第68話 老医師

 老医師は死体を寝かせた解剖台の真ん中に立ち、両手に持ったメスで二つの死体の胸から下腹部にかけて一気に切り下げた。ほとんど脂肪の無い薄い皮膚と、さほどたくましくもない腹筋とが、ジッパーを下げたかのように、左右に開いた。ボスはコーヒーカップを持ったまま、その手際を見つめている。

「人の身体こそ、ミステリーそのものだ。誰もが持つ、ごく身近なものでありながら、自分の身体の中身を熟知している者はほとんどいない」

 老医師はパイプレンチのような器具で肋骨をバキバキと折り、カブトガニそっくりな開胸器をセットするとハンドルをグルグルと回した。胸部がメキメキと音を立てて広がっていき、肺や心臓が露わになる。老医師は、身体の一部始終をマイクロテープレコーダーに録音していく。臓器や骨の色、状態、疾患痕の有無などだ。ボスは、数時間前まで人間だったものが、解体されデータになっていく過程に立ち会いながら、黙考している。ワゴンの上のコーヒーは冷めていく。

 頭の先から爪先まで、いやその中身も含めた全てが、テープに録音されていく。食生活、性生活、慣習、癖、死体になるまでのあらゆる事実が、冷静に記録されていく。

「死体は嘘をつけん。全てが皮にくるまれ大切に保存されておる。我々はただそれを見ればよい。生きていた時間の全ては五臓六腑に痕跡を留めておる。死体はな、生きている者の住む世界が、こしらえるもんだ。死体が持つ情報とは、生きている世界の情報だけさ。何もおそろしいことはない。だが、人々は死体を忌む。遠ざけようとする。愚かな事だ。そして、無駄なことだ。死体は常に我々と共に或る。分かつことなど出来ないものだ。死体を見るとき、人は生命の無常を感じる。生きている時間が永遠には続かないという現実を目の当たりにするからだ。人は生きている時間を永遠のものと思いたいものだ。だが、こんな炭素系の物質なぞ100年も持てば大健闘といった脆弱なものにすぎない。死を永遠の別れだという馬鹿がおる。わしに言わせればぜんぜん逆の意味だ。人間は永遠に生きることなど出来ないし、永遠に死ぬことも出来ない。ただ、永遠を希望しているだけの存在にすぎん。死体は永遠という荒唐無稽の欲望から解き放たれて、物質としての存在をまっとうする。生命? 知能? はっ! わしにいわせればそんなもんは些細な事にすぎない。人間なぞ死体と同じだ」

 老医師は記録ととる合間にこんな話をした。解剖台の上には全てをさらけ出した死体が二つならんでいた。ボスにはどちらがどちらだったのかもう区別がつかなくなっていた。だが、口笛を吹きながら各種臓器の重さを測っている医師にとっては、これでようやく二人を理解できたということになるのだろう。

 老医師は続いて、これまでに取り出した物を身体の中に放り込み始めた。その作業は惰性で行われていて、ろくに遺体を見ようともしない。片方に心臓が二つ入ろうが、眼球が腹部にまぎれこもうがお構いなしだ。そして、中身の多い少ないは、手近にあった手袋や、スポーツ新聞、ガーゼなど、ほとんどごみ箱と同じような扱いで、嵩上げし、太いハリでザクザクと縫い合わせてしまった。

「身体の中のことなんて、誰も気にしない…か」

 ボスはそうつぶやいた。そして冷めたコーヒーを一息に飲み干すと、老医師に向かって微笑みかけた。

「先生。その二つの死体から、死因はどのように読み取りましたか?」

 医師は解剖台を隣の部屋へ運んでいき、戻ってきてから安楽椅子に深深と身体を沈めたところだった。

「君はこの年寄りを寝かせてやろうとは、思わんのかね」

「さしあたり、死体とは違う時間を生きている連中の都合を、私は優先させる主義なので」

「ふん。まぁ、探偵趣味というやつだ。やれやれ」

 老医師は大儀そうに安楽椅子から立ち上がると、二杯目のコーヒーを注ぎ、ボスにも勧めた。

「それで、あの飾りつきの死体一組だが、死因について付け加えることは何も無い。タイミングも現場で話した通りだ。びっくりさせられるやいなや、首をあんな風に挟まれたのだ。頚椎や顎の骨折も、自重によるもんで、無理やりねじ込まれた痕跡は無い。すっぽりとはまっちまったんだ。さぞ驚いたろうな。それで心臓発作が起きたのかも知らん。だがあくまでの死因は心臓発作だ。窒息ではない。ではどういう状況なら、あんな芸当が出来るのかだが、それは君の領分だ。死体は正直だが饒舌ではないんだ」

