第20話 夏个静ノ

「なんだね君達。突っ立ってないで、とっととあの盗人を追いかけないか」

 狼狽している院長を一瞥した隊毛は、廊下に通ずる扉を静かに閉め、壁際の香鳴と顔を見合せて笑みを浮かべた。

「といいますと?」

「院長。あれが釜名見煙だと、仰るおつもりじゃないでしょうね?」

 香鳴は黒髪をかきあげて、筋組織の剥き出しになった顔で院長を見つめた。院長は、身悶えし、地団太を踏みながら二人に叫んだ。

「いや、本人ではなかったっ! それは認める。あれは、先生の遺作だったのだ!」

「遺作だと?」

 この言葉に、今までの鷹揚さはどこへやら、隊毛は院長の首に肱を回し、先程まで或日野が固定されていたベッドへ引きずり倒すと、馬乗りになった。香鳴は壁際から一歩踏み出し、脇目も振らず部屋の掃除をする看護婦、夏个の傍らに腰をかがめた。

 顔の無い香鳴の正視を、夏个はごく普通に受け留めた。そういえば、隊毛もそうだった。まるで、普通に接している。

「大丈夫だった?」

「はい。兄さんはきっと無事で戻ります」

 夏个は、飛び散るガラス片を、薄いゴム手袋を嵌めた手で摘みながら、事も無げに言う。香鳴はその唐突な告白に目を丸くした。

「兄? お兄さん? あなたそうと知っていて、あんなひどいことをしていたの?」

 状況の変化を察知した隊毛は、院長のあちこちを緊縛していた手を休めて、香鳴達を見た。

「何です? 彼女もグルなんですか?」

 香鳴は答えようとした。だがそれを制して夏个が答えた。

「そんなんじゃありません。あら院長。まるで兄みたいに、拘束されたものですのね。これじゃ、本当のことを白状なさってしまうのではないかしら?」

「黙れ。恩を忘れおって…」

 院長は裸の上に白衣だけをふうわりと被せられて、しかもその裾は胸までめくり上げられた格好で、先程の或日野を丁度裏返したような姿勢で固定されていた。夏个はそんな院長を、ワセリンのチューブでも見るような目で見ている。そして、隊毛と香鳴に向かって、平然と質問を繰り出した。

「あの、あなたがたは一体どういう関係の方々なのですか?」

 その落ち着きようは、かえって、隊毛の方を動揺させた。もちろん、それは屈辱的な気後れであった。隊毛は一つ咳払いをしてから答えた。

「あ。私はキオラ画廊の画廊主で隊毛頭象です。こちらは、世界的な釜名見煙の批評家の平喇香鳴女史です。」

「几螺果巳の編集長というほうが、まだ一般に受けると思いますけど」

 『几螺果巳』と聞いて、夏个の目が輝いた。

「まあ。あの! 私、大ファンですの。特に、今月号の「釜名見煙の世界末展覧会」は、興味深く拝読いたしましたわ!」

 隊毛はその言葉に唖然とした。香鳴もはっと顔を挙げた。二人の視線は夏个のふくよかな腰回りに固着した。その時、院長が苛立った声を上げた。

 異常な状況に置かれている院長は、自分こそが、当然、この場の主役だと疑っていなかった。そしてそういう立場であるからには、様々な苦痛を与えられながらも、この場を支配できると信じていた。にもかかわらず、主役は夏个に移行しつつあった。それを我慢できるはずはなかった。

「わたしをどうするつもりだ。こんなことをしてただですむと…」

 それが院長の最後の叫びだとなった。あろうことか、院長は、夏个の職業的な手技により、眼と耳と声とを奪われてしまったのである。それはごく自然な流れの中で行われたため、隊毛と香鳴は、何がなされたのかを目撃していながら、そこに何の不審も、感じなかったのである。

「まだ、今月号は発売されていないんだが…」

「でも、特集はあなたの言うとおりの内容で進行中なのよ。これは一体? 」

「どういう事か説明してもらえるかな」

 夏个は赤く染まったゴム手袋をパチパチと慣らしながら、眼球二個と、舌と声帯、それから二枚の鼓膜を左手に握り込み、手袋を裏返して外した。摘出物は手袋の裏側に収まり、それはただの生ゴミにしか見えなかった。

「さあ、私はただ見たんです。それで、父に教えてあげたんです。釜名見煙の特集ですよって」

「いつのことです?」

「さあ。今朝かしら。そう。兄が来て、私、兄にも教えてあげようと思ったんですもの。こんなに有名な人が、この病院のICUにいるのよって。あたしの写真も掲載されてました。私、先生のお手伝いもしていましたから。こんなに名誉な事はありません」

「だが、院長はここにあったあの白いやつを釜名見煙だと言っていた」

「ええ。でも、あなた方は誤魔化せなかった。だから、その遺作だと告白したのです。なにしろ院長は、芸術を投機の対象としか見ていませんから」

「でも、あれはあなたの兄さんなんでしょう?」

 香鳴はそう言って、気を落ちつけるかのように窓の方へ視線を投げかけた。だが窓の前のベッドには、すっかり静かになった院長の、高く掲げられた剥き出しの尻があった。香鳴は、何の感興もないまま、弛緩した中央の穴に人差し指を突き入れた。括約筋は大慌てで香鳴の指を締めつけた。生きている者の反応と全く変わらなかった。それは幼い狼狽の感触で、院長が外部で起こっている何事をも知ることが出来ない状態にいるということを現していた。

 香鳴は小さく舌打ちをすると、隊毛に首を振ってみせた。

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