第65話 真名麻納央

 営業二課に地下駐車場の混乱が引っ越してきた。間断なくフラッシュがたかれ、指紋検出用の白粉が舞い上がり、大量の石膏を満たした容器を持って途方に暮れる男や、闇雲に段ボール箱を運搬してくる男などが、自分の作業のためだけにうろつきまわり、引っかき回し、怒鳴りちらしている。

 ついさっきまで室内を支配していた禍々しさは吹き飛んでいた。同じ部屋の連続した空間とは思えないほどの豹変だった。だが、ボスはそれが消え去ったわけでは無いということと、それはむしろ現実の裏側に隠れた時に進行してゆくものだということを心得ていた。現場で行われる警察の手順にボスはまったく興味を持っておらず、これまでの展開を頭の中で整理するのに集中していた。だが、今この部屋で、一人で思案にくれるなどという贅沢は許されるはずもなく、ボスは不意に肩を叩かれた。

「また君か。どうしてこう面倒な現場に限って君がいるのかね。犯人なのじゃないのかね」

 ボスは一瞬だけ眉をしかめたが、勢いよく振り向いた時、その眉は大きなへの字型に固定されていた。

「おやおや。殺人課のホープが御登場ですな。となると、やっぱり私が犯人なのかもしれませんよ」

 ボスはそう言って右手を差し出した。だが男はその手を無視し、ボスもその振る舞いに別段、腹を立てる風もなく自然に右手を引っ込めた。

 男は、殺人課の刑事で名を真名麻納央(まなみまなお)と言う。40絡みの胴長短足だが腹は出ておらず、猪首と潰れた耳とが、いかにもたたき上げという風情を醸している。しかし、最も特徴的なのは鼻の下に台形の形に蓄えられた髭である。チャーリーチャプリンの髭を多少間引いて、茶色を混ぜたような髭で、真名が話している様子は、まるで髭が話しているようであり、髭が笑っているようであり、髭が怒っているように見える。しだいに寂しくなりつつある後頭部に反比例するかのような髭は、真名の上唇を常に隠している。上記のやり取りからも分かる通り、この二人は通常ならざる面識がある。ボスは様々な事件の現場に顔を覗かせ、大抵は警察を出し抜いて真相をすっぱ抜いてしまうので、本職にとっては目の上のたんこぶなのだ。世間によくある警察との協力関係など現実には成立しない。時としてボスは事件の渦中に入り込みすぎ、指名手配を受ける事もあった。その実、真名刑事はこのボスの洞察によって誤認逮捕を免れるのみならず、捜査上の人員と経費と時間とを大いに節約できているのであったが、本人は全く自分の手柄と思い込んでしまう性質で、警察も当然、文屋崩れの助けを借りたなどと認めるはずもなく、現在最も腕の立つ殺人課の刑事として称賛を浴びているという訳だ。この辺りのみ、世間によくある探偵小説そのものなのである。

 真名刑事に向かって、様々な人々が報告を携えてやってきては、命令を持っていく。その間に、ボスへの諫言が挿入されるのであるが、ボスは黙ってポリポリと耳を掻いている。

「いいかね。そうやって落ちついていられるのも、今のうち… 違う。こっちで写真を撮ってから科検を入れるんだ。全く… 今のうちだぞ。お前さんがここにいる理由ってやつを… こらこら死体に触るんじゃない。まだ俺が見てないんだ。… みっちりと絞ってやるからな。とにかく、少し落ちついてから… ん? 誰だお前は? することが無いなら、扉の前にがんばって、もう誰も入れるんじゃない。何だこの騒ぎは。世界記録にでも挑戦しようっていうつもりか。ったく… とにかく初動が済んだら… 何? 目撃者? ちょっと待たせておけ。とにかく、何でもかんでも俺に頼るんじゃない。ちったぁ成長しろってんだよ、このぼんくらどもが。いいから。どけ。死体だ。死体。俺に死体を見せろってんだよ」

 ボスはただニヤニヤ笑っている。いや、こんな時はきっと、優秀なる広報部の部下達と綿密なやりとりを行っているに違いない。部屋の狂騒を真名に任せ、ボスは思索する時空を確保することが出来たのである。情報は刻々と集まってきた。しかし、状況はそれ以上の速度で進行していた。状況の方を足止めしなければ、情報は決して追いつくことはできなかった。推理とはそのハンデを乗り越えるためにあるのだが、そのためにもあらゆる情報が必要なのである。

