第69話 老医師追憶

「わしと千曲とは同期だったが、医学に対して期待するものは全く異なっておった。そこがおもしろく、学生の頃はメチルを酌み交しながら議論したものだった。今にしておもえば、千曲の性向からして、どうもわしに気があったのかもしらん。まぁ、笑うな。そのころわしらはまだ若く、青春を体現しておったのだから。まあ当時から医学界における裏の噂にはことかかなんだ。わしらはそういった金とか名誉がらみの騒動とは無縁だと思っておったし、そんなことに時間を費やす暇があるなら、研究に没頭していたほうがましだと考えていた。そういった意味でも、当時の千曲はまっすぐな性質で、わしにその気がないのに、無理やり押し倒してでもといった傲慢さを持ってはおらなんだ。無論、当時、そんなそぶりを見せてもわしは冷たくあしらったことじゃろう。わしには男にたいしても女にたいしても、とにかく生きている人間にはなんの興味もなかったからな。あいつは、そういう点ではわしとは対極におったな。あいつの主要な興味は生殖そのものにあったのだから」

 老医師は目を閉じて、千曲との思い出を語り、ボスは入れなおしたコーヒーの湯気の湿り気を頬にじんわりと感じながら、黙って聞いていた。これは、死んだ千曲の通夜なのだ。そして、通夜で語られることに、嘘は無い。

「一途な性格だった。だから生殖に関係するあらゆる分野に千曲の研究は及んだ。生殖器そのものから、神経系、脳、精神医学にいたるあらゆる分野を網羅し、精子に関する詳細な解析、DNAの保持構造、受精の物理的な測定、包茎と割礼の差異、あらゆる生殖器の形態的分類とその特徴、さらに体型、鼻や親指のサイズとの比較といった一見、通説にすぎないものに関してまで精査し、レポートをまとめあげた」

「なぜ、そこまで生殖にこだわったのでしょうか?」

「なぜ? その質問に答えは無い。人はなにかにとらわれるものだ。そしてそれによって世界を理解したいと思うものではないのかね。わしにとっては死体であり、君にとっては事件、であるようにな。それを天啓と呼ぶ者もおり、使命と考える者もおる。確かなことは、手段、目的といった二元論は、この情熱には当てはまらないということだ。君だって、一つの事件を解決し、それによって地位や名声を求めたいとは思うまい。わしもそうだ。行為自体に熱狂する。それこそが目的なのだ。」

「しかし、現実的には、千曲医師は、そう… 趣味と実益が重なっていたのではないですか?」

 ボスの質問に老医師は、少し顔をしかめ、コーヒーに口をつけた。

「それが何だというのだ。手段と目的が同一であるとき、それを遂行するにあたって快感を得るのは当然のことだ。君は千曲の男色のことをいっておるのだろう。日々、好きな性器の写真を眺め、機能の測定と証して何万もの男性器に触れることに、研究を離れた意図があったのではないかと? 笑止千万だ。千曲自身の性行為はあくまでもプライベートな問題だった。研究を離れて行為に没頭することに文句をつけられる者はおらん。それに実際、千曲は泌尿器の分野では世界一の知識と技術を持っていた。やつの成果がやつの研究の質を保証している。興味をもつ理由が自身の男色にあったのは事実かもしらんが、それはきっかけにすぎない。君にも分かるはずだ」

「もちろんです。これは私が少しうがちすぎでした。謝罪して訂正します」

「何、かまわんさ。事実、この病院であいつが少々肩身の狭い思いをすることになったのは、その性癖のこらえ性がなくなってきたためだったからだ。老いるというのはつらいものだ」

 ボスは顔を上げた。老医師の顔には疲れが、深い皺となって刻み込まれていた。監察医の業務は過酷だ。しかもこの町でたった一人のマイスターとあっては、休む暇など片時もない。ボスは躊躇いを感じた。今日はここで切り上げ、また明日、千曲の話を聞くことにしたほうがいいのではないのかと。だが、タイラカナル商事で起きている事態に、そんな温情は通用しないこともまた明らかだった。こうしているあいだにも、いかなる新展開が用意されているかも分からないのだ。結局、今回の件で死んでいった者はみな、展開の速度と衝撃とについていけずに、巻き込まれたものばかりなのだ。誰一人として、殺される理由があって殺されたのではないのだ。ボスは先ほどまで考えていた推測に確信をもった。だから、ここでまた老医師が過労死することになったら、それは他の被害者と全く同様の死に様だということになり、その直接の原因を作ったのが、ここで無理して通夜を繰り広げている自分自身だということになりかねない。ボスはそこまで考えて、今日はこれで引き上げようと決めた。だが、そんなボスの気持ちを察したかのように、老医師が口を開いた。

