埋め尽くされている。それは得体の知れない恐怖心を引き起こした。

 「説明は、できる。ただ、受け入れることが、できないだけだ」

 庫裏唐はそう言って、手元にあったメモを手渡した。

 「君がここに来る直前まで僕が書いていた落書きさ」

 揣摩はカミソリでも受け取るかのような慎重さでメモを手に取った。そのメモの上三分の二ほどはファイルと同じく、読めない記号であり、その下三分の一は、通常の言葉

「といっても、こればかりはどうしようもない。侵略は言葉狩りだとはいうけれども、こんなに」と書いてある。

 「前の方は全然読めない。君が書いたんだろう? どこの言葉なんだ、これは」

 「この国の言葉ですよ。前半も後半も。僕が書いたんだ。僕がついさっき書き始めて君が来て中断したメモに間違いが無いんだ。なのに、前の方は僕には読めない。何を書いたのか覚えてもいない。これがどういうことが分かるかい?」

 「そんな馬鹿なことがあるはずがない。といいたいところだが、君を疑う理由は無い。ところできみか、君の親戚、子供のころの友達とかがこういう言葉を使う国の出身者だったことは無いのか?」

 「そうだったらどんなによかったかと思うよ。前半も後半もこの国の言葉なんだ。君も読めたはずの言語なんだ。例えば君が、あと二十分早く来ていたら、この前半の文字は読めたはずなんだ。言葉というものは文化のなかで結構根強く残るものなんで、それは世界史を学べば分かる。言葉というものは文化の最後の砦みたいなもので、言葉が変わるということは、思想も変わるということだ。

 僕の説明は、こうだ。

 この二十分くらいの間に、我々の文化ががらりと変質した。数千年単位でしか起こらない筈の変化が、突然に起こった。文字が変わったんじゃない。我々が変わったんだ」

「そんな馬鹿な……」

 揣摩は絶句した。

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