 パッリーン。

 唐突に、ガラスの音が響いた。室内が一斉に静まりかえる。そこへ場違いな大声が響きわたった。

「駄目だ。その水を飲ませるんじゃない!」

 見ると、ソファーの前に膝をついた真っ白い男とソファーにむかって腰をかがめた婦警とが睨み合っている。ソファーの上には、瑞名が昏倒していた。

「なんだ、なんだ、なんだね君は」

 と真名刑事が歩み寄っていき、怒りで体を震わせている婦警の肩を軽くポンポンと叩いてその場をどかせ、白い男を睨み付けた。白い男は途端に意気消沈してうつむいてしまった。それでもうわ言のように「駄目だ。その水を飲んじゃ駄目だ」と繰り返している。

「何だね。この白いやつは。」

 真名刑事は隣で興味深そうにこの様子を眺めているボスに尋ねた。

「ご自分で尋ねられてはいかがですか。どうしたって彼の証言は必要になりますよ。何しろ、死体の身元確認者であり、この殺人の今のところ唯一の目撃者というわけですからね」

「何!」

 と言って、真名刑事は白い男の胸ぐらを掴んで引きずり起こした。白い男の肌は妙に冷たくて、ねとついた。そして体重というものをまるで感じさせなかった。この手ごたえに、真名は恐怖すら感じたのだが、衆目の中そんな素振りを見せる事なく、白い男を反対側のソファーへ放り投げた。白い男はきょとんとした様子で、真名刑事とボスとを交互に見た。

「貴様。名前は」

「…」

「聞こえないのか。名前だよ」

「よく、分かりません…」

 真名刑事は返事が聞き取れず、再びボスに目をやった。

「何だね。この白い奴は。頭がいかれとるのかね」

 ボスはその質問に直接は答えずに、白い男の傍らへ歩み寄ると、耳元で囁いた。

「さあさあ。警察の人が君の見たこと、知っている事をみんな聞きたいと仰っているんだ。さっき話してくれた事や、まだ話してないことで知っていることやなんか、洗いざらい話してしまいなさい。大丈夫だ。警察に話すんだと思わないで、この私に聞かせるつもりで、話してしまいなさい。そうしないと、私は君を犯人だという事にしてしまうよ。何。今の君の状態なら、責任能力が無いってことになるだろう。ンリドルの精神科は、良いところだぞ」

 白い男はその言葉を聞くと泣きそうになった。その先には鬼瓦のような真名刑事の顔がある。

「何をこそこそ話していたかは、後で君に(とボスを見て)じっくりと聞かせてもらうとして、まず、婦警に向かって暴力をふるったのは見過ごせないな。一体どういうつもりだったのかね」

「はい。あの人が、水差しから水を汲んで来たのを見たので。あの水差しは昨日私が飲んだお茶を沸かすのに使った水差しなので。あのお茶を飲んでから、おかしなことになりはじめたので。だから、水を飲ませようとしたあの女の人を止めなくてはならなかったので。瑞名さんまで、こんな白くて恥ずかしい目にあってしまうかもしれない」

 真名刑事は頭をかいて三たびボスを見た。ボスはじっと白い男の話に聞き入っている。

「どうも、要領を得ないね。君はこやつを目撃者だとか言ったが、そりゃ確かかね」

「ですから、本人に直接お聞き下さい。私のようなアマチュアでは、帯に短したすきに流しってことになるにきまってますからね」

 真名はフウムと唸りながら歯ぎしりをした。それから突然に

「こら。まだ死体を見てないんだ、俺は。運ぶのは後にしろ!」

と怒鳴り、

「君はかなり動揺しておるようだから、少し気分を落ち付けなさい。俺はまず、主役に会ってくる」

 と言って、白い男の肩を叩こうとして思い止まり、ボスをチラリと見て死体の方へと向かった。ボスも真名刑事の後をついていく。現場でわいわいやっていた鑑識の一人がそっとソファーに近寄り、持参した水筒からアルカリイオン飲料を差し出した。瑞名はそれをゆっくりと飲んだ。