 ボスは目を閉じていた。医師の話が終わってからもしばらくそのままだった。手にしたカップが傾き、コーヒーがボタボタとこぼれることにも気づかない。老医師は注意しようと腰を浮かせかけたが、解剖台の周辺の血溜りもそのままだったので、後から助手に洗わせれば済むことだと、思い直した。ボスは何かを思いついたのだ。こんなときは何を言って無駄なのである。

 「先生」

 ボスはカップを持った手がヌルヌルすることを気にしながらやっと口を開いた。

「なんだね」

 老医師はいつのまにかパイプを銜えていた。私も失礼してタバコをつけてもいいか、とボスが聞いて、医師はかまわんと言った。先ほどまでの彫像のような表情とはうってかわり、ボスは微笑を浮かべていた。だが顔色は悪かった。

「ここ二週間のあいだ、この病院で何か騒ぎはありませんでしたか?」

「さてな。わしは生きている人間どものすることに興味は無いのでね」

「新しい機材が入ったとか、変わった死体の解剖を行ったとか、停電があったとか、何でもいんですが」

「停電は、あったなぁ。あれはいつだったか。君らが昼夜なく呼び出すもんだから日にちの観念が飛んでしまったんだ。調べさせよう。緊急発電装置があるなんぞと言って、大事なときには者の役にも立ちはせんのだから」

「それから、今日、ンリドルから死体が運び出されたという情報がありますが、先生は何かご存知ですか?」

 医師の顔色が変わった。

「聞いていない。そんな事実があったのか。第一、この町じゅうの変死体は必ずこの部屋を通過させることになっておる。そむいたものは死体遺棄罪を適用されるし、そもそも死体遺棄をせにゃならんということは、殺人の嫌疑がかかるということにもなる。しかし、こちらから町じゅうの死体や死体になりそうな人間を監視しているわけじゃないから、正規の手続きを踏まなければ、当然こちらには回ってこないということは起こり得る」

「しかし、この病院内で変死したものについては、もちろん」

「ああ。病院内の者ならば誰だってここに運びこまにゃならんことは知っておる。第一、埋葬許可も下りないのだから」

 ボスはうなずいた。だが老医師の興奮はまだ冷めない。

「一体、どんな死体だったんだ。君は分かっておるのかね」

「私が知る限りでは、この病院からは二つの死体が運び出されました。一つはフリーズドライ状態のものです。そしてもう一体は全く不明ですが、運んでいったのは、警官の変装をした一団だったようです」

「何の冗談だね。フリーズドライとは」

「分かりません。しかし今日という日は、ンリドルにとっても奇妙な日だったことに間違いは無いようです。院長が亡くなり、泌尿器課の能な医師が行方不明」

「そりゃ、千曲君のことかね」

 医師はぐったりと安楽椅子にもたれた。ボスはその様子をじっと見ている。

「千曲医師とはお知りあいでしたか?」

「ああ。古い友人だ。」

 老医師は力なく答え、パイプを持った手をだらりと下げた。

「先生。私は今回の事件の本筋がどこにあるのか、皆目見当がつかないのですよ。情報は刻々と集まっています。しかし、これらが全て同じ一つの事件として発生しているとは信じがたいほど、多用なのです。ですが同時に、これら全てを明らかに出来なければ、事件は終わったことにならないというのは間違いが無いところなのです」

「わしには興味の無いことだ。ただ千曲のような医師がくだらないことに巻き込まれ、才能を埋もれさせるのは胸が痛い」

「千曲医師がどこにいったのか。何に巻き込まれたのか、私はそれを突き止めたいんですよ。今回の事件には、とうてい本筋とは思えないところで、人が亡くなったり、失踪したりしているのです。先ほどの二つの死体も、もしかしたら、院長もそうかもしれない。何かの煽りを食らって吹き飛ばされたというような感じがするのです。そして、本筋を追っていてはこれらの解明は出来ないでしょう。だから、私はまずこっちへ着たんです。ンリドルホスピタルで何が起きたのか」

 老医師は両手で顔を覆っていた。ボスは安楽椅子へ歩み寄りそっと医師の肩に手を置いた。

「生きている人間の話を、わしはそうたくさんは知らない。だが、千曲の話なら多少は出来る。あいつは、医師としての表と裏をよくも悪くも真っ直ぐに進んだ医師だった」

 ボスはパイプイスを引きずってきて、老医師の前に座った。隣の部屋から解剖台が運び出される音が聞こえた。

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