第59話 室田追憶

 舞台がタイラカナル商事に戻ってからこちら、各部の動きが慌ただしくなってきた。筆者としては、腕の見せ所ではあるのだが、出てくる人物がみな何かしら大事を秘めているらしく、なかなか定石通りには動かない。取り合えず、現在動きのある班はと見渡せば、隊毛と室田の二人が、営業二課へ向かって歩いていくところであった。営業二課には、昏倒する女性二人に手を焼く工辞基がいる。考えてみれば、同じタイラカナル商事に勤め、自他ともにライバルと認めている工辞基我陣と室田六郎とが、面とむかって闘う構図にはまだお目に掛かっていなかった。これはしたり。是非とも、この因縁の二人を合いまみえさせ、熱いバトルを繰り広げていただこうではないか。人は興奮すると、いわずもがなのあれやこれやを口走ってしまいがちである。いくら冷静沈着に、描いた絵図の通りに相手を嵌めようと涼しい顔で切り抜けるつもりでいても、そうはいかないのが人の世ではないか。筆者は確信するのであるが、これまでの荒唐無稽な物語は、今後、たった一つの「正解」に向かって、収斂していくことになるだろう。一人一人がかきあつめてきたジクソーパズルのピースが、現実世界という一枚きりのボードに首尾よく納まるのか否か? 必死でこしらえたピースが実は、全く行きどころのない無駄な一片でないという保証はどこにもないのだ。人の欲望が限りないとすれば、当然出来上がる絵も一通りではないにきまっている。問題は、誰がどんな絵を完成させるかなのである。相手の持つある一片がある場所に納まってしまったら、別の誰かがもっているその一片が使えなくなるばかりでなく、それに繋がるはずの別の一片もまた使用できない無駄片になってしまう。たとえ、首尾よく自分のピースの大部分をはめ込むことに成功したとしても、誰かが執念で自分のピースをねじ込んでいないとも限らない。全体として意味を成さないだんだら模様になってしまった時、そこには勝者はいないといえる。パネルクイズアタック25ならば、見えないピースの向こうにも正解はあり、それがただ隠れているだけなのだから、推測することは可能なのだが、この現実のパズルには、隠された真実などありはしない。それぞれがそれぞれの思惑でねじ込もうと躍起になる一片一片が、自身の血の一滴であり肉の一塊なのである。これまでのところ、誰が優勢なのか、筆者には皆目分からない。それがいつ始まり、いつ終わるのかも、実は定かではない。だが、筆者はなんらかの決着を付けなければならないだろう。それが、たとえ一過性の結果であるとしても、たった一つの正解が成立する瞬間を、見逃さないようにすることが、筆者のただ一つの責務だと思うのだ。そのたった一つの正解がどんなものかも定かではない。しかし、それはさほど遠い未来ではないはずだ。


 ともすれば追い越されそうになるところを小走りで前に出ながらも、室田は営業二課へ向かう道筋に確信がもてずにいた。地下駐車場から、ひっそりとしたエントランスホールに出て、そこから各部署が並んでいる棟に入ってからは、この建物全体から発する不気味な威圧感とでもいうものに、気押されていたのだ。

 さきほどの地震の影響だろう。壁にはところどころに亀裂がはいり、天井のパネルもいびつに膨らんだり、一部が剥落しかけたりしている。床に描かれた黄色のラインも、直線ではなく微妙に歪んでいるように見える。そればかりではない。今こうして歩いている天井床壁が突き合わされる角は明らかに直角ではなく、整然と設置されていたはずのロッカーや、給水機なども、まことに気持ちの悪い角度に歪んでいる。

「相当な揺れだったようですね」

 このような惨状の中を平然と歩いている隊毛にむかって、室田はそう口走らずにはいられなかった。だが、隊毛は存外平然として、営業二課に向かって歩を進めていった。サングラスに隠れた視線の先は定かではない。しかし胸を張って大股で歩く隊毛に臆するところはなく、この非常事態の中にあってなお、自分のすべき役割と必要な行動を見失わないでいるという事を感じ取る事が出来る。

