第46話 田比地消失す

「田比地消失す」


 凪を飛び出す時、田比地は危うく1/fグリッドを逸脱しかけた。それは、微かなノイズとなって、凪全体に波紋を広げた。そこにいた全員がちょっとだけ静止し、一様に眉を潜めた。田比地は、激しい頭痛と耳鳴りとを振り切って、ギリギリでエレベーターを捕まえた。

「三点透視スキャンのデータ解析がまだじゃなかったか?」

 あの、ンリドルホスピタルでのスキャンの後、多々場の失態や、信じられないような状態での遺体発見、そしてその極秘搬送、さらに、何者かが遺体を運び去った事件、そして、真っ白な患者の失踪などがたてつづけに起こった。

 そして社に戻ってからは、イルカチャンの不正使用、さらなる死体の発見、脳複製データ解析、受付嬢の精神喪失なども追い打ちをかけた。

 田比地は、諜報部的活動に喜びを見いだしていたし、それには十二分に満足できた。だが、重要なのは、奪ったデータの解析だった。田比地は、取得したデータを、通常の通りに、技術部のオペレータに任せる事が出来なかった点を悔やんでいた。彼女たちならば、完全に客観的にデータを扱う事が出来たはずだった。

 だが、この任務は極秘だった。ならば、もう一度自分の手でデータの解析を行うしかない。だが、それだけのスペックを具えているのは、セントラルコンピューターだけであった。その使用には上司の許可が必要だったし、何よりもあと二十分間は政令で定められた休憩時間なのである。社内の全ての電力消費と館内電磁場計測装置によって、どこかで端末が操作されれば、たとえそれがスタンドアロンであっても、たちどころに走査されてしまうだろう。

 だが、今必要なのは、休憩が終了する二十分後に何をなすべきかを決定しておく為のデータなのである。院長と思われた遺体は泌尿器科部長千曲湛衛門であるらしいという。ならば、院長はどこにいったのか。あの時、怪しい救急車が運んでいった者こそが院長だったのだろうか。あのX線遮蔽布の死体バッグはそのための用心だったのだろうか。ああ、多々場。お前があのバンを見失ってさえいなければ…

 だが、それを言ってももう遅い。今出来ることは、ンリドルホスピタルの3−D透視マップを解析し、院内健康診断カルテデータの身体性質と照会してみる事だ。そのためには、電力電磁場計測装置の走査線密度が低い場所で、なおかつ、セントラルコンピュータか、それに準ずるシステムをハッキング出来る設備がある部屋を検索しなければならない。

 幸い、休憩中の社内に人影は無い。時折定期巡回する監視モニターの微弱な音が聞こえるだけだ。(それは天井裏の無軌限レ−ルをランダムに移動している)

 田比地は、サングラス脇のつまみを回して解像度を調整すると、ウエアブルPCからタイラカナル商事3−Dマップを読みだした。

 ンリドルホスピタルで用いた三点透視システムが出来上がったばかりの頃、モニターとしていろいろと試験していた田比地は、この会社そのもののマップを作ってみようと思い立った事があった。無論、中枢部分は超音波や赤外線、X線などを遮蔽する壁で覆われていたし、システム自体の精度も、当時はひどいものだったが、立体碁盤の升目を、等角投影法を知らない者がフリーハンドで書いてみた、くらいには使えるものだった。

 その後も田比地は、ちょっとしたスパイ気分で、そのマップにあらゆる情報をリンクさせていたのだ。

 間に合わせだが役には立つ。

 必要な条件を打ち込み、待つ事数秒、マップ上に赤で表示された条件適合箇所は、『営繕予備室』というタグがついていた。

「営繕課予備室? そんな部署あったかな?」

 場所は、何と営業二課のある階の北東である。田比地は、ここ数カ月の間で、建て増しなど無かったはずだが、と思いながら、記憶では袋小路になっている筈の一角へ急いだ。

 そこには、掃除用具ロッカー一つ分ほどしかない扉が確かに存在した。

 田比地は、一度はこの扉に手を掛けるのを躊躇ったが、意を決して中へ体を滑り込ませた。

 営繕課予備室は、まさに土木作業と電気配線、それに水道工事の全てを、途中で放り出したかのようなちらかり具合だった。床はでこぼこの捨てコンクリートのみで、天井からは配線やダクトがぶらぶらと垂れ下がっている。照明は白熱ランプが連なっているものだけで、どこからか水の音が響いていた。