「では、先生。診断をうかがおうかな」

 死体の傍らで貧乏ゆすりをしながら包帯を引っ張っていた老人にむかって真名刑事が声をかけた。

「全くいつまで待たせるのかね。君らはもう少し合理性を追求すべきではないかね。死体だから待たせておいてもいいというのは軽率なんだと、あれほど言っておるだろう。死体だってナマモノなんだから、鮮度が落ちると色々面倒なんだ。おまけに、その面倒を見るのは、正真正銘、生きておるわしだということをだね…」

 真名刑事は老人の言葉を「もう分かった」という風に手で遮り、「所見を聞こうか」と先を促した。老人はコホンと咳払いをして、死体を指し示しながら所見を述べた。

「こいつは40歳から60歳までの男性で硬直の具合から死後8時間から12時間といったところだ。死因は心臓の麻痺に間違いなしだ。ああ、この腹の刺し傷は致命傷にはなり得ないし、第一出血が少なすぎる。誰かが死に水を取ってやったというなら別だが、そういう反応もないのでね。無論、殺害現場はここじゃあない。ま、詳しいことは後ほど報告書にまとめて届けさせよう」

 老人は話している間、ずっと遺体の肌を撫でたり、つついたりしていた。いつのまにか戻ってきていた室田はその手元をなんとなく眺めていたが、見ているうちに、妙に気恥ずかしいような気分にさせられた。それが死体である、というリアリティーは、まるで感じられなかった。

「ところで、この部屋で死体を始めに発見したのが、この白い… えっと君、名前はなんというのかね」

 真名は白い男に問い掛けた。白い男はずっと瑞名の傍らにしゃがみこんでいた。まともな返答があるはずがない、と真名は忌々しげに舌打ちした。しかし、その直後意外とはっきりとした声が白い男の口から発せられた。

「私は営業二課の或日野文之といいます。昨日付けで空想技師集団のPRに携わっています」

 この反応にもっとも仰天したのは、誰あろう、室田六郎だった。室田は或日野とボスの間に割って入ると、強い口調で言った。

「営業二課の或日野文之なら、今朝ほど怪我をして入院中のはずだ。君はなぜ、或日野の名を語るのかね。事と次第によっては身分詐称で当局に訴えるぞ。ちょうど今日は警察がきている」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」

 真名が面食らったように口を挟んだ。

「本人が或日野だと名乗っているんだから、そんなに目くじらを立てなくともいいでしょう。やっとまともな話が聞けそうなんだから。身元なんぞ調べればすぐに分かるもんだ」

 しかし、室田は引き下がらない。

「私は営業課を取り仕切る立場の者なので、放っておくわけにはいきません。彼の社員証を走査すればすぐに分かることです。それに、身元を偽る人間の証言など当てにならないに決まっているのではないですか? とくに私の目の前で私の課の人間の名を語るとは言語道断だ。まず、社員証の照会をしていただくことを、断固として要請しますぞ」

 真名は首筋をぽりぽりと掻きながら室田をボスとを交互に見た。そして、机の上にあったはずの死体が片付けられているのに気づいた。

「おい。死体はどうした? あそこにあった七面鳥みたいなおみやげだよ。じじいが運んでいった? 俺がまだ見てないってのにか。遺留品は? 鑑識が持ってった? おいおい。俺はいったい何しにここに呼ばれたんだよ。現場にきて、死体は見られないわ、遺留品はないわ、目撃者は頭がおかしいわで、やっとまともな話が聞けそうだとおもったら、今度は愛社精神にあふれる堅物が、供述の邪魔をするときてる。皆さんは一体、この事件の解決に協力しようという意志がおありなのかどうか? いいですかな。捜査が長引けば長引くほど、この建物の封鎖期間は長くなる。現場の保全が第一なのでこの部屋は、それでなくったって向こう一ヶ月は出入りい禁止になる。あの黄色いテープでぐるぐる巻きにするんです。」

「ぐるぐる巻き…」

 或日野のつぶやきは真名には無視された。だがボスはそうつぶやいた或日野の目に先ほどまでは見られなかった光を見てとっていた。

 ボスは、この白い男が「或日野文之」だということを確信していた。それはボス自身の記憶によるもので、ボスが絶対の信頼を置いている根拠である。だが、社のデータベースの奇妙な重複を知り、その一方のデータに室田六郎の名前が絡んでいた事、さらに、今の或日野への対応から考えて、この男が或日野文之であっては困る立場にあるということは、考えるまでもない事実である。では、なぜ室田六郎は、或日野文之が或日野文之であってはいけないというのだろうか。そして一連のやりとりのなかで、じっと瞑目している隊毛頭像の役割は何なのだろうか?


