第79話 ウィルスのジレンマ

 ウィルスのジレンマは、宿主を殺せば自分も死ぬ、という点にある。あらゆる点からみて、完璧に作成されたプラナリアワームが、そんな原理的な誤りを克服していないなどというはずはない。プラナリアワームは、宿主をのっとったことを宿主に知られることなく存続できるものだったはずだ。宿主の耐久性を量り違えるようなまねを、製作者が犯すだろうか? 今なお未解明のコンピュータの遺伝子を解析しえた製作者が。今、MOMUSは壊滅的状況にある。もはや、これまでの時空軸を維持することすらできないでいることがその証拠だ。

 タイラカナル商事の勤怠管理グリッドは、絶対的に不可侵でなければならない。それは、凪グリッドも同様だった。この二つが機能してさえいれば、タイラカナル商事は異常を全く検知することなく業務を遂行し続けていられたはずだ。

 何かが、どちらかを変質させたのだ。何が? そして、どちらを…

 いや、この際、どちらを? という問いは無効だ。もはや、MOMUSはプラナリアワームと不可分だからだ。

 仮に、MOMUSがある種の自浄作用を持っており、その過激な反応が現状を引き起こしているのだとすれば、あるいは。

 いや、コンピュータシステムにおける免疫とは、ウイルスの分離とファイルの修復以外にはありえない。プラナリアワームは、性質上、異物として認識されることは無いはずだ…

 確かに、我々はまだMOMUSの全貌を解析してはいない。プラナリアワームの理論的検証によれば、このシステムの自滅はMOMUS自体の暴走だ。だが、その裏づけとなるデータは無い。では、MOMUSがデータ部とシステム部とを明確に区分しており、システム部にはいかなるファイルの追加変更削除を認めないという仕様だったとしたら、いかにプラナリアワームといえども、異物であることを隠蔽しきれないのではないか、ということは考えられる。

 データ改ざんによるシステムの変革を試みたプラナリアワームを、MOMUSが、あり得ないデータ、不穏なデータを作成しようとした怪しいプログラムとして排除しようとしているのかもしれない。この場合、MOMUSは未だ、正常な運用を行っているのだということとなるのだが、しかし、設計理念として、自システムを守るために、業務の阻害と、数千の社員の生命とを脅かすことを許可するようなシステムを設計が認められただろうか?

 認めるだろうか? だと? 当然だ。設計者にとってMOMUSは、単に一広告代理店に納入された汎用機というのとは意味合いが違う世界一ユニークなシステムなのであり、タイラカナル商事での運用それ自体が、MOMUSのテストに他ならなかったのだとしたら。コンピュータを一足飛びに、二世代、三世代も進化させることができるかもしれないのだとしたら、こんな企業の犠牲など、数億桁に及ぶプログラムの中の些細なバグに等しい。技術とはそういうものであり、技術者とはそう考えるものだ。

 日々の勤怠管理、凪におけるレクリエーション、イルカちゃんによるリラクゼーション。社員はその全てをMOMUSの管理下で行ってきた。そのシステムがシステムを守るために暴走する。当然、社員は木っ端微塵になる。ダメージは肉体的なものにはとどまらないだろう。MOMUSにおいて、社員は単なるクライアント端末に過ぎない。端末の全機能はサーバに依存し、逆は無い。サーバーの一部が落ちれば、端末は要をなさなくなる。サーバーによって得られていたあらゆる情報が切断されるということは、つまり、現実世界との交渉が成立しなくなるということなのである。

 プラナリアワームの製作者は、殺人を望んだのだろうか? 否。それを暗に望んでいたのは、ほかならぬ、MOMUSの製作者だったのである。


 揣摩の目の前に社史編纂室の扉が現れた。周りには壁も床も天井も、何だか分からない粉末状のものとなって漂っているだけだったが、それでも揣摩は、ノブに手をかけた。

 その時、ボスのヘッドセットに送られていた揣摩のパケットが途絶えた。ボスは足を止め悲しげに頭を振った。

 しかしすぐに、ヘッドホンからの微かな声に気づいた。ボスはその場にうずくまりヘッドホンに全神経を集中した。雑音にまじり、確かに声が聞こえてきた。


「鍵は開いているが、ノックするのが礼儀と…」

「誰だ? 君は?」

「まず、君から名乗るのが… もっとも今はそん…もしれない…」

「俺は…の揣摩…は…(途絶)」


 ボスは勢いよく立ち上がった。パケットは途絶えている。そして音声も途絶えた。 だが、例の波形の後に生存が確認できた唯一の事例として、ボスは大いに力を得た気がした。少なくとも揣摩摂愈は、まだこの世界に存在しているらしい。今はそれで十分だった。

 ボスは先ほどまでとは違う足取りで、新たな一歩を踏み出した。しかし、二歩目は続かなかった。ボスは顔をあげ、それからゆっくりと後ろを振り向いた。背後には、前方と同じくらいの数の常夜灯の列が浮かんでいた。

 ボスは、自分が一体いつから、どのくらいの距離を歩いてきたのか分からなかった。通路の左右には真っ白に塗られた扉が等間隔に沈黙していた。全ての扉の向こうに、病んだ精神が一つずつ詰め込まれているはずだった。いくべきか、戻るべきか、ボスは選択しなければならなかった。

 実際の決断に要した時間は、数秒に満たなかった。ボスは二歩目をではなく、新たな一歩を踏み出した。後戻りではなく、前方に向かって。

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