第78話 思い出すことが脳を破壊する

 ボスは常夜灯の列の浮かぶ精神病棟の通路をあてどなく歩いていた。両側に並ぶ真っ白に塗られた扉の一つ一つは冷たく押し黙っていた。この扉の向こう側の、四畳半程度の均質な空間には、狂った精神がひとつずつ閉じ込められているはずだった。

 精神病患者を取り巻く環境はこの百年で大幅に改善されたといわれているが、もともと地獄の底からの改善だったのだから、大幅にとはいっても、通常とされている人間界までには、まだまだ隔たりが大きい。それに、はたしてここの住人達が、自らの肉体の置かれている環境の変化を喜ぶことなどあるだろうか、とも思われる。

 このンリドルホスピタルの精神科には、珍しい症例を持つ患者が多い。ここに収容されたら、おそらく退院することはかなわないであろうといわれている。釡名見煙もまた、この一室に収容されるはずの患者候補だったのである。


  揣摩摂愈から送信されるパケットが激しく乱れ始めたのは、平喇香鳴との実りない接見の直後からだった。この変化は、営業二課での騒動の前から時折見られた変化と似ていた。揣摩もこの変化とその帰結については理解していた。だが、現在、揣摩自身がその立場に置かれているのだという事を知る手立ては無かった。ボスからの通信はことごとく破棄されてしまうし、おそらくフィードバック回路も塞がってしまっているに違いない。揣摩はこれまでの先例と同様に、この世界から弾き出されることとなるのだろう。ボスは自分の無力さを哂うしかなかった。いつ、誰が、どのような状態に置かれると消滅するのか? そこにはいかなる類型も見られない。消滅直前の脳波は激しく乱れてはいるが、海馬から大脳辺縁系へ向かう、いわば「想起」のパターンに分類できる。それは「思い出に浸る」という安穏とした状態とは違う。思い出すことに必死になり、些細な欠落に対して強迫観念めいた執拗さで脳の隅々を探索し続け、ニューロン束は次々と連鎖的に発火しはじめ、脳全体に電流が流れる。受容器の限界を超えて放出される稲妻は、脳のあちこちを焼き尽くし、とうとう限界値を超える。シナプスの暴走。その時、人は何を想起し、何を見、無いを聞いていたのか。

 思い出すことが脳を破壊する、というおおよそ信じがたい事態が発生し、さらに物質としての肉体をも消滅するなどという荒唐無稽な事実。おそらく、揣摩はその後に来るものを知見することになるのだろう。

 ボスは帽子に手をかけて、ヘッドセットの位置を慎重に調整した。果たしてどこまでモニターできるものなのだろうか? 許容限界を超えた脳の活動をモニターすることなど、果たして可能なのだろうか? そして、モニターする自分への影響は?

 ボスは足元のおぞけるような感覚を振り払うことができなかった。踏み出す一歩一歩に「転落」の恐怖が付きまとっていた。しかし、立ち止まることは出来なかった。というより、立ち止まるという事を思いつかないのだった。

 ボスは揣摩の最期を見届けるべく、精神病棟の通路をどこまでも歩き続けていた。通路には常夜灯がほの暗く浮かんでいる。真っ直ぐ、一直線に、どこまでも。


 プラナリアワームの特徴は自己再生機能にあると言われているが、これは実は本末転倒な判断だ。プラナリアワームの分離を試みた研究者は、ある事実を黙殺している。プラナリアワーム最大の特徴は「欠落」という事に尽きる。あらゆる点で、このワームは不具なのだ。中途で投げ出された関数の寄せ集めと呼べなくもないが…… という程度のものしか分離することはできず、完成型としてのプラナリアワームを見たものは誰もいないのだ。

 仮に完成型などというものがそもそも存在せず、プログラムとも呼べないソースコードそのものがプラナリアワームなのだとしたら、一体、どんなコンパイラがコンパイルできるというのか?

 いや、不完全だというわれわれの常識が間違っているのかもしれない。あらゆるプログラムと結合し、外部関数としてつじつまを合わせ、かつワーム本来の活動をするのに必要な変数を返すことの出来るプログラムの種子。それ単体では何も意味しないが、ある種のシステムに着床したら、そのシステムそのものを乗っ取り、本来の活動を始めることの出来る、遺伝子に似たプログラム。