 田比地は、この部屋を一目で気に入った。

 部屋の中央に、いやに大きなコンソールがあり、それはかなりの性能をもったコンピュータシステムであることが知れた。設備の全てを設計施工するための図面及び工程を作成する事が出来る、EPA−CADである。OS単体で立ち上げれば汎用機として活用出来る。田比地は、入り交じった配線からテレフォンジャックを見つけ出し、それを接続した。そこからいくつもの串を経て、次第に社のセントラルコンピューターへ接近していった。

 ンリドルのデータは、勤怠管理部へ送ってある。まずそのファイルをDLし、それからその技術部にある解析プログラムとリンクして、処理をしなくてはならない。電気は停電用バッテリーから盗み、携帯用電磁波メーターにレッドラインを設定した。

 ここからは、孤独なスパイの完璧な仕事ってやつを遂行しなければならないのだ。

 pass words_■

 勤怠管理部のデータを扱えるのは、管理職以上の者であり必ずIDが必要となる。

 だが社員のセキュリティー意識は、技術部を除いてはひどいもので、社員コードと同じにしている者がほとんどであった。技術部ではイルカチャンを延長使用した場合に必ず義務づけられるコード確認記録を盗聴し、一種のリストを作っていた。そのなかから、田比地は、昼行灯と言われているお飾りの人事部長のコードを使用し、難なく侵入できた。田比地は別段喜ぶ風もみせず、次の操作に移った。ファイル名の検索だ。ンリドルホスピタルのファイル名がリネームされているとすれば、見つけるのは厄介だったが、まずは、自分の付けた名前で検索をかける。と、意外にもそれは簡単に見つかった。

 nh3d

 だが、このファイルを開くにはさらにパスワードが設定されていたのである。それは、このファイルが個人使用データとして登録されているという事だ。田比地は、すぐにアルビヤのコードを打ち込まねばならなかった。しかし、今まで何の重要人物でも無かった一営業部員のアルビヤのコードなど、用意してはいなかった。田比地は再び人事部のコードを使って社員証検索リストに進入した。

 いくつかの部署関門があったが、その全てを田比地は短時間でクリアしていく。しかし、リストがずらずらとスクロールする中に目的に名前を見つけたとき、田比地の手がはたととまった。

 或比野文之「ヒナゲシ・カサブランカ・ゴルゴダ」

 アルビヤフミコレ「シュバルツ・ダビンチ・ダーガー」

 何か奇妙だった。これほど似た二つの名前は、昔の金融業者のブラックリストに載った者が別人として認識されるために名前の読みを偽る方法によく似ていた。アルビヤと或比野。田比地は、今日意識不明で病院に搬送されたという一人の社員の名前が或比野だった事を思い出した。そして、今自分に命令を下している男はアルビヤと呼ばれていた。だが、田比地は、いつからこのアルビヤという男を知っていただろうか?

 あれほどの切れ者が、何故いままで燻っていたのかと訝るのは二度目だった。しかし、今の疑念は、先のものよりももっと大きく、既に目の前にある解答を見るのが恐ろしいという理由で、疑念としてわだかまっているに過ぎないということを、田比地は認めざるをえなかった。

 田比地は汗を拭った。そして今は、この問題について思案している場合では無いと思いなおし、アルビヤの社員コードを打ち込んだ。

 結果は良好だった。ファイルはやはり圧縮されたまま保存されていた。多比地はDLを始め、それから技術部の解析プログラムへの接続を始めた。その時勤怠管理部オペレ−タ−地媚型端末は小さく「あっ」と喘いで俯いた。その姿態を見とがめた者は誰もいなかったが、地媚は頬を赤らめ、それから手を胸に当てて息を整えた。田比地はそれを知らない。とめどなく汗が流れた。電磁波計はレッドゾーンすれすれである。解析終了まで田比地はモニターの電源を落とした。

 それにしても、この営繕課予備室はスパイ活動にはおあつらえ向きのアジトだった。必要な回線にはすぐ進入できるし、監視モニターも、この部屋の天井裏へは入ってこられない。あらゆるダクトが脱出口となるし、何よりも、この部屋の存在そのものが殆ど知られていないのだ。田比地は、今後もこの部屋をいろいろと便利に使わせてもらおうと思った。