 室田は、時折ビシッとかバキッとかいう音の響く通路に怯えながら、なぜこんなことになってしまったのかと、考えずにはいられなかった。

 前任の営業部長が長期入院をしなければならなくなり、その折りに営業部を分割して、一課を室長付きで室田に、二課を課長補佐付きで工辞基に任された時、室田の目論見は第二段階にうつる事を余儀なくされたのであった。それが、工辞基の追い落としであることは言うまでもない。一つの部署を負かされるという事は、個人の才のみならず、部下の出来次第では、詰め腹を切らせる事が出来るという点で、策略はより安易になるはずであった。

 室田の一課は常に、営業成績でも売上貢献指数でも二課を上回ってきた。だからいつ、二課が閉鎖され一課に併合されるかと、室田は毎朝掲示板を真先に確認し、そして落胆する日々を過ごしてきた。人事部とのコネをつかい、二課にはろくな人材をいれないよう画策しさえし、二課営業の成績は一段と下がったのであるが、工辞基はそんな処遇に愚痴ひとつ言わず、のんびりと仕事を楽しんでいるように見えた。室田にはそれ許せがなかった。上層部へそれとなく、二課がいかに効率が悪い金食い虫であるかを綴った文書を配付した事もあった。どう考えても採算が合わず、失敗が目に見えているプロジェクトを密かに二課へ回したこともあるのだが、そんなプロジェクトが何故か、大きな社会問題へと発展し、その渦中にあるタイラカナル商事の度量が問われるなどと取り沙汰されるまでになり、結果、採算度外視での遂行にこそ意義があるなどと論理をすり替えさえされて、二課の工辞基が名を馳せた、などということも一度や二度ではない。室田には、二課のお遊びが許されるのは、一課の地道な営業成績があってのことだという自負もあり、実際に二課で出た足を一課の売上で相殺するなんてのはザラであった。

 二課の存続理由はただ一つ、ユニークな営業獲得、にあった。室田は地道な営業活動と共に、地道な営業妨害活動を行ってきたのであるが、それが真っ向からぶつかった事もある。

 例えば、三年程前にあった「つぶらだに万博」の企画の際には、一課にその運営推進の依頼が舞い込み、それと平行する形で二課には、反対派の阻止運動の推進企画がもちこまれた。普通ならば会社としてどちらかに絞るべきだと思うのだが、社としては中立の立場を貫き通す、との方針がアナウンスされたのである。それは、「つぶらだに万博」がエコロジーという観点から非常に微妙な問題を含んでいたため、どちらかにつくと、名言するわけにはいかなかったからなのである。一課と二課との間にはバリケードが張られ、双方の社員は互いに一切の連絡を禁止された。それは「凪」であっても顔を合わせる危険がある場合にはその使用を禁じるというものものしい警戒の中で進められた企画であった。

 「つぶらだに万博」はその豊かな自然環境を会場とし、人々に自然の豊かさや大切さをじかに感じ取ってもらおうという、誠に、誠に、意義のある万博だったのであったが、まさか、手つかずの原野にお客を放置するわけにもいかず、会場の整備、アクセス路の整備、各パビリオンの設営などが検討されたのである。室田は数年に一度あるかないかという大きな予算のプロジェクトに全勢力を注ぎ込み、反対派の動きを内定する人員を二課内部に送り込むことにも成功していた。

「人は自然をそのままでは感受する事が出来ない。自然とは人が手を加え、それを自然だと認知したとき始めて自然となるのであって、それ以外の自然とは、観念でしかなく、観念であるがゆえにないがしろにされがちなのである。自然を自然として保護するためには、必ず人手を加え、それを保護しなければならない現実であると認識させなければならない」

 という、推進派のありがちな主張に対して、反対派の言い分は

「自然保護の名目で行われる自然破壊行為を断固として許すな。会場予定地には、十数羽からなるオオトビワシのコロニーが確認されているし、埋め立て予定のつぶら谷には、六種類の固有種を含んだ、絶滅が危惧される十二種類の甲中類と、世界的にもこのあたりにしか生えていないツブラトビクサや、ハコマイマイツブリモドキなどの希少種も認められている。工事完成図は山合いにひっそりと立つパビリオンが描かれているが、工事車両の往来による被害は全く調査されておらず、完成後の生態系についても全く考慮されていない」

