第19話 ブレインストーム
なまあたたかくぬめらかなもの、ちょうどナメクジが這い回っているような感覚と、むず痒さで、私は腰をひくつかせてしまいました。
「喜んでおるわ。ははは」
そんな下劣な冗談に笑う人間は一人もいませんでした。あきらかに彼は、この一群の中で浮いていました。それにしても、一体何をしているのでしょうか。スキンといえば、私は経験がありませんが、聞いたことだけはある、あの「スキン」のことでしょうか。にしては、この一体感はどうでしょう。まるで自分の皮のようです。
「香鳴さん。試してごらんになりますか? 」
「結構よ。もうデータははっきりしているもの」
「じゃあ、やはり…」
聞き覚えのある声がしました。隊毛です。そしてカナリと呼ばれている女の声は、たしかにあの夜、私を散々弄び、そうして私が蹂躪した、あの平喇香鳴の声です。
私は、彼女の顔を確かめてみたいと思いました。ところが、今度は目が開かなくなっているのです。いや、瞼は開くのですが、何ものかに遮られていて、何も見えないのです。いや、真っ暗な空間に、赤、黄色、緑、青の光の粒が、きまぐれに浮かんでいるのです。
「ブレインストームだ! 」
私は悟りました。以前、通信販売で手にいれた、脳波制御訓練装置によく似ていたのです。私のこの温厚な性格はこの機械によって確立したのだといっても過言ではないのです。それまでの私ときたら…… いや、今はそんな追憶に浸っている時ではありません。平喇香鳴は生きていた。とすれば、私が殺人の疑いをかけらる謂われはなくなります。たとえ人道的に見て、ひどい怪我をした人をほったらかして、いや、その状況を利用して、彼女を強姦した罪があるといわれても、一方で私は、彼女の殺人を目撃しているのです。さらに彼女は、私があの夜、キオラ画廊のパーティーに陳列されていたことを知っているのです。
隊毛氏は彼女と知己らしい。それはそうでしょう。師匠の作品の評論で世に出た女流批評家なのです。当然、一番弟子であるらしい隊毛氏を知らないはずはないのです。
となれば、すでに隊毛氏は、私が釜名見煙作品ナンバー18だったということを知っているはずです。例えばあのパーティーが誰かの、例えば骸骨が仕組んだペテンだったとしても、その場には香鳴さんがいたのですから、そこに隊毛氏がいなかったと、どうしていえるでしょうか。
私はあの場に、この精悍な雪豹のような男がいたかどうかを思い出そうとしました。敏捷な身のこなし、洗練された物腰。そして、邪悪な光をたたえた瞳……
「アッ」
私は思わず声を上げそうになりました。が、声は出ません。
突然、目の前に一千万発の花火がいっせいに弾けたようになり、きな臭い匂いが脳樟からただよってきました。
あの夜、隊毛氏はあそこにいた。彼だって贋作や、邪な気持ちで煙の作品をいじくりまわす輩を許せるはずはない。とすれば、首謀者たる骸骨を殺害する動機は十分です。しかし、実際手を下したのは香鳴さんでした。そしてその後、私の背後から飛び出していった人間弾丸。
そうです。隊毛氏程の人物が、あの場に紛れこんでいて何の働きもせずに立ち去るはずはなく、香鳴さんの大胆な行動に目を光らせていなかったはずはないのです。
はんだごてとラジオペンチとが、一体何を意味するのかは分かりません。それに何故、同志であるはずの香鳴さんの顔を盗んでいったのかも分かりません。もしかしたら、香鳴さんの犯罪を隠蔽するための芝居だったのかもしれない。とすれば、あの場にいた私の立場はあいかわらず、危険なものに変わりはないのでした。
いくつかの軽業的飛躍と推論とで作り上げた仮説は、彼ら二人は私を救ってくれるどころか、かえって私に罪を被せる同盟を結んでいるのだ、というものだったのです。
でもだけど、これはまだ不完全すぎる推論でした。これが正しいと、涙ながらに認めたとしても、そもそも、私をこんな状況に追いやったのは誰だったのか?
骸骨? 違います。彼はそういうタイプの人間ではなかった。それは、読顔術から明らかなのです。私は会社で意識を失いました。とするとやはり、あのお茶、そしてどうあっても、あの伝言の真意を確かめなくてはならないのです。
「会社にいかなければならない。真実はあそこから奇妙な枝道へ入り込んでいってしまっているんだ。会社へ」
「先生。ブラディーです」
「塩酸ナトリウム6。無水カフェイン2。エタノール塗布。それからキリュシュを小さいグラスに」
「分かりました」
「馬鹿野郎。そんな治療があるものか。君、よしたまえ。医療ミスで告発するぞ。君が院長にどんな弱みを握られているのか知らんが、罪を被るのは君一人だぞ」
隊毛氏が院長にとびかかったようです。だれかが私の頭からブレインストームらしい機器をむしり取り、私をうつぶせに転がすと、背中にも回っている例のバンドを掴んでぶら下げました。首が、めりこみそうでした。そして、尻にくいこむバンドのきつさ。まるで、ピアノ線を飲み込んで、尻まで貫通させたものをむすんでぶら下げられているような痛みでした。香鳴さんの仕業とも思えません。これまでの登場人物の中で、こんなに乱暴に私をぶら下げることのできそうなのは、隊毛氏と、あとは……
「きさま。何をする」
これは隊毛氏の声でした。私はぶんぶんと振り回されながら、床に転がっている香鳴さんの姿、いやそれらしい女性の体を見ました。彼女の豊かな黒髪の間に、顔はありませんでした。
運転手かもしれない。と私は思いました。そんなゆとりがよくあるなと思われるかもしれませんが、何か考えていないと気が遠くなりそうなのです。フリーフォール時の、内臓空っぽ感覚がたまらないと聞いたことがありますが、それはほんの数秒間の近無重力状態だからこそ、空っぽでいられるのです。私はもう何時間も自由落下しっぱなしなのです。
気を抜いたらまた気を失ってしまう。一体あれから何日が経っているのかの分からないまま、私はぶんぶん振り回されていきました。隊毛氏も香鳴さんも、運転手にはかなわないのでしょうか? 隊毛氏も香鳴さんも、私の味方ではないと分かりました。では彼らと敵対しているらしい運転手は味方となりうるでしょうか。
Aと敵対するBがある。またBと敵対するCがある。そのときAとCの関係は?
バンと音がして再び周囲は真っ暗になりました。ひどく暑い。そして狭い。ガソリンの匂いがします。トランクルームでしょう。ゴツゴツとあたる工具の一つ一つがいちいちんがっていて、私の尻を刺しにきます。
これからどうなるのか、私は考えました。考え抜きました。でも、何も分かりませんでした。車の排気音が響きわたりました。
「空想技師集団のPRって話はどうなっているんだろう」
半ばやけくそになって私は、もはやどうでもいいように思われる問題に取り組んでみることにしました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます