第10話 銀髪の美少女

 場面は変わって、開店準備中のカフェーいなり。


 店を開ける前のカフェー店はなかなかの修羅場である。開店の一時間ほど前に出勤した女給たちは、昨夜の閉店後にテーブルの上にあげていた椅子をおろして掃除するだけでなく、昨日の会計が間違っていないか計算する大切な仕事があった。へべれけに酔っ払った客が支払ったお金は多すぎることや足りないことがしょっちゅうあるからだ。


 ただ、カフェーいなりでは、伝票の整理は几帳面な性格の東吾とうごが担当していて、ロシア人の少女スーニャが東吾の横に座ってその手伝いをしていた。


「……姉さん。何度も言っていると思うが、伝票の整理は俺に任せてくれと言っているだろ。姉さんが伝票の整理をすると、余計に混乱してしまうんだからさぁ……」


 女給たちがテーブルの整理をしている横で、東吾は店の奥のテーブルで算盤そろばんをパチパチ弾いている。そして、物静かなスーニャは計算の結果を黙々と帳簿に書き記していた。


 向かいの席に座っている加奈子かなこは、「アハハハハ。ごめん、ごめーん」と謝っている。いっさい反省していないのが丸わかりである。


 カフェー店の経営者のくせに数字に弱い加奈子は、その大ざっぱな性格も災いして、勘定の合計が正しく合っている時でも計算が合わなくなったり、伝票を二、三枚どこかにやってしまったり、ありえない失態を過去に何度も犯していたのだ。だから、弟の東吾に、


「姉さんが伝票に触れるのは禁止だ!」


 と厳重注意されていたのだが、変なところで意地っ張りな加奈子は「オーナーの私が伝票の整理ができないなんて、かっこがつかないじゃないのさ~!」などと言って何度も挑戦しては伝票をぐちゃぐちゃにしてしまい、そのたびに東吾に叱られているのである。


