第60話 土師と釜名見

 イルカちゃんの中で気を失ったアルビヤは、ふわふわとした暗い空間に浮かんでいる自分を見ていた。そこは、天も地も、右も左も無かった。やがて、光の玉が見えた。アルビヤは、自分がアルビヤであるなどということを考えてはいなかった。これは別に特別なことではない、と思われるかもしれない。誰でも、自分が自分であるかどうかなどを四六時中考えているなどということはないからだ。だが、この時のアルビヤは、自分がアルビヤであるということを考えていない、と、考えていたのである。

 ここには、時間が無かった。普通、人は、時間の無い空間を理解できるものではない。それは、ごく基本的にいって、人間が物理的な存在であるためである。物理世界に無時間はありえない。時間とは事物の変化によって生ずるのである。そして変化しない物体は世界に存在しないからである。 にもかかわらず、今、アルビヤは空間のみがあって時間の無い空間に浮かんでいるのである。アルビヤは光の中に包まれた。そこで、全てを同時に一瞬に、感知したのであった。それは言葉によるコミュニケーションではなかった。それは、言語によるコミュニケーションではなかった。光が消えた時、アルビヤはイルカチャンの中に横たわっていた。そして、イルカチャンの外に立っている看護婦が、自分の妹であり、また自分の母であり、おそるべき殺人鬼であり、父と妹の仇であり、さらに自分が愛した人であった、ということを理解していた。と同時に、自分が何者であったのかが、分からなくなっていた。脳に刻まれている記憶は、一つの名前で統合することが不可能だった。一人の人間の記憶は、産まれた時から、いや生まれる以前から、現在まで、全て一本の紐となっている。それが自分が自分である唯一の証なのである。だが、今、アルビヤの脳には複数の記憶の紐が同時に存在していた。それらは、ところどころで絡まっており、完全に分離しているとはいえなかった。

 イルカちゃんの蓋が開く。蓋の外には紫がかった空が広がっていた。アルビヤ(筆者注:もはや、彼はこの名前では呼べないのであるが、便宜上、この名前を使用する。)はゆっくりと半身を起こした。そこには高原のような霧が流れていた。肌寒さを感じながら、アルビヤは辺りを凝視した。霧の濃淡のむこうに、無数の彫刻が、乱暴に放置されているのが見えた。立っているもの、しゃがんでいるもの、寝そべっているもの、一部が欠損したもの、二人分、三人分が複雑に絡み合ったもの。多種多様な白い彫刻の全てに共通していたのは、どれもが、観客を想定していないように見える、という点であった。観客を想定しない彫刻は、ひどく、さびしげであり、恨めしげであった。アルビヤは、イルカチャンからのそのそと這い出し、草原の湿った土を踏みしめた。

「あ、あら、お兄様。なんともないの? 」

 夏个があとずさりしながら、声をかけてきた。アルビヤは静かに夏个を見てから、さらに辺りを見渡した。

「随分と無駄なことをくりかえしましたね。釜名見さん。もう、いいじゃ、ありませんか」

 途端に、夏个の顔が醜く歪み、躍起になってまくしたてた。

「あなたは、お兄様じゃ、ありませんね。一体誰ですか。あなたのお父さんは誰ですか。あなたの名前は何ですか。あなたに幼い時の思い出がありますか?」

 アルビヤは、燃えるような夏个の視線を平然と受け止めた。

「あなたは、今、夏个静ノの形をしていますね。彼女はあなたの娘でした。しかし、あなたは実の娘をも、私欲のために殺してしまった。私はそんなことをさせたくなかった。ですが、間に合いませんでした」

 アルビヤは沈鬱な声でそういうと、懐から薄い皮状のものを取り出し、顔に装着した。

「土師無明か」

 夏个は目を見開いて言った。そう。アルビヤが顔につけたのは、イルカちゃんの中で事切れていたタクシー運転手土師無明が所持していたマスクで、その直後にアルビヤの手からアメーバが持ち去っていったはずのものだったのである。

 ところが、変貌したアルビヤを見る夏个は、かえってリラックスした様子であった。

「土師無明。お前には随分と尽力してもらったね。感謝しているよ。だが、別に私はお前に頼み込んだわけではなかったね。お前が勝手に、私に介入してきて、勝手に手伝って、そして今となっては、勝手に邪魔をしようとしているのだね。お前には一貫性というものが欠けていると、以前から分かってはいたが、あえて私は拒まなかった。どんなからくりで、お前が空想技術を会得したのかは知らないが、それだけは誉めてやる。よく、盗んだものだね」

「盗んではいません」

 土師の顔をしたアルビヤは呟いた。

「私が今ここにいるのは、一重に文明の発達に負っているのです。あなたに説明の必要は無いでしょう。あなたが寄生主を作り出そうとしているのと同じ技術は、寄生体そのものを作り出すためにも転用できた。だがそのために、私は死ななければならなかった。無論、そんなことは些細なことですが」

 土師の言葉は尋常ではない。だが夏个、いやもはや彼女をこの名前で呼ぶ意味は無い。今ここで、夏个は釜名見煙なのだ。煙は、土師の言葉を何の疑問もなく受け入れたように見えた。

「もちろんだよ。生死など些細なことだ。私は常にそう言っていたね。だが、そのことを理解し、その信念を生きようという者はいなかった。お前がそこまで達観していたとは、知らなかった。だが、その理由は誉められたものではないね。お前は、私の邪魔をするために、死を選んだのだというのだろう」

「命をかける意味があるのかどうかは、本人にしか測れないものです。私はあの熱い砂の中で、あなたを選んだのですから」

「何だい。同窓会でも始めるつもりかい。そういえば、隊毛も、工辞基も、ここにいるんだったね。懐かしいじゃないか。まだパーティーまでには時間がある。暇つぶしにはなるかもしれないね」

 煙は感情など無いかのように、土師の言葉を受け流した。密度を増していく霧が互いの姿を覆い始める。土師はとつとつと煙の方へ歩み寄った。

「煙さん。もうやめてください。あなたの考えていることは、妄想です。決して存在しえない世界を、あなたは創造しようとしているんです」

 土師はそう訴えながら、煙の立っていた位置にむけて手を差し伸べた。しかし、もはやそこには何人の体も無かったのである。

「逃がした」

 土師は無念そうに呟いてマスクをはずし、その裏面に掘り込まれたもう一つの顔、「平喇香鳴」を祈るように見つめた。

 霧が急速に晴れていき、気が付くと、アルビヤは厚生部に、ただ一人で立ち尽くしているのであった。林立していたオブジジェも無く、平常の通りに、イルカちゃんが並んでいる。

 アルビヤは、一つ二つ頭を振り、懐にマスクを仕舞うと、大きくため息をつき、部屋を後にした。通路を歩いていく間に、アルビヤは次第に胸を張り、大またになっていった。連絡通路にさしかかった時、アルビヤは窓の外に、大きな霧の塊を発見した。だが、足を止めたのはほんのニ三秒だった。すぐに歩き始めると、今度は小型の通信機を取り出してしばらくつまみを触っていたが、受信部からはホワイトノイズが届くだけであった。だが、それは単に確認だった様子で、別段落胆した風でもなく、歩く速度に変化は無かった。

 しばらく歩いていると、向こうから派手なサスペンダーをした男がやってきた。男は一人でぶつぶつとひっきりなしに何かを呟きながらも、周囲にすばしこく視線を走らせており、そちらに向かっていくアルビヤにもすぐに気付いた。二人は互いの顔をまっすぐに見据えたまま、歩調を緩めずに近づいていった。

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