第43話 院長追憶

 理解出来ない渇きを荒く吐き出しながら、アルビヤは走っていた。

 これまで、自分が自分の主人でなかったことなど、一度も無かった。性衝動ですら、解き放つか、戒めるのかを決めていたのは、自分が培ってきた理性であるはずだった。

 「くそっ」

 アルビヤは、熊笹を蹴散らして急斜面を下っている自分の足を見た。肩に軽々と担いでいる茶屋の娘の身体の柔らかさ、暖かさに、股間が疼いていた。だが、静かだった。遠くの山並みは壮大な茜色の足元で優しく燻っている。休憩時間にグラススキーに興じていた連中が、隊列を組んで下っていくのが見えた。アルビヤの、向こう見ずに振りだす一足一足は、斜面のわずかな窪みや、草の根などの足掛かりを一寸も外さず、女一人分の重さを巧みに操りつつ、次の瞬間、また次の瞬間を、理解も判断も越えた感覚のみで乗り切っていった。血走る目、蠢く鼻、そして研ぎ澄まされた耳。ヒリつく喉を潤すために娘の口を吸い、額の汗を舐め取らせた。

 だが、これらを取りまとめている部分は、一体どこにあるのだろう?

 谷から吹き上がる風を心地よいと感じているアルビヤは、今、狂おしい欲望に尽き動かされて超人間的疾駆を続けている自らから、完全に無視されていたのである。

 アルビヤはまだ知らない。この欲動の原因を。それが、タイラカナル商事株式会社地下駐車場の、黄色いバンの荷物室に発していたのだという事実を。


 黄色いバンに放り込まれた黄間締君を、諸君は覚えておられるだろうか?

 物体Xと化した夏个に遭遇して壊れてしまった、哀れな営業三課の同僚を。彼を介抱してくれるはずの未伊那君の冷酷な仕打ちを。

 黄間締君にとって、これ以上悪い事があるだろうか? 

 ある。

 その黄色のバンは、透明物質夏个Xを排出し、夏个の顔を奪った香鳴が颯爽と降りてきたバンだった。そして、そのバンを捜査対象とすることのないまま、だらだらと続けられた警察の現場検証の間、スモークグラスに閉ざされた車内では、正気を無くした若者と、目、鼓膜、舌を無くした年寄りとが、二人きりにさせられていたのであった。言うまでもない、ンリドルホスピタルの院長、その人である。

 院長は革ベルトで胎児のような姿に括られたまま、スペアタイアスペースに押し込められていた。見えず、聞こえず、話せない、院長ではあったが、幸か不幸か、その外に全く障害は無かった。釜名見の作品デッサンを手中にしながらそれを奪えず、逆に自らの自由と、プライドとを完膚無きまでに奪い去られた院長は、絶望の淵で仰向く事すら出来ないでいたであろうか? ちがう。病院での凄惨な派閥争いに勝利し続けてきた院長は、朦朧の淵から意識を取り戻してからずっと、古いタイヤと排気ガスの匂いに中毒しかけながら、病室での事件を検討し始めていた。

 アルビヤという青年。夏个という看護婦。隊毛という青年。そして泌尿器科の千曲湛衛門。その全ての人間は、院長の目の中にあったはずだった。そして、釜名見煙…


「もうすぐここに作品18のデッサンがやってくるんだが」

 と釜名見の物憂い声が聞こえてきた。作品がやってくる、とは一体なんだ? と院長は尋ねた。カルテに何か書き込みながらの会話は、レシーバーを通していたので、同じ部屋にいたレジデントにすら聞き取れなかった。釜名見は、ガラスとカーテンに閉ざされた清潔なシーツの中から、くぐもった笑い声を返しただけだった。

「デッサンといっても、作品にかなり近いものだよ。もしかしたら、作品になりかわれるだけの素材かもしれない。私は少し、素材をいじってみたくなったんだ。久しぶりにね。空想は直截的に物質化しなければ、存在しないのと同じなんだからね。その物質化した空想をいじって、またあらたな空想が生じ、物質化される。この繰り返しはもちろん、より高次へのステップなどではない。現実は弁証法的には構成されてはいないのだから。君には分かるまい。西洋医学は弁証法そのものだからね」

