第49話 Who is loved by angels?

「工辞基の天使達」

Who is loved by angels?


 積み重ねたトランプをほんの少し押してしまったのごめんなさい、という程の角度で聳えるマンハッタンチェアの、その黒塗りの背もたれに、規則正しく穿たれた方形の穴から彼女たちの制服の背がポツポツ、ポツポツ、ポツポツとモアレ状に滲む。プチケーキバイキングに勝利した彼女たちには誇らしさも、摂取カロリー対する後ろめたさも無い。

 あくまでも均整の取れたボディ。理知的に落ちかかる真っ直ぐな髪。ジーンセバーグ風というよりもアウシュビッツ風に見えると流行作家が形容した未伊那のベリーショートには、さらに儚げな強さすら漂っている。営業二課に集められた彼女達は、それぞれの分野でトップクラスの容姿を持っていた。それぞれの分野、というのが大切なのだ。彼女たちは決して互いの領分を侵さない。そんな心配すら必要がないほど彼女たちの領域はきっちりと別れていた。筈だったのであったが…

 名も知らぬ男一人の視線など毛程にも感じぬこの美しき塊の前には、それぞれのオキニのティー、オキニのコーヒーが、ゆったり湯気を燻らしていた。銀のスプーンの体積を静かに周辺の大気の中に滑りこませ、音も無く、何の引っ掛かりもなく、高飛び込みならばおそらく満点が出たであろうほどの完璧さで、シュガーポットからコ−ヒーカップへ、シュガーポットからコーヒーカップへ、そしてさらに、シュガーポットからコーヒーカップへと移動するさまは、まるで時の無い空間でのダンスのようだったが、その成果は確実にカップの底に体積していた。

「何か気にしてるでしょ?」

 と未伊那に訊ねられ、「エッ?」と我にかえる瑞名の瞳をくるくると回る湯気の螺旋が突く。

「何だか… いいのかなって…」

 会話こそ、形も広がりも位置も動きも事後的に、しかも不的確にしか見いだす事の出来ない量子論の卑近な実例に相違ない。うすぼんやりとした濃淡の一つ一つを解析出来たところで、それを含んだ大きなガス体のようなものの本質には届かないように、また大まかな形を措定したところで、そこには圧倒的に、具体的な何かが欠けているというように。会話に途中から割り込む事の難しさよ。だが同じ理屈で、割り込む事の何と簡単な事よ。

 彼女たちな一体何を思い、何を話していたのか。そろそろ真意を探ってみたいと思うのである。無論、時間はまた少々戻る。凪はまだ通常の凪である。ただ、彼女達の目前に置かれたカップから立ちのぼる湯気の軌跡は、わずかに、わずかに物理的定理から反していたのであるが…


「あなたは良くやっているわよ」

「でも、なんだかあんな風になってしまうと気の毒なような気がするの」

 トプンと沈めた銀の匙を回すと、光を奇妙に受けて粘度を増したモカマタリは、内部から発光した。それはまるで闇に希望を一閃させる灯台の明かりのようだった。黒光りする下方からの反射は、しかし彼女たちの顔に一抹の不安を浮かび上がらせる。未伊那が、がたりと椅子を寄せる。二人の距離はほとんどゼロになる。

「黄間締のことなんてなんとも思ってないわ。反省なんてしちゃ駄目よ。私たちはきちんと仕事をしているじゃないの。色々な障害が起こりうるというのは聞いていたことでしょ。それを排除しながら遂行せよっていうのが命令なんだから」

「あなたは!」

 ドシンとテーブルを叩いた瑞名のこの軽率な振る舞いに、未伊那は少し疲れた。しかし疲れたと言ってすませられる程、二人の関係は浅くはなかった。あの指令のあった日から、関わりつづけなければならない義務、それは共犯関係と呼ばれる物に似ていた。未伊那はアッサムティーをストレートで口に含み、その渋みを顔に少しだけ浮かべて言った。

「そりゃ、あなたは直接的な行動をしているから、衝撃も強いんだと思う。だけど、この件に関してはそれぞれが何をしたか、なんて問題じゃない。もし、もしもよ、この件が明るみに出て、何か面倒なことになった時にも、あなたの方が実行犯で私の方が従犯だ、なんて区別は無いの。うん。分かってる。そんな具体態な量刑の話じゃないのよね。でも、だからこそ、この事をしっかりと覚えておいて欲しいの。私達は同じ一つの事をしているだけ。役割なんて些細なことよ。そこで何をしたか、何をしなかったか、何て事はね」