「まあ、勤怠管理部へ言ってみるのは無駄ではないでしょう」

 とボスは明るく言った。

「この部屋には勤務状況を記録するカメラが設置してあります。その映像を見るのは捜査の邪魔にはならんでしょう。この白い人の身分確認なんか、そのついでにできてしまいますよ、真名刑事。どうせここにはもう手がかりなんてものは残っていないでしょう。何しろこの通りですから」

 この言葉に一同はあらためて営業二課を見渡した。いつのまにかそこにいるのはボス達だけになっていて、机や椅子の配列はめちゃくちゃで、そこいらじゅうが粉やダンボールだらけ、おまけに黄色いテープが一面に張り巡らされていた。ボスは「なぜ俺に黙って現場を離れるんだ」と悪態をついていたが、スピーカーからチンチンという軽やかな音楽が流れてくるのを聞いて額をパチンと叩いた。

「なんだ。もう5時か!」

 この音楽は、終業の音楽なのだ。この音楽が鳴り終わるまでに退社の刻印をしなければ、残業分の賃金が割り引かれてしまうのだ。

「今日のは残業にはならないでしょうね」

 或日野が心配そうに室田に尋ねた。室田は先ほどまでのいきさつを忘れたかのように

「会社がこの状態だし、これは仕事ではないから、査定には関係がないだろう。非常事態だからな」

 と上司らしいところを見せた。

「では、勤怠管理部へ参りましょう」

 意識を取り戻した瑞名も加わり、一向は黄色いテープをかいくぐりながら営業二課を後にした。


 廊下を歩く一行の足取りは重かった。壁も床も天井も全ての直角が狂っているように見え、微細な亀裂が無数に走っていたからである。足元を確かめ頭上を用心しながら、一行は一塊になって歩いていった。窓の外は朱色から白へのグラデーションを帯びた霧に覆われていて視界はきかなかった。ボスの脳裏に、「夜の底が白くなる」という言葉が思い浮かんだ。

 通路の途中に掃除用具などが散乱している区画があった。みると階段下の用具倉庫が開けっ放しになっている。室田はその様子に気分を害したように、モップやチリトリを足先で退け、道を開けた。この辺りだけ床が一面に濡れていた。扉の前を通過していくと、集団の背後でハッと息を呑む気配がいた。瞬時に緊張が走った。隊毛ですら、体をピクリと震わせた。

「どうしました」

 先頭を歩いていたボスが倉庫の扉前で棒立ちになっている瑞名に近寄り、その隣で同じように呆然と倉庫内部を見ている白い男の前に立った。

「室田さん。これはあなたの所の課員ではないですか。営業部で一体何が起きているんです?」

 ボスに名指しされ、室田は精一杯威厳を取り繕いながらボスの傍らに立ち、倉庫内部を覗き込んだ。

「多田場。それに田比地!」

 アルミ製のラックはモップの柄を両脇から挟んで立てかけるようなつくりになっている。その隙間に、多田場と田比地の首が挟み込まれ、宙づりになっていた。顔は鬱血しており、鼻血が流れている。一目見て絶命している事が見て取れた。

「これは、むごい」

 事件現場には慣れっこのはずの真名刑事ですら思わず目を背けてしまうような惨状に、瑞名はまたしても失神し、白い男の腕に倒れこんだ。白い男はその体を支えようとして、濡れた床に足を滑らせ、そのひょうしに嘔吐をこらえていた室田の横腹を思い切り突き飛ばし、室田は真名のベルトの辺りを掴んで嘔吐した。真名は慌てて腰を引いてバランスを崩し、ボスに掴まろうと腕を回したのだが、ボスは素早く身を交わして倉庫の中へと逃げ込んだ。その時、ボスはこの室内が意外に広いことにおどろいた。暗がりでよくは分からなかったが、足音や通路の物音の反響から、そうと知れたのである。だが、ボスはこのことについて一言も発せず目の前にぶら下がっている死体を観察しはじめた。結果的に、瑞名の下に白い男、その下に室田、その下に室田の吐遮物、その下に真名のズボン、そして一番下になった真名の手には、落ちていたモップの柄がしっかりと握りしめられていたのである。数字の6と見えなくもないこの一連の顛末を、隊毛は苦笑で見下ろしていた。

