第23話 出勤

 止まったままの車に警備員が駆けつけてきました。私は壁の反対側にある階段を目前に、柱の陰から出られないまま、その様子を見ていました。

「隙あらば…」と思うだけの冷静さなどではありませんでした。「暴行、もしかしたら殺人犯にされてしまう可能性」に対する恐怖に、足がすくんでいたのだというほうが、正解なのでした。

 警備員の一人が詰所へ向かって駆け出したようでした。残った3人の警備員は、倒れている運転手の肩をゆすったり、ポケットの中を探ったり、車中を確認しようとしたりしていました。

「今なら、あの階段に取り付けるっ」

 と判断した私は、息を詰め、体を精一杯縮めて、持っている瞬発力の全てを爆発させようとしました。

 が、「さあ、今!」という瞬間、昏倒していたはずの運転手の目が、ぎろり、と私を見据えたのです。爆発させられなかった瞬発力は、はけ口を失って暴走しかけて、私はとっさに、傍らのスプクリンクラー弁にしがみついてしまったのです。どういう構造なのかは知りませんが、そんなことぐらいで、一斉に散水が始めるなんて、知らなかったのです。

 けたたましくブザーが鳴り響き、警備員たちは浮き足立って棒立ちになりました。その瞬間を運転手は見逃しませんでした。弾け飛ぶように起きあがると、警備員がそのことに気付くよりも早く、次々と彼らの下腹部に拳をめりこませていったのです。

 不意をつかれた警備員達は、ばたばたと倒れて行きました。もう一人、詰所から戻りかけていた警備員が、慌てて呼子をくわえて、思いきり吹き鳴らし… いや、顔をまんまるく膨らませて真っ赤になっているというのに、呼子は全く音をたてなかったのでした。運転手の手刀が、その警備員の頚椎をなぎ払うと、ようやく、呼子は弱弱しくピイと鳴りました。私はその音を、背後に聞いたのです。男が最後の警備員に襲いかかった瞬間、私は駆け出していたのでした。そして、階段を上りかけていたのです。

 とりあえず、大成功だと思いました。

 車はタイヤの軋みを残して走り去ったようでした。倒された警備員のことは気になりましたが、私はあそこに退き返すわけにはいかないと思いました。心の中でくどくどと謝りながら、階段を上るしかなかったのです。

 ああ、しかし、息をつく暇はないのです。私は会社にいるのです。いっそ、どこか知らないところだったら、新手のストリーキングだと言いぬけることも出来たかもしれないのですが、ここでは、通用しないでしょう。全身剃毛の白塗りが、ほとんど全裸で9番アイアンを握り締めているのですから。私の言う事なんて、きっと誰も信じてはくれないに決まっています。にもかかわらず、私は私として認識されてしまうのです。

 それに、総務部勤怠管理課に出頭しなければ、私は永遠にこの会社に飼い殺しにされるのです。

 労働の証しが社員登録であり、社員登録の無い人間は、他のいかなるソーシャルサービスをも受けられません。働かざる者を養うだけのゆとりは、今のこの社会には残されていないのです。

 首にされた人間を雇ってくれる会社はどこにもありませんし、自営は世襲でしか認められていません。

 私は、奇妙な選択を迫られていたのでした。

 つまり、総務部勤怠管理室へ出向いて、この遅刻が業務上の必然であり、しかもこのような体にされてしまったのも業務上の事故であるから、労災認定を請求する。もしくは、このまま出頭せず会社を首になり、誰か、実家で自営業をしている女性と結婚して、その家業を継ぐ。もしくは、自営業の家に養子縁組をしてもらう。のいづれかしかないのです。

 こんな時代に「芸術家」として認定され、生活している釜名見煙氏の偉大さを、私は改めて感じます。モラトリアムを主張する事は、犯罪だというこの社会で、はっきりいって、無価値のものに付加価値をつけるという詐欺のような真似を当局に認定させることが出来るなんて、それは確かにものすごい才能です。

 「空想技術?」そんなものあるはずがない。それは、職に就けない堕落した人間の『堕落道』を極めた結果、生じた方便にすぎないのだと、私は思いました。いうなれば、空想技師とは、堕落師なのです。その堕落があまりにも徹底していて悪びれるところなく、時代の空気にちょっとだけ適合した結果、堕落は堕落とは見なされず、無職は無職と見なされず、インチキ工作で生活できるだけの金銭を得る事ができるのです。

 私には駄目です。持っていたアイアンが、突然、耐えようも無く重いものに感じられ、静かに落下していきました。目の前には、社内へ通ずる防火扉が、真っ白に立ちはだかっています。

 私は駄目です。事勿れ主義で、言われたことをきちんとこなしていくことが私のとりうる唯一の処世術だったのです。出頭しなければ、私は生活の基盤を失うことになります。扉をわずかに押し開けて、廊下の様子を窺ってみました。幸い人気はありません。右へいけばトイレと倉庫。左へいけばエントランスホールです。私はまずトイレへ向かいました。便意も尿意も全くありませんでした。それでもいきなり天窓からの光に満ち溢れたホールへ出て行く勇気はありません。

 トイレの流しで顔を洗いました。鏡の中には白い私が立っています。裸… 私は裸だったのでした。さきほど、ほとんど全裸だと思ったのは勘違いでした。私はまったくの全裸だったのです。これでは社内は歩けません。

 就業規則にいわく、就労に適さない服装の禁止。さらにいわく、風紀衛生上好ましくない行為の禁止。訓告だけでは済まないのです。遅刻、社内への不審滞在がくわわったら、私は完全に首です。

 もう、時間が無い。と、途方にくれている私が映し出されている鏡の中にずらりとならんでいるトイレの扉が、突如としてギーと開き始めたのが見えました。躊躇してはいられません。私は開きかけた扉を外から思い切り蹴り付けました。内開きの扉なので、中にいた人はひとたまりもなく、額をドアで、後頭部を個室内の壁に、したたかに打ちつけてうめき声をあげています。

 私はすかさず個室に押し入って中から鍵をかけると、盛大に水を流して、中で起こる物音を消したのです。具合よく、男は中肉中背で、社員ではなく、出入りの業者のようでした。

「人の服を脱がせて着るのは、これで二度目だ」

 私はその男の服を身につけ、裸になった男の体にトイレットペーパーを巻きつけました。何故そんなことをしたのかは分かりませんが、予備のロールまで使いきって、きっちりと頭の先まで巻いたのです。

 さあ、これで服装はととのいました。帽子が無いのが難点ですが、一応、平然とした態度さえしていれば大丈夫でしょう。

 私はトイレを出て、堂々とエントランスホールを横切りました。驚いたことに、正面の車寄せには数台のパトカーが回転灯を回して止まっていました。一瞬、私の歩みが乱れかけました。しかし、きっと地下駐車場の関係でしょう。私は意識して胸をはり、どうどうと廊下を歩いて行くと、総務部カウンターに肱をついて、威圧的な態度できめてみました。

「或日野文之だけど。何か問題ある?」

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