 反省の色がない加奈子に呆れ、東吾は「はぁ~……」とため息をつくことしかできなかった。


Дурака́мドゥラカーム  зако́нザコーン  не  пи́санピーサン.(お馬鹿さんには何を言っても無駄だってば)」


 スーニャがロシア語で何か言っているが、大人しい彼女のことだから東吾に怒られている自分を慰めてくれているのだろうと加奈子は思い、


「スーニャちゃんはいい子だねぇ~。私をかばってくれるのかい? ありがとうね」


 などと言いながらスーニャの美しい銀髪の頭を撫でた。


 うつむいて帳簿を書いているスーニャは顔をしかめ、心の中で舌打ちする。大雑把な加奈子は頭の撫でかたも粗雑なので、髪がぐちゃぐちゃになるのだ。


「馬鹿言え。スーニャは姉に振り回されてばかりの俺を慰めてくれているんだよ。なあ、スーニャ?」


「…………」


 顔を上げたスーニャは何も答えず、加奈子と東吾の顔を順番に見つめると、天使のように愛らしい笑みを浮かべた。


「ほら見なさい、スーニャちゃんは私の味方よ」


「ほら見ろ、スーニャは俺の味方だ」


 姉弟はほぼ同時に勝利宣言をしたが、再び帳簿とにらめっこを始めたスーニャの顔は冷笑を浮かべていた。知らぬが仏とはこのことである。


「おはようございまぁ~す。遅れてごめんなさぁ~い」


「お……おはようございます」


 望子もちこ恵美子えみこが店にやって来たのは、ちょうどそんな時だった。


「おっ、来たね。二人とも、おはよう。スーニャちゃん、恵美子ちゃんにアレを渡してあげて」


 加奈子がそう指示すると、スーニャはコクリとうなずき、テーブルに置いてあった純白のエプロンを持って恵美子の元へトテトテ駆け寄った。


Держиジェルジ.(ほら、これ)」


 スーニャは、恵美子にエプロンを手渡す。これを着て客の給仕をしろ、ということらしい。


「こ……この子が、ウケモチノカミ様が言っていた異国の少女⁉ か……可愛い!」


「(小声で)ち、ちょっと、恵美子さん。人前では『望子さん』と呼んでください。ここでは私はただの人間の娘なのですから」


「なんで⁉ なんで⁉ 銀座のカフェーになんでこんな可愛い異国の少女がおるーん⁉」


「だ、ダメだ……。話を聞いていない……」


 舞い降りた天使のように可愛らしいスーニャとご対面した恵美子は、大興奮してしまった。


 スーニャは、恵美子と比べたら少し控えめだが、望子が真っ青になるほどの豊満な胸をしている。身長は外国の少女にしては低めで、日本人の十五歳の少女たちとあまり変わらないようだ。顔立ちは幼くて、実年齢の十五歳よりも二、三歳下に見える。


「ほんまに可愛い! お人形さんみたいや! うわー、髪の毛もキラキラしとるやぁ~ん!」


「新入リノオ姉サン、チョット静カニ……」


「可愛い! 可愛い! かーわーいーいー!」


шумныйシュームヌィ……. Безベス  тебя́  チビヤ То́шноトーシノ..(うるさいな……。ほっといてよ)」


 銀髪の美少女は異国語で何か言ったが、よく分からない。でも、可愛いのでまあいい。


「ほらほら、あんたたち遊んでいないで開店準備をしておくれよ」


「……はっ! そ、そうでした。異国少女のラブリーさについつい夢中になってしまいました。き、今日からよろしくお願いいたします、加奈子ねえさん」


 恵美子は慌ててお辞儀した。名古屋の女学校では意外なことに優等生だった恵美子は、こういう礼儀作法はちゃんとできるのだ。ただし、我を忘れると拳や蹴りを炸裂させてしまうが……。


「じゃあ、恵美子ちゃんはモチちゃんと一緒に厨房の掃除をざっとしてきてくれるかい? 厨夫コックをやらせている東吾が几帳面な性格のくせして手先が不器用だから、すーぐに汚くなるんだよねぇ」


「お、俺よりも不器用な姉さんにだけは言われたくない。第一、俺は厨夫の修業をしたこともないのに無理やりやらされているだけで……」


「収入ゼロのあんたを養ってあげているお姉様に文句を言わないの! というわけで、恵美子ちゃん、モチちゃん。よっろしくー!」


「ぐ、ぐぬぬぬ……」


 東吾は悔しそうに唸り声を上げる。恵美子は、そんな姉弟のやりとりを見て、ちょっと意外だなぁと思った。


(東吾さん、しっかりしているように見えたけれど……お姉さんに頭が上がらないみたいやなぁ~。震災後の不景気で失業でもして、お姉さんのお店で働かせてもらっとるんやろか?)




            *   *   *




「さぁ~て。面倒くさいけれど、いつものやつをやりますか」


 厨房に入ると、望子はちょっとかったるそうな声でそう言い、腕まくりをした。


「え? いつもの? 掃除をするのではないのですか?」


「ああ。恵美子さんはそこらへんを適当に布巾で拭いておいてください。あと、厨房に誰も入って来ないように見張っていてくださいね。私は、食物神の力を使って、とーっても大切なお仕事をしますので」


「とても大切なお仕事、ですか?」


「ええ。稲藤いなふじ東吾が作るまっずいまっずいゲロ料理が美味しくなるおまじないですよ」


「げ、ゲロ料理……?」


 昨日食べた東吾さんの料理はすごく美味しかったというのに、この食物の神兼縁結びの神は何を言っているのだろうか……。


 そう思って恵美子が怪訝な顔をしていると、望子は唐突に腰をふりふり揺らして踊りだした。


「おいしくな~れ、おいしくな~れ♡ きゅんきゅーん♡」


 両の手でハートマークを作り、みょうちくりんな歌を歌う食物神ウケモチノカミ。


 この駄女神、頭大丈夫か。恵美子は心の底から心配した。


 しかし、その直後、望子の両手のハートマークからまばゆい光が噴出したのである。


「な……何ですか、これは⁉」


 そのピンクの光は厨房全体に広がっていった。恵美子は驚きのあまりのけ反り、体のバランスを崩して尻もちをつくのであった。

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