 しかし…… と揣摩の思考は回転を増していく。

 プログラムの遺伝子とはすなわち統一意思の存在を規定することとなる。遺伝子のデザインは現在も神の摂理としか説明が付かないものなのだ。もちろん、ダーウィンの自然淘汰説は根強く残ってはいるし、広大無辺な電子世界を構築しうる現代のインターネットシステムにおいて、自然淘汰の可能性は否定できず、生命体の自然発生は、生命体もまた物質の化学反応によるものであろうとの観点から否定しえないことは忘れるべきではないにしてもだ。プログラマーなる人種は間違いなく存在しているのだから、プラナリアワームのデザインもやはりプログラマーの存在を措定するほうが、自然発生説よりも蓋然性は高いという観点から、「神の摂理」を比喩的に導入した上で暫近するとしてだ。コンピュータウイルスがまさにウイルスと呼ばれるにふさわしい形態、それがプラナリアワームであり、本来のウイルスの活動目的となる、種の存続がそのまま適用されているのだとしたら、全てのコンピュターに感染し、全てをプラナリアワーム汚染コンピュータとすることが、このワームの目的であるといえる。現在、プラナリアワームの挙動は不確実で、感染力も非常に弱い。セキュリティーベンダーが規定するプラナリアワームの亜種は、それでも50を超えており、その全てをプラナリアワームだと規定できるのかどうかも実は曖昧である。

 本来のウイルスは、宿主のRNAを逆転写することで、自らを転写する。つまりそれは、宿主の形態に自らを合わせなければならないという事である。現在のプラナリアワームは、現在のシステムの大半にそぐわないRNAを持っていると思われる。では、過去のシステムにおいて、現在のプラナリアワームが十全に活動できるものがあったかといえば、皆無である。

 すると、現在のプラナリアワームのデザインが間違っているのだという意見の他に、もう一つ、これからのシステムに対するデザインがなされているのだという意見も捨て去ることは出来ない。現に、現在最も新しいとされているタイラカナル商事のMOMUSでは、プラナリアワームは活発な活動を繰り広げており、現在もなお、進行中なのだから。

 十全ではないかもしれないが、プラナリアワームがこれまでに報告の無い活動をしているという点で、MOMUSのユニークさが証明されているともいえる。

 さて、問題はこのワームがいつから、MOMUS内で活動を開始したのかという点だ。

 俺が多比地を追い込んだ時、確かにあの時、あいつはワームを仕込んでいき、活動はその直後から確認できたのだが、それは感染を確認したからこそ追跡可能だったのであり、それ以前から感染していた可能性も否めない。MOMUSがプラナリアワームの寄生主として相応しかったのだとしたら、その活動を監視することなど不可能なはずだ。我々が社内に不当な動きを検知した10日程前、おそらくそのあたりで一次感染が進行し始めていたのではないか。位相マトリクスの狂いも、そのためだったのではないか。

 社史編纂室と営繕準備室とは同一座標にあるはずだった。査定に使ったシステムが、そもそも汚染後のものでないと言い切ることは出来ないが、一次感染は、ほぼ完璧に社内を蝕んでいたと思われる、とするならば……


 揣摩は勤怠管理室へ向かっていた足を止め、方向転換すると、外側からねじ切られそうな状態にまで変貌した通路を曲がった。


 一次感染の状態こそが、プラナリアワーム本来の活動だったと考えれば、我々が持っていた全てのデータは既に汚染されていたと考えるべきであり、かつMOMUSに直接的であれ間接的であれ、接触した全てのコンピュータはプラナリアワームに感染したと考えるべきである。しかも、本来の活動が可能となった後には、現在MOMUSに接続可能な全てのシステムに対応する型の亜種が生成されていると想定するべきである。プラナリアワームに必要だったものが、タイラカナル商事に導入されたMOMUSそのものであり、ここに感染することでプラナリアワームは完全な形態を獲得したのだ。それはつまりMOMUSそのもののことである。

 現在、難攻不落と言われていたMOMUSの門は開かれている。全世界のハッカー、クラッカーたちが、このシステムの攻略を目指して攻撃中だ。世界一ユニークなMOMUSの制覇。これは、完成プラナリアワームの蔓延を意味する。いや、ハッキングにとどまらない。ポートの全ては、プラナリアワームの放出孔だ。無線による空気感染は、特に被害を広げるだろう。全てはプラナリアワームに託された意思のままだった。なのに、なぜ、昨日になってワームは暴走を始めたのだ?


 ボスは揣摩の想念をイヤホンから声として聞き取っていた。その熱を帯びた言葉に、耳たぶが焼け爛れそうな気がした。ヘッドセットに届くパケットを音声化する機能は働いてはいない。ごく原始的な電波受信装置、つまり、広報部全員が身に着けている隠しマイクからの音声が揣摩の声を送っているのだ。つまり、揣摩は自らの考えの全てを声に出して言っているのである。

 揣摩は、社史編纂室に進路を取り、瓦礫の山を越えながら、ほとんど叫び声に近い声量で、しゃべり続けているのだ。

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