 解析終了のチャイムが柔らかく響いた。多比地は速やかに全ての外部接続を物理的に切断し、はやる気持ちを抑えてモニターを立ち上げた。が、そこに構築されたグリーンのワイヤーモデルは、xyzの各座標が目茶苦茶にこんがらがった毛糸玉のようにしか見えなかった。

 多比地は唖然とした。確かに、三点透視の定点としては極端に偏ってはいたが、その偏差も含めて、解析していたのだ。それを演算すれば、歪みは補正出来るはずだった。かつてタイラカナル商事をスキャンした時よりもひどく捩じれているなどということは、バージョンアップした製品に限ってあり得ない。しかも自分は、機器を扱うプロである。

 ファイルは、自分が圧縮した時のままアクセスされていないし、DLの途中でノイズが入るという事も考えられない。田比地は本能的に、このもつれた3Dモデルを手動で捩じり始めた。それは技術者としての美意識の発動であった。幸い、EPA−CADは、作図上のあらゆる操作に対応していた。ねじれの交点を探してそこを拡大すると、幾重にも重なったラインが見える。それを解きほぐしていくのである。奇妙な事に、ラインの一部を捩じりなおすと、それに連なる部分がビヨンと捩じれて基に戻っていくのだ。絡まった縄を解く作業に似ている。田比地は、交点を探しては、それをほぐすという作業に熱中していった。室温はどんどん上昇し、電磁波感知器はとうとうレッドゾーンを越えた。

「そんな馬鹿な…」

 田比地は、すっかり整理されたモニター上の構築物を見て息を飲んだ。そこに現れたのはンリドルホスピタルではない。それは、単純な直方体に還元されてしまったのである。一階も二階も地下も車止めも敷地の段差も無い。ただの直方体だ。田比地には、この事実が何を意味しているのか分からなかった。

「警告。休息違反発見。警備員は直ちに指定位置へ急行せよ」

 田比地はイヤホンから聞こえたその放送の意味もしばらく分からなかった。しかし、電磁波計を見てそれがレッドゾーンを越えている事を確認し、さらにもっと顕著な事には、室温が40度近くにまで上昇している事に気づいて愕然とした。一刻も早く離脱しなければならない。解析データを再び圧縮し、今度は串無しで直接勤怠管理部のアルビヤ個人フォルダへ転送する。これでもう紐が付いた、と多比地は思った。

 だが、今はここから逃れるのが先決だ。壁際へ走り外の様子をうかがおうとした時、多比地は、入ってきた扉が消失している事に気づいた。

「そんなことが…」

 壁は、どんなに目を凝らして、叩いても、継ぎ目一つ無かった。仕方なく空調ダクトの一つに多比地は飛び込んだ。数十メートルの落下のあと、落ちた先は同じ営繕課予備室だった。どのダクトも、どのパイプシャフトも、結局、この部屋に戻ってきてしまった。

「このままでは捕まる。そして諮問委員会に掛けられるのか… アルビヤさん。確かにこいつはヤバイ山だったぜ」

 田比地は観念した。

 しかし、それから何分たっても、自分を捕らえにくる警備員は現れなかった。

「どうしたんだ?」

 と多比地は不信に思った。が、それが意味することには、すぐに気づいたのである。

「誰も、この部屋に入ることが出来ないのだ…」

 記憶の中では袋小路だった部屋。スパイ活動にぴったりの穴場。営繕課予備室は、存在しない部屋だったのではないのか? では何故自分がここにいるのだ。そしてどうやって出ればいいのだ?

 今や自分は壁のなかの男となった。孤独に餓死する恐怖がひたひたと田比地を襲った。だが、田比地は実際的な人間だった。今や優先順位は、ここから生きて出ることが一番となった。会社を首になろうが、命をとられるよりはましだった。会社を離れても自分の技術力があればどこででも食っていけるという自負もあった。壁を破壊すれば出られるのだし、そのための道具はいくらでもここにはありそうだった。ならば、と田比地は腹を括った。

 タイラカナル商事の座標に無いこの部屋でも、ネット網は使用出来る。ここにじっくりと腰を据えて、捕まってもともとの大胆な方法で、データを解析してやろうじゃないか。途中で見つかっても外に出られれば儲け物だし、社内の中枢をハックしてみるのも面白いじゃないか。

 田比地は再びコンピューターを立ち上げた。それから今度は優雅に、キーボードの操作を始めたのであった。 (田比地消失 完)

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