第22話 ゴルフバッグ

 私は全身に路面からの振動を感じていました。窮屈に身体を折り曲げられ、尻をちくちくとつつかれながら、自分の太股の間にぴったりと挟まれた性器に絶え間なく刺激を与えられているうち、どうやら私は興奮状態になっていたのでした。したたる汗のぬめり、朦朧とする意識。振動は微妙にポイントをずらし、じらされる私の心には次第に、性欲を満たしたいという野性の衝動が蘇りつつあったのです。

 車体が大きくバウンドしました。橋を渡っているようだ。と私は思いました。そして、そう思う私が意外に冷静なことに気づいて、妙な気持ちになりました。股間はむず痒いような、切ないような、切迫したじれったさの頂点でした。にもかかわらず、私は今、橋を渡っているなと冷静に判断し、しかもその橋が、懐かしいタイラカナル商事へ北から向かうときに渡る、サイサイ橋であるということまで、確信していたのです。

 橋を越えると、会社まではあと二ブロック足らずです。橋の継ぎ手の間隔を越えるタイヤの規則的な振動から換算して、車は約時速40キロの低速運転をしています。この橋を越えるのに時速40キロしか出せない状態というのは、車の流入が多い時間帯だけです。朝10時。午前の商談に設定される頻度が最も高い時間が朝10時でした。この町唯一のオフィスブロックに向かう道路が混雑する時間帯は、朝9時30分前後でしょう。90分の遅刻だ、と私は思いました。と、再び大きな振動が起こり、私はトランクの中でかるく宙に浮かび、それからどさりと落ちました。その時でした。固い棒状の物が、私の底の部分の、ちょどバンドが回っている真下あたりに当たって、ぐいと押しつけられたのです。声にならない声、全身の痙攣とともに、私の野性は急速に衰えていったのです。

「だいたい、何処へ向かっているのかもしれないんだ。なんてことだ。昨日(だと思うけど確証は無い)から私の知らないところでいろいろな人達が同じ一つのゲ−ムを始めているみたいだ。宝探しだろうか。課長補佐のおかしな意地悪から始まったんだ。課長補佐もこのゲ−ムに参加したかったんだろうか。黄間締君は宝探しにつきものの、いわく付きの暗号、のつもりであんなメモの残しかたをしたんだろうか。隊毛頭象は、私を案内してくれているわけじゃなくて、私を手元に置いておきたかっただけなんだろうな。今、この運転手が隊毛を出し抜いて私を手に入れた。どう考えても、争奪戦の目的は私なのじゃないだろうか。関係者が多すぎる。瑞名君がいれてくれたお茶といい、妙によそよしかった未伊那君といい、病院の院長といい、あの看護婦といい…。

 そういえば、あの待合室で、看護婦の傍らにいた男は誰だったんだろう。先生と呼んでいたが。あの看護婦は、精神的苦痛を感じなかったのだろうか。ああ、それからキオラ画廊が二つある、というのはどういうことなんだろう。殺人にはどんな意味があったんだろう。

 分からない事ばかりだ。お父さんも何か関係があるんだろうか。まさかな。ずっと入院している、あの人の事だけは偶然だろう」

 路面がよくなり、振動が減ったので、私は野性の呼び声に煩わされる事なく、思考に没頭できました。でもそれだって、何の意味も無いことなのです。材料が少なすぎるのです。関係者は多すぎるくせにです。少ない材料で事実を推理するのは百害あって一理無しだと、密偵講座の教材に書いてありましたっけ。あれはどうして受講したんだったか… もう忘れてしまいましたが、いずれ、このトランクが開かれれば、何らかの材料が集まってくる事でしょう。いきなり、キュと締められるなんて事さえなければ……

 車が左に曲がりました。そして下り坂に入ったようです。突然、突き上げるような振動がひっきりなしに始まりました。いえ、左に曲がったのではありません。旋回しているのです。ぐるぐるぐると左巻きに、いつまでも下っていくようです。私はトランクの後部に背中を押しつけられていました。そしてトランクの奥から、縛られた私と同じくらいの大きさの何かが飛び出してきて、私によりかかってきたのです。

 いえ、それがゴルフバッグだといいうことはすぐに分かりました。けれども、この暖かな革の感触、内部でかちゃかちゃと音をたてるフルセット(でしょう、多分)のクラブ達の微妙な振動が、優しく伝わってくるのです。

「ごめんなさい。重たいでしょう。ごめんなさい。重たいでしょう」

 熱心に謝りながら、自分の身体が見ず知らずの男の素肌に押しつけられてしまっているという事実に恥じらう清楚なゴルフバック…

「馬鹿な。これはただのゴルフバックじゃないか」

 しかし、再び私の野性はむくむくと頭をもたげてきたのでした。このゴルフバックだって、忘れ去られる程前から、このトランクルームに押し込められていたのに違いないのです。ああ、それは未来の私なのかもしれないのです。