 という、これもよくある反対理由であった。

 さらに地質などの調査の結果、この土地に温泉が見つかり、地元では「温泉で村おこしを」との声が一段と高まった。が一方では、その温泉のある辺りに、縄文時代の遺跡と思われる土器などが固まって出土し、遺跡の保護が主張された。

 結局、温泉は湯量、温度ともの不足していて商用にならないことが分かり、土器は偉い博士が自分で埋めたことが発覚したのであったが、それぞれを暴いたのは、一課、二課の働きだったのである。推進派が一気に温泉で開発を押し進めようとしたところ、反対派が遺跡の存在をアピールして無理な開発を止めようとしたのだとも言われていたが、真相は藪の中であった。

 室田六郎はこれが、万博の開催についての戦いではなく、工辞基我陣との直接対決と位置づけていた。さまざまな啓蒙パンフや、テレビでの紹介枠の確保、議員への視察旅行接待などで、この万博の商業的意味を、売り込んでいた。地道な営業で培ってきた人脈のありたっけをつぎ込んできたのである。

 結局、この万博は、会場を移して実施されることとなった。反対派は、自然保護の名目での開催を阻止できなかった点で、そして推進派は、会場を移動させられた点で、痛み分けの形であった。しかし、タイラカナル商事の内部での判断はちょっと違う。二課は一貫して、会場周辺の自然開発に対する反対という論理で臨んでいたので、会場移動によってその大半の責務を果たした事になる。だが一課は、推進派のさまざまな調査や土地取得に関する出費を無駄にさせたという点で、大きな痛手を被った。その後、会場移動の後の運営も引き続き任されていたので、そちらで十分に取り返すことは出来たのであるが、二課の戦いとしては、完敗であった。それ以降、室田は工辞基個人に関する弱点に重点を置いて徹底的にリサーチするようになり、表立っての敵愾心を故意に押さえつけてきたのであるが、こうした抑圧によって、それはほとんど人の道に外れる個人的な怨嗟へと変貌していったのである。

 こうした経緯があって、「釜名見煙」というビッグネームの依頼が、一課を飛び越して二課に持ち込まれたという情報を得た室田は、地団駄を踏んだ。話題性も予算も、これまでの仕事の比ではない筈だし、何よりも「釜名見」とのパイプが約束されるということは、タイラカナル商事がなかなか進出できなかったファインアート市場への門戸が開かれるという事である。文化事業の名を借りた有効な投資事業によって株はますます上がるだろうし、工辞基はこのプロジェクトの責任者として一躍有名になるだろう。室田はこつこつと積み重ねてきた自分の実績が、風の前の塵のように思えた。だが、このプロジェクトを妨害するわけにはいかなかった。それは社の名誉を傷つけることになるからである。工辞基一人を失脚させ、プロジェクトをこちらに引き継ぎ成功させるという一挙両得の方策を練ることにしか、室田の立つ瀬は無かった。

 室田は、その依頼について調査をさせ、依頼人が薩它竝馬という一画廊主であることを突き止めると、妙だと思った。「釜名見」という名前を扱えるだけの人物であるとは思えなかったからである。いろいろと調べてみると「釜名見煙」はもう何年も表舞台には出ておらず、その作品の全ては、キオラ画廊の隊毛頭象という人が管理している事が分かった。

 室田自身は、釜名見という名前と地位だけは知っていたが、その存在を実感できたわけではない。作品が高値でやり取りされる記事を見るたびに、有効な投資手段としてのみ認知していたのである。趣味に走るビジネスは凶、と考えている室田にとって「釜名見」は魅力ある素材の一つでしかなかった。今回の依頼を隊毛が知っているのかどうか、そしてもしそれがイレギュラーの依頼であったなら、それを放置し、一方で作品の管理者でもある隊毛と組んで、まぎれない「釜名見」の企画をこちらでぶちあげてやろう室田はそう決心した。