「だが、老いたからこそ人は悔いを残したくないと考えるようになる。死人は生きていた時の情報をみんな持っているが、記憶だけは、取り出す方法がまだ見つかっておらん。昨今では、郵便切手程度のチップに100G以上の情報を記憶させることも出来るらしいが、わしはそんなものが実用化され人類の海馬あたりに埋め込まれる日のことを考えるよ。人は物忘れを恐れる。ボケを恐れる。判断力の低下を恐れる。つまり、老いだ。老いるということが最大の恐怖になっておる。健康に過ごしても老いから逃れることは出来ないと。文化は人の恐怖を食って肥っていく。そしてそれが一般化したときに文明として定着する。老いを恐れる文化は人そのものを変革させるだろう。老いていない者の手によって」

「これで切り上げましょうか。先生にも休息は必要だ」

 ボスはようやく、そう切り出した。だが、老医師はゆっくりと首を横に振った。

「わしは、もう眠るのすら惜しいほどだよ。君に比べてわしに残された時間はひじょうに少ない。だから、続けさせてもらおう。この老いぼれの頭のなかにある情報が、君の役に立つのなら、取り出せるうちに取り出しておくがいい。わしが死んだときの唯一の心残りは、自分の死体の剖検ができんということだけにしておきたいのでな」

 ボスは大きくうなずいた。それを見て老医師は見たことの無いほど柔和な顔で微笑んだ。

「さて、何の話だったか? 軌道修正してくれるかね」

「はい。私が知りたいのは、千曲医師がこの病院で肩身の狭い思いをすることになったいきさつです」

「ああ。その話だったな。君、コーヒーはもういいから、その棚からブランデーを出してくれないか。もう六時だ。ここからは趣味の時間だ」

 二人はブランデーグラスに丸い氷を浮かべて乾杯した。

「死んだ千曲に」

「先生の健康に」

 二人の足元では先ほど流れた血が固まりつつあった。部屋の外を医学生が幾度か往復した。病院の面会時間が終わり、夜間救急の準備が始められていた。だが、そんな世間の動きは、この二人には全く関係がなかった。結局、二人にとって、日常 などという世界は存在しないのである。

「わしがこの病院へ赴任したとき、千曲は泌尿器科で辣腕を振るっていた。当時からンリドルはEDの問題や、凍結精子を使った人工授精などで傑出した症例を世間にアピールしていた。やつは部長という肩書きをもってはいたがそれは手腕をかわれたからで、人事や経営に関する能力によるものではない。ただ、純粋に技術的な面でやつが適任だとされたに過ぎないし、それは誰が見ても妥当だったろう。それが24年前、あいつがここにやってきてからがらりと変わったのだ」

「院長ですね」

「やつはレジデンシーで脳外科を選考し、優秀な成績を修めた。当然、その道のエキスパートとなるだろうと周囲も期待していた。だがスタッフになってみると、あいつは泌尿器科を選択した」

「ンリドルの脳外科は当時それほど優秀ではなかった。それに引き換え泌尿器科は世界的権威だったから、という判断でしょうか?」

「うん。それもあっただろうな。やつは腕前はともかく権力欲が強かった。院長になりたがっていた。臓器提供を出来ない死体なぞ、使い捨ての手術着ほどの価値も見出さない。つまり、自身のプラスにならないものには何の価値も見出さない男だったということだ」

「千曲氏はどうだったんでしょうか?」

「ああ。院長になるには、有力者の公私にわたる協力が不可欠だ。抜け目のないあいつのことだ。千曲に取り入ったことは間違いが無い。その当時、わしと千曲とは疎遠になった。なれない人事上での働きかけに奔走しておったのだろう。気の毒なことだ」

