第9話 キオラ画廊

 早朝、私は中折れ帽子を目深に被り、手袋をした手でタクシーを止めました。アパートのすぐ前の通りで、こんな早朝にタクシーが止まるだろうかと不安でしたが、折り良く、黒と白のチェック柄のタクシーを捕まえる事ができたのです。

「キオラ画廊まで」

 私は声の震えを悟られはしないかと半ば恐れながらそう告げました。運転手は軽く頷くと、朝日の方向へ向かって車を出しました。

「お客さん。こんな時間からあの画廊に一体なんです? バイヤーかな?」

 運転手はルームミラーをちらちらと見ながら話し掛けてきました。私は、あの画廊がそれほど有名だとは思っていなかったので、少々驚きましたが、そんな動揺を押し殺して、「まあね」と通ぶった口調で答えることが出来たと思います。

「やっぱりそうか。何か大きな取引だね、こいつワ。あの画廊で大取引ってことは、釜名見だネ。お客さん。そうだろう。釜名見の新作がついに世に出るってわけだ。こいつワ、マスコミが発表する前に俺が仕入れた特ダネってことだネ。お客さん。金はいいぜ。朝からついてるゼ」

 運転手は上機嫌になってメーターを戻してしまいました。

 私は運転手の察しの良さに舌を巻いていました。あの画廊も釜名見も、私が知らないだけで、世間には相当に名が通っているのでしょう。私は、「発表があるまで表沙汰にしないで欲しい」と釘を刺さずにはいられませんでした。

「大丈夫ですヨ、お客さん。お客さんはなァンにもしゃべっちゃいない。それに、知ってると思うけど、こんな凄いネタ俺の口から表沙汰にしたって、誰も本気にしやしないサ。何しろ、釜名見だろ。もう何十年も沈黙していた現代美術最後の巨匠だ。お客さんもいい腕してるヨ。そんなもん扱えるんだからナ。今度は、18だったか。あの釜名見ホワイトがどんな造形美をまとってでてくるのか、わくわくしてくるネ」

 彼は釜名見の熱狂的なファンなのかもしれないと、私は思いました。そして、釜名見ホワイトという言葉は、私の肌の色を思い出させたのです。やはり、昨夜の私は『釜名見の作品18』だったのでしょうか。

「ついたゼ、キオラ画廊。お客さんの商談成立に万歳だ。雑誌、楽しみにしてるヨ」

 運転手は本当に金を受け取ろうとせず、ドアを開けると早く行けと促しました。私は深々と頭を下げて、タクシーが走り出すのを見送りながら、その助手席に、地図と、日報と、雑誌が置いてあったことを記憶に留めました。特に、雑誌は美術誌で、釜名見煙のこととか、「空想技師集団」のこととかが、載っているのだと思いました。私は今日の打ち合わせの後にでも、早速その雑誌を買っておこうと決めました。


 画廊は思いのほか小さな雑居ビルの5階にありました。私には、昨夜階段を駆け下りた記憶はありませんでした。よほど動転していたのでしょうか。

 それにこのビルなら会社からそう遠くはありません。実際に、建物の割には豪華な展望エレベーターに乗りこむと、その窓越しに、私の会社のビルが見えました。

「タイラカナル総合図案」という大きな看板が掲げてあるので、すぐに分かるのです。看板は一晩中ライトアップされているはずなのですが、昨夜、私は夜空にこの看板を目撃した記憶がありませんでした。

 5階に到着しました。エレベーターを降りると、清掃のおばさんが通りすぎるところでした。その後ろをのろのろとついていきます。モップを片手に、清掃ワゴンを押しているおばさんを追い抜くだけの幅が、この廊下には無いのです。一体、こんな通路を、昨夜の大集団がどうやって、行き来したというのでしょうか。


「キオラ画廊」と書かれた扉が、突き当たりにありました。おばさんはその直前にあ防火扉の中へ入っていきました。画廊の扉はごくありふれた木製で、文字は白ペンキで書いてありました。私は騙されたような気分で扉を叩きました。

「どなた」

「タイラカナル総合図案の、或日野です」

「ああ。開いてますよ。どうぞ」

 この扉の向こうには、壮大なローマ式共同浴場めいた大広間が広がっているのかしらん、と思いきや、そこは職場と大差のない広さの空間で、どこにでもあるグレイのカーペットを敷いた床と、淡いブラウンの壁と、縁無し硝子に額装された現代絵画が並べられているだけの、ありふれた小さな画廊でした。受付カウンターには「次回展示 現代美術の彼岸」というパンフレットが置かれているだけです。釜名見の名前などどこにもありません。

 目の前で手を差し伸べているのは、黄色いレンズの入った眼鏡をかけた三十代前半とおぼしき男性でした。白豹のような印象があります。オールバックの髪と、つりあがった目のせいかもしれないと私は思いました。

「帽子とコートをどうぞ」

 そう言われて、私はつい両方とも取ってしまいました。それほど自然な物腰が彼には備わっていたのですが、手渡してから私は「しまった」と思いました。しかし、見せてしまったものは仕方がありません。もう、これが常時の私だというつもりで振舞うしかないのです。私は軽く咳払いをして手袋も外し、彼の顔を真っ直ぐに見つめました。

 彼の顔には、明らかな驚愕が浮かんでいました。やはり、毛の無い白い顔というのは異様なのです。しかし、ここで下手な言い訳を始めると、何を口走ってしまうかしれません。私は、私を見つめる彼に微笑を返しました。

「いや、失礼しました。どうぞ、こちらへ」

 男は私の顔から目をそらすとソファーを示して、自分は頭を振りながら受付の向かいにある給湯室へと姿を消しました。どうせ、大笑いしているか、大変な病気の後遺症だと同情しているのかのどちらかだろうと私は思いました。

 憮然とした気持ちで、テーブルの上に手帳を取り出したとき、そこに雑誌が置いてあるのに気づきました。

「几螺果巳」という字が表紙に見えます。どう読むのかは分かりません。背後を気にしながら私はそっと手にとって見てみました。どうやら最新号のようです。発行日は、三日後になっています。まだ発売されていない本なのです。巻頭特集として「釜名見煙」が取上げられていました。これは是非読んでおかねばならないと思い、手帳に名前を控え終えたとき、コーヒーの良い香りが漂ってきて、あの男がニコニコしながら私の前に腰をおろしました。

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