「だが、あんたはここに来た」

 院長はあごひげを撫でながら静かに答えた。その間といい、声色といい、もう何べんも繰り返されてきたであろう慣れが、かすかな倦怠を纏わせていながら、決して投げやりではない会話だった。悪くない。全く悪くなかったはずなのだ。

「一度空っぽにしなくちゃならないんだ。ほら、看護婦がいるだろう。彼女にやらせてくれ。一人でな」

「夏个君か。だが彼女はまだ点滴だってろくに出来ないんだ。この間、尿道カテーテルは成功したらしいが… サポートしてやらなければ患者の血管を引きちぎってしまうかもしれない」

 院長は、釜名見に繋がれている沢山の配線を目で追い、最後にモニターを見つめた。釜名見煙は、完全に正常な精神及び肉体の元に、これらの言葉を発していた。

「だが、何をさせる? 空っぽにする、と言ったね」

「夏个は、大丈夫だ。自分がすべき事は分かっているんだ。私の所へ来た時から、この時の為にずっと教育してきた。いや、他の仕事をさぼらせていたわけじゃない。院長。私は芸術家だし、ここは居心地がいい。それは夏个がいろいろ世話をしてくれていたからに違いないんだ。その… 非常に示唆的だったよ」

 ポケットベルが鳴った。院長は反射的に液晶を見つめた。

「おっと、お客が来た。で、その作品とかデッサンとかいうのが来たら、君に連絡して、夏个君を呼べばいいんだな?」

「院長。夏个が全て了解している。私は今、誰にも会いたくないんだ。君の客にも、素材にもね」

 そして、院長は部屋を出たのだった。


 院長は灼熱の暗闇で、十分な酸素も無いまま、ずっと思い返し、考えていた。そんな状況でも、思い出される記憶の情景は鮮明で明るく、どんな細かな部分も手に取るようであった。そして、その記憶が現実に近づけば近づくほど、不鮮明な部分が際立ってきた。そうすると、これまで不思議とも思わなかったあらゆる部分に、疑念の余地が生じてきたのだった。

 あの時、釜名見は、確かに、あのベッドに、いたのだろうか?

 病院の事は、ガーゼの在庫数や、受付の生理周期まで知り尽くしていたはずだった。だが、夏个についてはどうだったろうか?

 自分は、夏个の身上書以外にの、何を知っていただろう?

 形成外科と、義体技工士に二股をかけていて、精神分析医と一緒にランチを食べ、外科手術の際には必ず医師に手術着や手袋を着けさせる為、手術室にいたこと。

 移植医の討論をうっとりと眺めていた事。

 目を離すとすぐに直腸診をしたがること。

 一体、看護婦の規律はどうなっていたのだろう?

 夏个に関して、この病院の規律は一切守られていなかったではないか。何故、そんな事が許されたのか?

  釜名見だ。

 あの高名な芸術家が、夏个の保証人になっていて、その保証人が収容されている個室ICUで、自分も寝泊まりしていたからだ。

 看護婦達は、夏个を同僚だとは認めてはいなかった。

 そもそも誰か、彼女の奔放な行動を見とがめた者がいただろうか?

 「何とかしてください」と訴え出た者があったろうか?

 夏个とは一体何者だったのだ?

 そして、千曲湛衛門だ。あの部屋に何の用事があって来たというのだ? 誰が知らせた? あの素晴らしく白い皮膚のサンプルを取らせて欲しい?

 そして、そんな皮膚を有する人間のDNAを調査する為に、夏个は何をした?

 私にもしたことがない腕前で、サンプルを採取したのではなかったろうか。

 私は何故、それを見とがめなかったのだ?

 いや、待て、私はあの時、個室ICUで釜名見から何を指示されたのだったろう…

 隊毛がやってくることは知っていた。

 あいつが釜名見とその作品とを奪おうとしていたことも知っていた。

 私は何といった?

 「遺作!」 遺作といったのか?

 だが何故、そんな風に言ったのだ?