 しかし、そのための人員を一課から割くわけにはいかなかった。これはまだ仕事になるかどうか不分明な企画であった。それに、一課の地味だが着実な実績は、室田に他意が無いことの証でもあった。室田は二課の動向を探らせる一方で、隊毛と接見すべく時期を伺っていた。キオラ画廊技術主任、隊毛頭象と面会できたのは、それから三日後の事である。


 室田は亀裂の入った窓ごしに、幾重にも重なってみえる中庭を見ながらため息をついた。万博の事を思い出したのは久しぶりだった。自分は会社で工辞基の尻ばかり追いかけてきたのだという情けない気分にすらなった。時計をしている右腕が重たく感じられた。今、工辞基はイフガメの砂の中に埋もれている。今回の企画は自分の責任で執り行う事が出来ると決まった後で、今こうして共に歩いている隊毛から、「釜名見は存在しない」などと打ち明けられ、企画自体が壮大な詐欺にほかならないと知った今、今回の自分の奮闘はなんだったのだろうと思う。

 営業統括部長という自分の肩書が、これほど無力に思えた事はなかった。一課の仕事は誇れるものばかりだった。こんな山師みたいな仕事は二課にこそ相応しいはずだった。二課の連中はいかにも扱いにくく、特に或日野という社員は、これまでのぼんやりぶりから豹変して、自分に食ってかかるような真似さえしてきた。無論、或日野については急所を握っているという思いもあり、隊毛と「或日野には手出し無用」との盟約を結んでいるので、我慢しているのではあるが、それで企画自体が潰されては、責任者としての自分の身が危ういのだ。

 室田はうつむき足取りも重く、隊毛の三歩後ろをとぼとぼとついていった。壁のいたるところに走った亀裂から、無数の目に見つめられているようで寒けがした。俺たちはお前がしてきたことを知っているぞ。といわんばかりの、冷酷な視線だった。


「ここだったかな」

 背後から隊毛の声がした。あっと思って立ち止まると、営業二課の前を通りすぎてしまうところであった。

「しっかりしてくれよ。君にこの企画をまかせるからには、ぼんやりしていては困る。あまり時間もないのだから」

 隊毛はこれまでの室田の思いを知ってか知らずか、釘をさした。

 はあ、とかなんとか曖昧な返事をする室田を待たず、隊毛は二課へと入っていった。その後を追いかけるように二課へ入ろうとした室田の耳に、揶揄するような隊毛の声が聞こえてきた。

「これはこれは。両手に花とは羨ましい。工辞基我陣さんではありませんか」

 室田は愕然とした。無意識のうちに腕時計を隠した。イフガメに飛ばした筈の工辞基がなぜここにいるのだ? そんな疑問を吹き飛ばすように、隊毛は言葉を続けた。

「と、いうよりも乞米繰馬と呼ぶべきかな」

 ぐったりとした女を両脇に抱え、そろりと一歩目を踏み出そうとしていた工辞基は、

「あっ!」

と言って、その場に立ち尽くした。そして、胸をそらして立っている隊毛の背後で、同じように、室田も立ち尽くすしかなかった。

 「きめくりま」という奇妙な言葉の意味と、それに反応した工辞基の態度とが、結びつかなかったせいである。始めの疑問、何故工辞基がここにいるのか? という疑問は、次の疑念「きめくりま」とは何か? にとってかわられた。いずれにせよ、室田の出る幕は無かった。今、現場の主導権を握ったのは、完全に隊毛頭象だったからである。


 この二課の状況の変化にいち早く気づいた、というより気づく立場にいる人間が一人いる。そう。営繕課予備室の多比地君だ。多比地は、未伊那深夷耶のテレポーテートを解析中だった。立方体のスケルトンモデルの内側にひしめく数百の社員IDの意味を、様々な座標を用いて検証していたのである。筆者には知るべくもない数々の公式、それは奇妙な記号とギリシア文字の羅列で、ディスプレイに描きだされるグラフはZ軸をもつ三次元座標のみならず、さらに二三本の斜めの座標をも含めた五次元以上のものである。座標はカッコのなかに行列した数値で表され、それにタイラカナル商事の見取り図がいびつに張りめぐらされていたりする。もはや想像を絶する絵図がぐるぐると回転する画面に見入る多比地君の瞳もまた、ぐるぐると回っている。