「まいったな。ご老体を呼びもどさにゃならん。それから替えのズボンを届けさせると。それにしても、室田さん。あんた昼に何を食べたんです。もっと消化のいいもんを食べてもらいたいもんですな」

 真名は冗談めかしていたが、ここで腹を立てては身の程が知れるという知恵が働いたのだろう。

「おっと、仏さんに触らんようにしてくださいよ。探偵先生。証拠というものは非常に繊細なものですからな」

 ランニングにぼろぼろのズボンを履いた裸足の田比地の、尻ポケットのあたりにボスが手を伸ばした途端、真名刑事が釘を刺した。ボスは、へいへい、と生返事をして部屋を出てきて、真名刑事を素通りすると、状況をニヤニヤしながら観察している隊毛頭象の隣に並んだ。

「火を貸してもらえませんか?」

「構わないが。君のどこに火をつければお気に召すのかな?」

 顔を寄せてきたボスの唇には煙草が無かったのである。

「いや失敬失敬、こんな時には必ず煙草をくわえているのが習慣になっていたので、てっきりもう、用意が出来ているものと思っていました」

 と、ボスは頭を掻き、あちこちのポケットを探しはじめた。隊毛はなかなか出番の無いライターを片手で弄んでいる。

「いや、そういえば禁煙していたんでした。時に隊毛さん。一本失敬できませんか?」

「禁煙しているのではないのですか?」

「何… いいんです。いずれ、止めることにしましょう。」

 隊毛は素直に一本取り出し、ボスにくわえさせると、手早く火を付けた。周囲に良い香りが広がった。

「やはり、いい物を吸っていらっしゃる。これは、ツポイノアーリュではないですか? しかもオートクチュールだ。この吸い口の美しい事、刻みの繊細さ。何よりも巻きの確かさと、紙の選定。どれを取っても文句の無い逸品ですね。画廊ってのは、そんなに儲かるもんですか?」

 ボスは立ちのぼる紫煙の先が作りだす幾重もの渦巻きを眺めながらそう尋ねた。サングラスの奥で、隊毛の目が一瞬険しくなった。

「釜名見先生のお陰ですよ。私のところが所定鑑定所になっていますからね。もっとも、贋作の認定所といった方が正確ですがね」

「なるほど、鑑定料ですか。」

 ボスはそう応えると、今までいとおしげに燻らしていた煙草を一息でフィルター付近まで灰にしてしまうと、真名刑事と死体の方にむかって思い切り煙を吐き出した。

「これで少しはひどい匂いも消えるってもんです」

 ボスと室田は激しく咳き込み、その拍子にまた滑って転んだ。下から、吐遮物、真名、白い男、の順番である。今度という今度は真名刑事の理性も役に立たなかった。

「貴様。おかげで重要な手掛かりが消えてしまったかもしれんのだぞ。分かっておるのかね。俺は今からこの小部屋を閉鎖して、空気中の粒子一粒たりとも見逃さない捜査態勢を整えようと決めていたところだというのに、この安っぽ…くはない煙のせいで、大気中の成分が崩れてしまったぞ。お陰で犬の手配をキャンセルせにゃならん。おまけに、俺はもう一つ、替えの上着まで持ってこさせなきゃならなくなったんだ」

 転んだひょうしに腰でも打ったのか、真名刑事は中腰のままで怒鳴った。白い男はその隣にぺたりと座って気の毒そうに真名を見上げている。

「で、一体この幕間劇にはどんな趣向が隠れているんです?」

 隊毛がボスにこっそりと耳打ちした。ボスは肩を竦めて

「別に。ちょっと空気が気に入らなかったもので」

と応えた。

 数分後、またしても制服警官と鑑識係の一段がどやどやと現れ、狂乱が始まった。

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