「研究一筋の千曲氏がなぜ、院長をとりたてるようになっていったのか。ご存じでしたか?」

「ああ。知っておる。口にするのもけがらわしい話さ。無論、君は知っているのだろう。だったら、それをわしの口から聞かずともよかろう?」

 老医師は残っていたブランデーを一気にあおった。その拍子にまだ溶け残っていた丸い氷が前歯を打った。

「痛ッ。ああ。また前歯がかけてしまったよ。差し歯だからいくらでも変えはあるが」

 ボスはだまって、老医師のグラスにおかわりを注いだ。

「済まんね。まぁ、そのようなことがあって、やつはトントンと出世し、わずか8年で院長にまでのぼりつめた。そのあとは、それまでの恩を忘れて、千曲を一般医に降格させたのみならず、レジデンシーの当時からひそかに暖めていたパイプを使って、脳外科に患者として、送り込んだ。粗暴な振る舞い、組織からの逸脱、くわえて男色であることを公表し、脳梁の切除を行わせたのだ」

「ロボトミーですか?」

「今はもうその言葉は医学界にはない。その手術は千曲の全てを変貌させるほどの影響はなかった。だが、少しの閃き、少しの独創、少しの理性を葬り去った結果、やつはもうそれまでの千曲ではなくなっておった」

「それでも、病院を追われなかったわけですね」

「そこがあいつの天晴れなところだった。三つ子の魂百までというが、奴の生殖器にかける情熱は計り知れない。閃きと独創は、あいつを見ていると些細なことにすぎなかったのだと感心せざるをえん。それまでだって、奴がそんな不確かなもの、独善的な決定に従ってプロジェクトに取り組んだことなど無かったのだと分かった。綿密な資料集め、ゆるぎない基礎データ、そこから必然的に演繹される仮設。そう。閃きなど必要がなかった。そして人道的か否かという理性のくびきを逃れた千曲には、タブーもまた存在しなくなったのだ。研究者としては最適な男が完成したのだ。実績のあるものを放り出すことなどできん。それは経営上当然の結論だ。院長といえども、泌尿器科世界髄一の看板を取り下げることは出来ない。自身の傀儡として任命した新しい泌尿器科部長なんぞ、鼻にもひっかけず、千曲は研究に没頭した。わしもその研究の詳細は知らんが、なんでも、白いスキンの研究開発だったらしい」

「スキン? コンドームですか」

「そう。駅の裏の商店街の角に自動販売機があるだろう。あの、「今度生むから、コンドーム」というしゃれた文句のある自動販売機。あれだよ。生殖研究のいきつく果てが、コンドーム。なぜ、そういう帰結になったのか、今となっては分からんが、あいつのことだ、きっと世界をあっとおどろかせる研究だったはずだ」

 ボスはグラスを回し氷をカチカチと鳴らした。

「それで、先生は、院長を怨んでいますか?」

「わしか? わしは生きている人間には何の感情も抱かんよ。おまえさんは別だがね。さよう。院長のような種類の人間とは通ずるところが何も無い、というのが正確かもしらん。かかわらないまま暮らしていければそれでいい。おまえさんとは、さっき言ったな。目的と手段の融合、という点で分かる点がおおいし、姿勢も立派だ。協力できることは協力するさ」

「十分に助けていただいていますよ。いつも。いつも」

 ボスはそう言って頭を下げた。老医師はこそばゆそうに手を振った。

「それで、千曲の死体はどうなったんだね?」

 老医師は、おそらく最も気になっていた質問を、何気ない口調で言い放った。

「残念ながら、見つかっていません。フリーズドライされ、何者かに持ち出されたようですが、乱暴に扱えば粉塵に帰してしまう。おそらくもう、残っていないでしょう」

 ボスは残念そうに答えた。老医師は別段気落ちした様子も見せずに続けてたずねた。

「この事件はどうなのだね。君と君の部下をもってしても、難かしいのかね?」

「難物です」

  ボスはそう言って長い間座っていた椅子から立ち上がった。

「もう、いくのか。夜はまだ始まったばかりだぞ」

 老医師がそう言ってボトルに手をのばす。

「はい。事件はまだ終わっていませんから。お話参考になりました。先生。お体を大切に」

「このばかげた事件を早く終わらせてくれれば、約束してもいいが」

 老医師はそういって片目を閉じた。ボスは扉口で振り返って微笑んだ。

「努力します」

 部屋を出ると青白い光の中に、リノリウムの床が微妙にうねって伸びていた。

「さてと、次はあの女性のところに行ってみるか」

 ボスはそうつぶやきながら、妙なむかつきをおさえつつ歩き出した。

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