 ぬらぬらとした汗のせいでしょうか、あれほどきつく締めつけていたバンドが、にゅるりと身体から外れました。私は、たまらなくなって、ゴルフバックを思い切り抱き寄せ足をからめました。スパイクをいれるポケットが、股間にぴったりと重なり、指先は、自然とショルダーストラップを止めるリベットをつまんでいました。ゴルフバックは抑制のきいた弾力で私の愛撫にこたえました。次第に大胆になる自分を押し止める物は何もなく、ボールをころころと手のなかで転がしてみたり、たくさんのティーの中で指をぶるぶると震わせてみたりするうちに、とうとうジッパーに手をかけて、ゴルバックの内側へと、指を入れてしまいました。そこには、たくさんのクラブが無抵抗のまま、固く横たわっていました。

 七番アイアンのシャープなエッジ、一番ウッドのたおやかな曲線。クラブシャフトの素晴らしいしなりを堪能しながら、ゆっくと指を滑りらせ、そっとグリップを握りしめた時の微かな抵抗は、「つい、力が入ってしまったの。だってこわいんだもの」とでも言うようなウブさ加減で、大きく息をはきながら、幾度も、「大丈夫よね。大丈夫」と小さく呟いているかのようなゴルフクラブの健気さに、私はかえって、もっと乱暴に彼女を蹂躪したいという獣の欲望に駆り立てられていくようでした。

 私は全てのクラブを身体の回りに寄り添わせ、自分の身体を半ばゴルフバックに突っ込みながら、激しく腰を動かしていたのです。もう少し。もう少しで、ゴルフバックと私との間に何か神聖な関係が完成していたのです。ああ、最後の瞬間でした。トランクが開かれ、ギラギラとした水銀灯の光の下、呆れ果てたような男に見下ろされたまま、私は、無様な麻痺の時を迎えてしまったのでした。何よりも不憫なのは、私の欲望に汚され、それを他人に(いやもしかしたら主人に)見つかってしまったゴルフバックの方だったのかもしれません。

 そのとき私には、羞恥よりもむしろ怒りがこみあげたのでした。男は今にも笑いだしそうな表情になっていました。私は彼の表情筋とシャツ越しに見える腹筋のかすかな震えと、肩の上がり具合と、横隔膜のしなり具合から、彼の感情を類推できたのです。

 ―笑われたら終わりだ。私も、私のゴルフバックも、一生、後ろ指をさされて暮らすことになるのだ

 それは理屈で考えた結論ではありませんでした。笑うための最後の息を思い切り吸い込んだ男のこめかみを、メタルヘッドのドライバーで撃ち抜きました。「キン」とい甲高い音を残して、男はカラーボールのような赤い霧状のものを吹き出させながら、ごろりと床に転がりました。トップしたのです。最愛のドライバーの最初のショットはミスショットでした。「始めての時は、誰だってそういうものだわ。それにスモークボールじゃ、飛ばなくて当たり前なのよ」ドライバーはそんな風に優しくにじむような青白い光を、投げ返してくれました」

「で、ここはどこだ!」

 私はトランクから飛び下りました。足裏に、男の身体が横たわっていました。私はバランスを崩し、開いているトランクの蓋に手をかけてしまいました。ボフン、という音が辺りに響き、トランクは閉ざされてしまいました。私は慌てて、取り残されたままのゴルフバックと数十本のクラブに呼びかけました。鍵でトランクを開ければよかったのですが、気が動転していたのです。おまけに、バラバラという足跡が近づいてくるではありませんか。今の音のせいか、そもそもこの車がこの建物に進入した事事態が不味かったのかは分かりません。

 男の手から鍵を奪い取る暇もなく、私は、唯一手元に残っていたドライバーを握りしめて、その場から逃げだすことしか出来なかったのです。

 この白い身体が、水銀灯の光の中では保護色になったようでした。振り返ると、青い制服の屈強そうな男が三人、倒れた男の回りに集まっていたのです。

 と、そこに館内放送が流れる前のチャイムがこだましたのです。このチャイムには聞き覚えがありました。

 まさか、チャイムなんてどこも同じような物を使っているのだから、と気を落ちつかせようとしたのですが、放送の内容は私の疑念を最悪の形で裏付ける事となったのでした。


「ピンポンポンピン 営業部の或日野文之、営業部の或日野文之、出社後は速やかにタイムカードを押すように。既に規定の出社時間は過ぎています。営業部の或日野文之。速やかにタイムカードをおし、総務部勤怠管理課まで出頭するように。五分で出頭しない場合は、警邏隊に捜索させることとなります。以上」


 しばらく聞くことの無かった「非情」放送でした。

 勤怠管理システムでは、社員が社内に入った時点で、タイムカード使用待機中となり、ランプは黄色となります。そしてタイムカードをおすと出社確認の緑ランプとなるのです。つまり、私は社内にいるのです。ここは、タイラカナル商事の地下駐車場だったのです。車をもたない私は、営業のときは、いつもバスか電車をつかい、どうしても車をつかう場合には、黄間締君に運転してもらうのです。彼は地下駐車場から車をまわして正面玄関で待つ私を拾っていくのです。私は車をもっていないので、地下駐車場がどうなっているのかを知らなかったのです。

 どうすればいいでしょう。この姿で、誰が味方かもわからないままで、一体これから、どうすれば事態を収拾することが出来るというのでしょう?

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