 瑞名はモカマタリ風味の砂糖をドロリと流し込んで、眉を顰めた。

「そうね。馬鹿なこと考えてたわ。馬鹿な考えって甘ったるいのね」

「一口あげるから。口直しして」

 口の中がきゅっと引き締まるような渋みに、二人は同じように眉を顰め、顔を合わせて笑った。凪は暮れかけていた。仕事に戻る時間が近い。

『今日は何時に帰れるだろうか、とか仕事の後で何処へ行こうか、誰を誘おうか、近所でパーティーは無いだろうか。そんな類の事を取り沙汰できるのもあと数分のことだ。国家で定められた休憩時間に、こっそりと仕事の事を考えることほど馬鹿なことは無いのだ。だいたい、休憩の前後で会議の流れや決定に関する意見がころりと変化したりするのだから、継続して仕事を抱えている方が、かえって流れに付いていけなくなる恐れが大きいのだ、なんてこともう新人じゃないのだから分かっているはずだった。リフレッシュの後にも変わらない結論、なんてありはしなかった。いつだって営業課の連中は、常に新しく、常に刺激的である為になら、簡単に転向したっけ。原理などどこにも無い。主張なんて何もない。クライアントが目を丸くし、それから拍手喝采する企画さへ提案できればいいんだ。そのための仕事。それが会社だったのだから』

 瑞名芹はこの数秒間の青臭い考えを償う気持ちで、甘いモカマタリをドクドクと飲んだ。彼女はキャリアを望んではいなかった。

 この社に秘書課という独立した部門が無いという事に、最初は失望したが、それぞれの課に付いて、個人秘書的な仕事を任されるという今のやりかたに不満は無かった。課長が戦線から離れ、課長補佐工辞基我陣の秘書を担当せよとの辞令を受けた時にも、喜びしかなかった。前の課長の時にはあり得なかったセクハラも経験できた。聞いていた程、酷い経験ではなかったと思った。僚友、地媚真巳瑠が室田に受けた仕打ちに比べれば…


「地媚さん。可哀相だわ」

 自分の罪を飲み干した瑞名は、カップを静かに戻した時に立てたのと同じくらい静かな声で呟いた。いつの間にか少し椅子を離して、静かに渋いティーを飲んでいた未伊那は、「そうね」と言った。そして、瑞名の声と同じくらいの静けさで、話し始めた。

「本当に。そうよ。あの室田が出てくるっていうの、課長補佐も承知してたのに、まさかあいつ、秘書に地媚さんを指名するなんてね。補佐の思惑が外れてしまって、地媚さん気の毒だったわ。でも、いいのよ。あの人補佐のこと好きだって言ってたものね。冷蔵庫で上品に微笑んでいるところを補佐が見る… あの人きっと後悔するわね。本当に、お気の毒だと思うわ。もう一生、いえ一生なんて区切りは無いんだったわね、もうあの人には。永遠に、この会社があるかぎり、ずっとああして上品に微笑みつづけるんだわ。本当に可哀相にね」

 静かな声だった。しかし瑞名には耳を覆いたくなるほどの苦痛を与える声だった。課長がいて、課長補佐がいて、室田がいて、私たち三人は営業二課をきちんときりもりしてきた筈だった。営業担当はお世辞にも有能とは言えなかったけれども、充実した仕事が出来る職場だと思っていた。

 今、課長は入院中で、課長補佐はイフガメで、室田は地媚に報復人事を強いた。そんな中で、未伊那までもが笑みさえ浮かべて地媚さんを弔っていた。自分は手を汚さずに、三日間かかりきりで玩具みたいな物を作っていて、それで「みな同じ目的のために働いているのよ」などと言うのだ。

 瑞名の胸に、今はっきりとした疑念が根を下ろした。


『私たちは本当に同じ一つの目的のために働いているのだろうか?』


「未伊那さん」

 瑞名芹は、口紅を直しながら声をかけた。普段は控えている鮮やかすぎる赤いルージュが、この言葉を装飾してくれるだろうか?

