田町雑記

大弥次郎

全1話

都営浅草線の泉岳寺駅の真上あたりに小さな石垣があるのをご存知でしょうか。

これが高輪の大木戸跡で、ここが江戸と品川宿の境界でした。京のぼりや東下り、伊勢参りなどの旅人や送迎する人たちでにぎわっていました。お江戸の日本橋を七つ(午前4時ごろ)に発ってアレワイサノサとやってくるとちょうどこの辺りで明けの六つ。♪夜明けて提灯を消す♪という「お江戸日本橋」の歌詞はこのことを詠ったものです。

第一京浜に沿って少し三田のほうに戻ると御田八幡。「三田」の地名はもともとは御田、美田あるいは箕田で平家物語には「武蔵国の住人御田八郎師重」という人物が登場します。ま、あまり活躍はしないんですが…。

活躍したほうは、酒呑童子や羅生門の鬼を退治したといわれる渡辺綱。御田八幡は嵯峨源氏渡辺党の氏神で、社宝として「渡辺綱の羅生門禁札」と「源氏の白旗」が伝わっています。こじんまりした閑静な神社で、第一京浜の喧騒にくらべ、別世界の趣があります。こことすぐ裏の道往寺に湧水があります。

また少し戻ると札の辻。この「札」というのは高札で、高札場があったところです。高札といえば時代劇のせいか指名手配を連想しますが、本来は幕府の広報のようなもので、人通りの多い場所に立てられました。札の辻の地名は全国にありますが、ラジオの交通情報などで有名なのは、ここの札の辻です。昔から変わらず交通の要衝であったわけです。

田町の駅一帯は旧薩摩藩抱屋敷。東京国際マラソンや箱根駅伝の中継カメラが置かれる第一田町ビルもこの一角にあります。その第一田町ビルの角に西郷南州と勝海舟の会見の石碑。この脇の路地を入ると左手に御穂鹿嶋神社。本芝鎮守の御穂神社と鹿嶋神社が平成十六年に合併したものです。その先一帯は芝浜の魚河岸でした。三遊亭圓朝の人情話「芝浜」として有名ですが、もともとは三題話で高座で即興でこしらえたもの。腕は良いが酒にだらしのない魚屋の勝五郎が女房にせかされた挙句、魚を仕入れに来るのがここ。芝の増上寺の明け六つの鐘で、時間を間違えたことを知り時間つぶしに浜に出て拾ったのが皮の財布。中身は小粒でぎっしりと四十二両。ちなみに私もこの辺りをうろうろしてみましたが、財布は落ちていませんでした。

山手線(正式にはこの区間は東海道本線)のガードに「雑魚場架道橋」の名前が残っています。

ものの本によると、この浜のすぐ前が日比谷入江、その先は江戸前島でした。なので、この芝浜河岸にあがった魚を江戸前の魚といったそうです。

日本橋の河岸が大店や大名屋敷の御用を勤めたのに対し芝浜は庶民の台所。勝五郎や一心太助みたいな鯔背を絵に描いた棒手振りが出入りしていました。

日比谷の名前は海苔の養殖をしていた名残でしょうか。

日比谷通りに入ると赤羽橋。『誹風柳多留』に「赤羽根や橋の下にも菜の畠」の句があります。かつては赤羽町と呼ばれていましたが、町名改正で三田一丁目となり、赤羽の名は赤羽橋、赤羽小学校、赤羽幼稚園などに僅かに残っています。

江戸時代には久留米藩主有馬氏の上屋敷があり、鍋島、岡崎と並ぶ三大猫騒動の一つ、有間の猫騒動はここが舞台。

猫の名誉のためにいっておきますが、この猫も主人の仇を討った忠義猫です。よいこの皆さんは猫をいじめてはいけませんよ。

また、当時日本一といわれた三丈の火の見櫓があったのもここです。一丈は約3.03mですから、三丈で概ね9m.

今は333mの東京タワーが近くに立っています。東京タワーはもと金地院の境内にあります。金地院崇伝といえは天海僧正と並んで、方広寺鐘銘事件の黒幕。この二人がそれぞれ鬼門、裏鬼門に配されているのは江戸の霊的防衛のためでしょうか。江戸城から見ると湯島聖堂、神田明神、湯島天神、天海僧正の寛永寺がちょうど鬼門の方角に一直線に並んでいます。

日比谷通りをさらに進むと、言わずと知れた芝の増上寺。「黒本尊」のある安国殿は家康の戒名である安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士(あんこくいんでんとくれんしゃすうよどうわだいこじ)にちなんでいます。東照大権現は神号です。いくら払ったかは知りませんが日本一長い戒名だそうです。

上野の寛永寺が鬼門にあるのに対し、こちらは裏鬼門の抑えです。どちらにも徳川将軍家の霊廟があります。徳川将軍十五代のうち初代家康、お爺ちゃん子の三代家光は日光、十五代慶喜は亡くなったときは将軍じゃなかったから谷中霊園、水戸家は儒教だからお寺には埋葬できないし。残りの十二代の将軍とその家族が六代づつ上野の寛永寺と増上寺に葬られています。いや、死んでからも江戸を守らなくちゃならないなんて、将軍さんも大変ですね。戦前は大変壮麗な霊廟群で東洋のパルテノンといわれたそうですが、二度にわたる空襲で焼失。江戸東京たてもの園の旧自証院霊屋をみるとその雰囲気は伝わると思います。現在は墓地は縮小され、宝塔のみがならんでいます。本来の跡地は現在、プリンスホテルになっています。ここにあった多数の各大名家から寄進された石燈籠、銅燈籠は西武鉄道が引き取って沿線のお寺に配ったので、あちこちで葵紋のついた燈籠を見ることができるのはそのためです、日比谷通り沿いにあるのは三解脱門で、大門は芝大門の交差点のところ。なぜか大門のほうが小さい。いえ…昔は大きかったんでしょうね。江戸城の大手門を貰ったそうですから。こちらは関東大震災で倒壊しかかったのを両国の回向院に移築。その後空襲で焼けたそうです。三解脱門は東京都内最古の建築物です。

僅か300年とはいえ、江戸には貴重な文化や文化財がありました。関東大震災と空襲によりほとんどが消失してしまいました。しかしよく探してみるとあちこちに江戸の名残は残っています。江戸の心を私たちが失わない限り江戸はあり続けるのでしょう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

田町雑記 大弥次郎 @ooya-jirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る