「これは、システムの共振現象だぞ。たしかミコフスカヤの第四仮説にこんなのがあったが…」

 ぶつぶつと呟きながら無線で繋がっている外部のコンピュータにデータを飛ばしてそこからまたいろいろな数値やら公式やらを拾いだして、端末に打ち込み計算をさせる。室温は40度近くにまで上がっている。多比地はワイシャツを引きちぎるように脱ぎ捨て、ネクタイを頭に巻き付けて、さらにキーを叩く。先ほど開放した人工水晶体もフル稼働させて独自のデータを次々と流している。クラッキングをさせている端末からはアクセスの進捗状況がひっきりなしに送られてきている。これはモールス信号よりももっと複雑な様々な電子音に変換され、イヤホンで監聴しているのである。

 もはや、ちょっとした拷問である。まさにマルチタスクといえるだろう。ドラマーは四つのリズムを同時に打ち鳴らす事が出来るし、大道芸人は太鼓とハーモニカとギターを一人で合奏したりする。また北の地には一人で倍音を慣らすホーミーという歌唱法があるという。テラバイトオーバーコンピューター世代の多比地にとっては、同時に幾つものことを平行して処理する事は、なんら特別な事ではなかった。そもそもパソコンそのものがそういう性質をもつのであり、人間がその記憶部分を分離し、記憶を情報と呼び変えてその性質を拡張し、さらにコンピュータの情報処理能力が飛躍的に伸びていった結果、人間は明らかに変質したのである。機械化オートメーションにより物理的能力の限界を切り離し、コンピュータの発達によって情報処理能力の限界をも外部に切り離した結果、人の存在意義は、好奇心のみとなったのだ。多比地は、他人の秘匿情報を盗み見る欲望にとりつかれ、そのあらかたはネット上に存在していた。スキルの向上はアンタッチャブルの境界をどんどんとうち崩していき、哲学の無いままに肥大していった。と、ここまでは誰でもが辿り着くクラッカーの道である。が多比地の場合は、ネット世界に君臨するという欲望が持続しなかったのである。すなわち、「現実」の「肉体」の快楽を求める手段だと割り切って、ネットを操っているのである。コンピューターでコントロールする快感ではなく、コンピュータを駆使して得た情報で現実から快感を得るのである。今、多比地が喜々として打ち込んでいるのは、高度に隠蔽された情報を解き明かす事である。四方から押しつぶされそうな薄暗く、蒸し暑い一室で、多比地は目と耳と指によって錯綜する0と1の行列を、次々に捌いていた。


 ところで、ここに繰り広げられるネット上の攻略作戦は、多比地の独壇場のように思われるかもしれない。しかし、どんな先制攻撃も、どんな奇襲も、速やかな撤退なくしては成功はあり得ないものだ。あれやこれやで都合20分以上も、飽くなき挑戦を続ける多比地の存在を、混乱の最中にあるタイラカナル商事内部にあって察知した部署が二つある。

 一つはいわずとしれたタイラカナル商事のメインコンピュータである。こちらは先程からひっきりなしに不正アクセスやら不可能ID使用やら、バッファオーバーフローやらのアラートが出っぱなしで、その都度、自動的に防御プログラムやら、攻勢防壁やらがくみ上げられている。勤怠管理部で状況の確認と様々な部署からの問い合わせを整理する地媚さん(型端末)は、さすがに汗などはかかないが、人間味ある表情をコントロールする余地もなく、ひたすら冷たく瞳を点滅させつづけていた

 だが、地媚はもともと愛らしく一途な女性である。様々な方法でランデブーを求めてくる相手にほだされるなどという事はないだろうが、攻撃の全てのログの解析を並列処理していると、今までこれほど誰かに求められたことがあったかしら、などという気分もしてくるのではないだろうか。違うわ。この人は、私が勤怠管理部のメイン端末で、社のメインコンピュータに直結しているという立場に興味があるだけなのよ。私なんて、この人にとってはただの通過点に過ぎないんだわ。あーあ。でも私どうしたのかした。なんだかとっても右頬が熱い…

