第45話 院長の野望

「院長の野望」

 唯一残った鼻は懐かしい夏个の匂いを感じ取り、屹立した器官は吸い込まれるように凹部へ押し入った。そこは、まだ誰も知らぬ夏个の内部なのだと、院長は信じていた。

『もう自分に出来ることはこれしかないのだ』

 院長は腰をリズミカルに動かした。そうすることが、まるで古からの約束であったかのように、迷いのない律動だった。一連の思念が院長の脳裏を駆け抜けた。官能の昂りと共に、思いは祈りとなり、呪詛となった。

 『全ての変化は静寂の中で起こった。いや静寂という形容はこの場合当たってはいなかった。そう。そこにはいつもと変わらぬざわめきがあった。いつもと変わらぬ… あたかもそれは、盛夏の緑陰に降りしきる蝉時雨のような、また悠久の律動で水平線の彼方から届く潮騒のような、大都会の地下の一室に響く空調機のモーターのような、瞑想する自分の体内を流れる血潮の音のような、いつも変わらずに聞こえているためにかえってそれを音として聞く事を忘れてしまい、ある瞬間にふっと、我々の静寂がいかに多くの騒音で飽和していたかに気づいた瞬間に、脳を歪ませる無音の音圧に、私は悶え苦しんでいたような気がする。しかしそれは、やはり音であった。音とは時間であり変化だ。

 しかし、全ての変化…?

 私は再び、自身の声ならぬ呟きの一節、それも冒頭のもっとも重大な箇所で引っ掛かる。全ての変化とは、これは一体何だというのだろう。

 世界とは間断ない変化だ。あらゆるものが自己組織化される過程ではないか。変化の総体を知るのは、変化の終焉を迎えてからでなくてはならぬ。全てが自己組織化され「これ」とか「あれ」とか「それ」とか、君とか僕とか、昨日とか明日とか、そういった全ての差異が失われた世界。忌まわしい熱力学の法則に誓って、それは熱死世界に他ならないではないか。

 まあいい。その死の世界を待って始めて「全ての変化」を語る時空を持つ事が出来るだろうか?

 否。断じて否。

 もしその世界でそんな立地点を確保することが出来たとしたらそれはまだ変化の途中なのであって、全ての変化を語る者の存在のその変化をまだ語り尽くす事が出来ないでいる以上、それは全ての変化とは言いえないのだから。

 観察は許されない。誰も、全ての変化を語る事は出来ない。

 あたかも宇宙の始源がビッグバンだと言い切り、その前について一切を語らずにおく科学者の態度のように。それでいて、ビッグバンの瞬間に漸近していくことで、宇宙の始まりを語れるかのように振る舞う理論家達の苦悩は、遠くギリシアで「アキレスは亀に追いつけない」という命題によって既に言い当てられていたのではなかったろうか。

 誰も、その瞬間を手にする事は出来ず、無論それ以前についてなど、タブーとなされるべきである。

 それは謎ですらない。科学ではないのだから、と言って。

 曰く、宇宙の果て、曰く量子力学の向こう、曰く七次方程式の彼岸。それらはミステリーに見えるかもしれないが、それを求めるのは我々自身なのではなかったか。

 謎は全て解かれなければならず、その上でなお世界は謎に満ちていなければならない。

 この矛盾を生きる我々にとって、シンプルライフなど望むべくもなかろう。

 人はそれぞれの思惑をぶつけ合いながら暮らしていくしかないのだ。五十億の思惑を因果率で統御し歴史と成す?

 五十億の相互時空結節点の全てが歴史を作るのではない。では誰が取捨選択をするのか。その因果率を統御するのは一体誰だ。複雑さを求める我々の世界にあって、なぜ歴史だけは常に年表というシンプルな巻物に収斂させ得るのだろうか。歴史家は一体何兆億万人を殺したのだ? 歴史は終わりを記述することのできない物語にすぎないと、なぜ公表出来ないのか。歴史の終わりとは変化の総体を記述する事と同じである。しかし人は彼岸を求めるではないか。彼岸を求めながら永遠をも求める時、そこに円環形態が生ずるというわけか。

 そうだったね。ナポレオンの敗北によって歴史は終わったのだった。あとは限りない繰り返しを生きるのだというのだね。いわば贋の歴史を。

 贋の歴史? それはエゴだ。真の歴史こそが存在しないのだ。オリジナル亡き贋作。それが歴史ではなかったのか。水を求めて進軍する一列の芋虫がいつしかとめどもない輪となって死に耐えるまでぐるぐるぐるぐると回転し続ける様子を見た時、ああ、これは我々の行く末なのだろうなと思わずにはいられなかった。せめて、螺旋なら。高度の違いで温度や眺めも違ったろうに、結局、二次元の輪から逃れられないのかとの絶望を、我々は共有していた。

 厚底ブーツ? パラパラ? ピ−スアンドスマイルノードラッグフリーセックス

フォークブーム?

 一体今はいつなのだ。

 芸術までもが懐古的になりしかも時代を無視した継ぎ接ぎだけが新しいという。一つの体に違う時間を持ち込まれた移植内臓はDNAに於いてやはり異物のそしりを免れず、よって本体の免疫を不活性化させなければ到底、着床することは出来ない事を考える時、時代の免疫はもはや機能せず、かつて時が淘汰した俗悪なものどもを再び復活させかねない。過去を再消費して作られた現代はさらに改悪され改悪され、時代を奪われ、国境を奪われ、それでも個性だけは奪われないと信じる楽天的な若者達。

 それを煽るのは私の息子達の世代だろうか。

 老練で懐古的な若者たちよ。君達はそれは焼直しであることを知らない。だがそれを仕掛けた者にとっては確信犯なのだ。

 君達はもはや歴史に介入出来ない。グリグリと走り書きされる楕円のインクに塗れて、やがて歴史が描かれていた紙切れに穴が開く。

 穴だ。

 そこにマクスウェルの悪魔を召還せしむるものが果しているだろうか。時間とは音である変化である。一切は弦の振動である。その振動を自由に統御する悪魔共がコンチェルトを奏でる時、私は再び歴史に介入するだろう。

 出よ。目も口も耳も塞がれた私の最後の飛び道具だ。これは私自身だ。今の私はもはやダルマだった。しかし私の遺伝子は生き延びるだろう。

 夏个。これを守れ。これを育め。お前は空想の王の娘だ。そして私の母となるのだ。贋の歴史を正す悪魔の子。その時、私はンリドルホスピタルから始まる世界の覇者となるだろう…』

 だが、院長の遺伝子運搬組織は、行き止まりの無い、筒抜けの黄間締クンの直腸に突進し、そこにしばらく止まることが出来たに過ぎなかったのであった。

(院長の野望 完)

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