 その数分前に、私は釜名見と話していたではないか。


 院長は、肌の粟立つような恐怖に襲われた。医大、インターン、レジデント、泌尿器科フェロー、そしてスタッフと、ただ一つの目的のために身体も魂も売り払って履歴と実績を積み重ね、先輩を立て、後輩を指導し、表と裏とを自在に使い分け、泌尿器科部長千曲湛衛門の推薦をかち得て、理事達との派閥抗争にも勝利し続け、恩人だった千曲をも、ギブアンドテイクの貸し借り無しと突っぱねて、一般医に格下げしさえした。

 院長にとって、現実とは、全て理性の元に明るく、外界の混沌から鋭角に分離されたこの公明正大なンリドルホスピタルの内にあって、自分の理解の及ばない事が、些細な、とは言えない所で、連鎖的に発生していたのだった。それは何時始まり何時終わるのか知れない病巣である。早期発見早期治療が絶対に必要だったのだ。病院自身を定期的に検診し、その些細なデータの変動にすら気を配ってきた自分の目から、何故これほど大きな障害が隠されてきたのだろう。また、こんな事がまかり通っている今の病院には、他のありとあらゆる障害が発症し進行しているに違いないのだ。

 災い転じて福となす、だ。骨折の治療に来て、骨肉腫を発見するように、風邪薬を貰いにきて、釜状ヘモグロビンが見つかるように、この事件から大病の診断が下されたのだと思えば、まだチャンスはある…

 院長の明晰で理論的な頭脳は、過去のさまざまな苦境時のデータを的確に統合整理し、成すべきプランの概略をまとめあげた。

 問題点ははっきりしていた。そこから波及的に因果関係と、相関関係をピックアップしていけば、速やかな解毒治療が行えるのだ。

 フル回転した頭脳がようやく動きを緩めた。顔面に流れた汗が渇きかけ、痒くなってきた。手を上げてかこうとした。ごく自然に。だが、顔はいつまでも痒いままだった。

 院長は、自分が置かれている立場を思い出した。あれほど明確に見えていた世界が、今は闇のなかであった。どの棚にリドカインが入っていて、その残量まではっきりと分かっていた世界が、今、自分がどんな姿勢でどこに押し込まれているのかすら分からない混沌に落ち込んでいた。院長は恐慌状態になった。しかし声は出なかった。外界からデータを集めようとした。だが何も見えず何も聞こえなかった。次第に意識が薄れていった。先程まとめあげたダイアグラムも、鮮明だった記憶も、消えていった。

「世界は無秩序だ…」

 院長の理性が最期の警鐘を打ち鳴らし、それからまた静かな混沌の淵に、院長の意識は飲み込まれていった。妄想も幻覚すらも結ぶことのない落ち窪んだ瞼が、ペリカンのくちばしのように膨らんだ。失われた眼球の窪地に溜まった涙が、血と混じって頬を伝った。それは血の匂いがした。

 

 匂い……


 ドカンという衝撃。バタンという衝撃。それからドスンという圧迫感が続き、遠くでガチャンという音が響いた。

 

 匂い……

 

 院長は、自分のすぐ上に現れた物体の匂いに気づいた。懐かしい匂いだった。匂いは記憶の時空へ院長の精神をトリップさせた。


「夏个!」

 院長は唇を歪め、目を見開いた。緋色の涙が顔を染め上げた。革バンドが弾け飛んだ。そして、院長はあお向けの蜘蛛のように手足を絡ませた。相手は何の抵抗もしなかった。明晰な頭脳も、世間の常識も、対面も、お天道様も、ここでは無意味だった。

「会いたかった会いたかったみんなが僕をいじめるんだ助けてよこのやろうどこにいっていたねえお願いだよ母さん母さんじゃないだろ裏切り者助けてよ久しぶりに凄いのやりたいなねえうらぎらないでよなんとかしてくれるよねもう大丈夫だよね楽しませてくれよヒイヒイいわせてやる」

  

 上になり下になり、狭いバンの荷台スペースを転がりまわる二人の男。まさにこの頃だったのである。アルビヤが走り始めたのは…

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る