 とか考えていないとも限らない。地媚をここに据えたのは室田の報復人事に他ならないのであるが、ここから防壁を突破されたら、室田の責任問題に発展することは間違いないだろう。工辞基に一途な思いを抱く地媚さん(型端末)は、自らの破滅を厭わず、室田と刺し違えるつもりにはならないだろうか…

 さて、多比地の攻撃を察知したもう一つの部署というのが、地下駐車場のさらに地下に存在する「広報部」であった。

 諸君は覚えておいでだろう。地下駐車場で隊毛と対等にわたりあったあの三十絡みの派手なサスペンダーの男性を。そして室田のあの嫌がりようを。

 広報部というのは、社内のミニコミや対外的なPR誌を発行している部署である。時折、営業部などの仕事の都合で外部発注するまでもないパンフレットなどを作成しなければならないときなどは、ここに発注をかけることもあるが、それも見本や版下までのことで、実際的な生産性は皆無である。LANが発達している現代、未だにオフセット印刷で社内報を発行する意義があるのかと誰もが不審に思いながら、数々のスキャンダル暴露や、目先の早すぎる情報をさりげなく掲載しているという点で、一部社員には熱狂的に指示されている部署でもある。普段、社内を歩いているとたいてい二回や三回は、「広報部」という緑に白抜きの腕章を巻いて、時代がかった三つ揃えに鳥打ちやベレーを被り、おおぶりなフラッシュライトを取り付けた銀塩写真機を首から下げた人々とすれ違うことになるだろう。それがあまりに見慣れた光景だったので、これまでわざわざ記載してこなかったのだが、これは筆者の怠慢である。

 会社創設始まっていらいのてんやわんやに、広報部は休息返上でネタを集めていた。といっても完全休憩施設「凪」の壊滅で、タイラカナル商事では正規のタイムテーブルが破棄されていた。つまり、有事の際にはティータイムは適応されない。ということである。部室は戦場の前線さながらの混乱ぶりである。半数は書類と格闘し、あとの半分は今時、黒電話をかけて、大声でどなったりしている。どこまでもアナクロな部署である。

「違う! ログがあるだろう。そっちはてんやわんやだろうからこっちで解析してやるっていってんの。何? 打ち出してない? ばかやろう。なんで有線してると思ってるの。今、枝ついてんの分かってる? そっちは戦力ほとんど無いんでしょうが。今すぐ打ち出して、エレベータで回せっていってんの。なんなら記録紙繋がったままエレベーターに垂らせって。いちいち切ってる時間が勿体ない。は? 犯人? はいはい。分かったら教えてやるよ。それが知りたいってんならな。それより言ってる間に、ログ回せっての。こっちじゃモニター出来ないの。何でって。今更なんでそんなこと聞いてくるかなあ。お宅の娘さん、来年大学でしょうが。無事に学士にしたいんなら… そう。ありがとう。恩に切るよ。こちらこそ。じゃあね。ばははい」

「あ、警備部?  俺、広報の佐々木。駐車場どう? ひどい話だよな。不法侵入に、器物破損に、暴行殺人に、同性愛に、騒音条例違反だって? そりゃあもう。いつもお世話になってるからさ。うん。うん。それでさ。うん。あのね。うん。うん。分かってるって。 田畑さんは悪くないさ。やることやってたの知ってるよ。俺証明してやるよ。お宅の上にかけあってやってもいいからさ。証明? できるって。だって田畑さんの働きぶりは全部ビデオに取ってあるじゃん。それ見りゃ一発だって。IDで田畑さんがいつどこでどんな優秀で的確な行動をしてたかって全部分かるんだって。本当だよ。いつだって田畑さんの働きはそのビデオで… うん。騙されたって? 世の中そういうもんだよ。さぼった事もあったの? そう。でも大丈夫。今こそ俺、田畑さんに恩を返さないとさ。だからさ、マスターキー、教えてよ。絶対ばれないって。俺のこと信用できるって、分かってるでしょ。今までだってさ… うん。はいはい。(メモしろ、とのジェスチャ−)クルマ345ダンエバお63カシ3むらドウジョウで44216ね。ありがとう。ほんと。首になんてしやしないよ。今度のはさ、実はね。組織的なテロなんだよ。そう内緒の話。まだ絶対秘密だよ。だから田畑さん一人首にして済む話じゃないの。だから大丈夫。じゃあね。また、お孫さんの写真見せてね。バイビー」