「あなたのお仕事。もう殆ど完成しているみたいだけど、それも課長の指示だったの?」 

 瑞名の赤い質問は、未伊那の思索を確かに乱したようだった。まだ少しティーの残ったカップに顔を映していた未伊那は、ゆっくりと瑞名の方を向いた。揶揄するような笑みの残滓が、小鼻の当たりにまつろっていた。

「あら、瑞名さん。おかしなことを仰るのね。私の仕事がどうかして?」

「あなたのお仕事が、課長のお話の中の何処に関わってくるのか、私にはどうしても分からないものですから」

 瑞名はルージュを塗り重ねながら対抗する。ますます赤みがきつくなる唇と質問が、行き着くところを推測して話しを引き取るだけのゆとりは、もう無くなっていた。

「あなたには分からなくてよ。あの方の計画はそれはそれは遠大なものよ。私たち凡人にはその部分部分しか分からない。そんな事は当然じゃないの。私にだって実際、あのボール紙細工が何の役にたつのか分からないわ。課長補佐が戻るまでに完成させておく事。それだけよ。三日もかかりきりで、ようやく目処が付いたところなの。ケチを付けられる所なんて一つも無いわ。あなたはやっぱり、ひがんでいるのね。でも秘書がお茶を出す方が自然だっていうのは、三人で話し合って決めたはずよ」

 やっぱり何かあるんだ。と瑞名は考えた。普段は無口な未伊那がこんなにまくし立てるのはきっと、何かあるのだ。だがそれが何なのかをどうやって探っていけばいいのか、瑞名には分からなかった。取り合えず、未伊那のしていたことは、課長に報告しなくては、と瑞名は考えた。そして、この場はもうこれ以上詮索するのは止めようと決めた。

「あら。ごめんなさい。私やっぱり動揺していたみたいね。あなたのする仕事はそりゃいつだって完璧だったわ。私の仕事は、子供みたいな大人の世話ですものね。でも、間に合って本当によかったわ。おめでとう」

「何が?」

「あら。ご存じじゃないのね。そうね。私が連絡係だったんですものね。だけど大変でしたわね。いつが締切りか分からないでずっと作業なさっていたなんて」

「何? それじゃ、補佐戻ってくるわけ? いつよ。いつ戻るっていったのよ」

「今日の一時の飛行機で。ほとんどとんぼ返りだわね。でも本当に、今日が締切りだってしらなかったの?」

「予定では… いえいいの。それ確かなのね。どういう事で繰り上がったのか仰ってらした?」

「ええと、私の一存で、室田が地媚さんにしたことをお知らせいたしました。そしたら明日戻るとおっしゃって。本当にお優しい方ね」

「全く、お優しいわよ。計画はどうなんのよ。だいたいあなたもスタンドプレイ…」

「どうなっすったの? 未伊那さん。未伊那さん」

 未伊那は外見上の一切の動きを止めた。目は見開かれたまま、唇も、プレイのイの形のまま、苛立つように髪をかきあげた手と髪の形のまま、瞳だけが、針のように細くなっていた。猫のような目だと瑞名は思った。それから人間の目がそんな風になるなんて奇妙だと思った。だがその直後には、それがとてつもなく異常な事なのだと気づいた。

「未伊那さん。未伊那さん。どうなさったの。ちょっと。未伊那さん」

「触らないでッ!」

 瑞名が肩を揺すろうとした瞬間に、未伊那は叫んだ。瑞名は重厚なマンハッタンチェアを後方に思い切り飛ばして立ち上がった。だが、未伊那の表情は、いやそれだけでない、体そのものは、全く静止していた。ただ、唇の形だけが、!の形で止まっていた。恐る恐る瑞名は未伊那の腕に触れてみた。

「未伊那さん?」

 何も起こらなかった。ゼンマイが切れた人形のように、未伊那は静止していた。その瞳だけがかすかに拡縮していた。瑞名は誰かを呼ぼうと当たりを見渡した。幸い、新入りらしいバーテンがグラスを磨こうと背伸びをしているのが見えた。

「ちょっと…」

 と瑞名が手を上げた瞬間に、何かが目の前を横切っていき、上げた手を叩き落とされた。

「イタイ!」

 爛れたように赤い唇を尖らして、自分を叩いた者を睨み付けようと顔を上げたとき、隣にいたはずの未伊那の、エレガンスな後ろ姿が遠ざかっていくのが見えた。痛みの余韻が、未伊那の全力疾走と重なった。

「ちょっとお、未伊那さあーン!」

 素っ頓狂に張り上げた赤い声に、バーテンが引っ繰り返った。その直後だった。凪は恐ろしい勢いで、揺れはじめたのである。

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