「よう。受付? その声は真澄か。あいかわらず痺れる声してるね。そっちどう。よく無事だったね。凪にいかなかったの。ああ、そうか。給湯室ね。まあ、良かったよ。今大変だよ。入口も閉鎖だろ。でまだそこにいなきゃなんないの? え? だってこんなの仕事じゃないよ。どうせ完全閉鎖なんだからさ。そこにモニターカメラあるじゃない。うん。そのウケツケって板のさ、受けっていう字の真ん中に、カメラ。そうそう。そこにあるんだよ。知らなかったでしょ。それと、そのカウンターの下の方にも一つ… なあんてね。嘘嘘。今日のストッキング、制服のスカートに隠れてるけどバラの刺繍がしてあるだなんて見えてないって… 何、図星? まいったな。だから言ったろう。俺たち付き合うしかないって。だって、俺、真澄の事ならなんでも分かるもんね。今、俺の顔見たいと思っただろう。外れ? 早く帰りたい? じゃ正解じゃん。だって今日、真澄は一人じゃ帰れないんだから。そう。俺がね。エスコートするの。エスがいやなら、エムコートでもエルコートでもいいよ。駄目? そーか。残念。エリックサブリメンのチケットが手に入ったんだけどな。バックステージの、だけど。ケケケ。でさ、カメラの記録、ちょっと回してくれないかな。ああ。いつものね、スキャンダルがらみでさ。じつは、あの、企画六課のハゲ次長の、愛人がさ、ああ。気が付かなかっただろ。ちょっとわけありでね。その筋じゃ有名らしいんだけど、うん。うん。大丈夫。いつもばれたこと無いだろ。そのかわり、情報と、バックステージの券は一番にプレゼントするからさ。悪いね。そのうち帰宅命令が出るよ。集団下校でね。あはは。防空頭巾、いつも椅子の後ろにかぶせてあるんだろ。耳のとこにあいてる穴、おれ、そこにまっすぐ縄跳びとおして綱引きできるんだぜ。本当だって。うん。またな。じゃ、テープよろしく」

 やがてデータが集まりはじめ、大きなホワイトボードに人間の形や車の形のマグネットを貼り付けて、全員がわいわいやっている。そこに、例の派手なサスペンダーの男が入ってきた。

「ボス!」

 全員が一斉に立ち上がり海軍式の敬礼をする。男も軽く敬礼を返し、すぐに大声を上げる。

「これをすぐに現像にまわせ。それから、一週間の間の社への出入りを全てチェック。室田六郎のファイルをもういちど洗え。それと隊毛頭象について至急洗ってくれ。それから、ンリドルホスピタルに詰めてる連中を呼び戻せ。人手が要る」

 手配済みですボス!

 誰かれなく、そう返事をする部下を見回し、ボスは良しとうなずく。

「不正アクセスについてはどうか?」

 一人机に向かって微動だにしていなかった男がロイドメガネを持ち上げながら返事をした。

「営繕予備室です。顔を見ますか? これは営業ニ課に出向している田比地という男です」

「腕はどうか?」

「なかなかです」

 その答えを聞いて、ボスは少し驚いた顔をした。

「ほう。そのうち引き抜いてみるか。身元、洗ってくれ」

「了解」

 ボスはもう一度全員を見渡して喝をいれるように声を荒げた。

「こんだけのネタはそうはない。ぜったいにモノにするぞ」

「はいっ!」

 ボスは満足そうにうなずき、傍らの男にそっと耳打ちをした。

「おれはちょっと人さがしにいってくる」

 そして、この活気溢れる広報部室を出て行ったのである。

あらたな勢力、「広報部」彼らの活躍はいかに。そして、工辞基対室田のはずが、工辞基対隊毛となったニ課の顛末はいかに。真相があらわになるのはいつのことか。

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