プリン、おいしかったです。の歌
風嵐むげん
Aメロ
音楽は、聴く人の絆を紡ぐ方法。
歌は、人々に祈りを届ける手段。
音楽を奏で、祈りを歌う為に。私は。『メル・アイヴィー』は存在する。
……でも、少しだけ。誰かの為に歌うことに、ほんの少しだけ疲れてしまって。息を吐いて、足を止めてしまった。とある世界の片隅にある街。その端っこで座り込み、膝に顔を埋めて休んでいた、その時。
頭上から、声が降ってきた。
「あのー。大丈夫、ですか?」
うるさいな、ちょっと休んでるだけじゃない。わざわざ人通りが少なくて、静かな場所を選んだっていうのに。どうして放っておいてくれないの。
よし、無視しよう。
「具合悪いんですか? ていうか、お店の前で座り込まれるとすごく困っちゃうんですけど」
「うるさい。疲れてるの」
「え?」
しまった。思わず声が出てしまった。恐る恐る相手を見上げる。そこには、ひょろっとした痩身の青年が立っていた。白いコックコートにズボン、黒のサロンを身につけている。甘い香りがふわりと香るが、彼からだろうか。
きっ、と睨み付ければチョコレート色の瞳と目が合った。同い年くらいだろう。驚いた表情は子犬のようで、何だか後ろ髪を引かれてしまう。
「……放っておいて。日が暮れたら消えるから」
空はオレンジ色に染まっている。既に一番星が煌めいており、一時間もしない内に夜が来るだろう。そう言って、もう一度蹲ろうとした。
世界から目を背けて、逃げ出したくて。
「うーん、そうか。疲れてるなら、良いものがあるよ。ちょっと待ってて」
そう言って、目の前から居なくなる青年。待ってて、って何? その言葉に訝しんでいると、小さな容器とスプーンを持って再び彼が戻ってきた。
「はい、これどうぞ。お店の売れ残りで申し訳ないけど」
「これ、何?」
「差し入れだよ。疲れてる時は甘いものって言うでしょ?」
差し出された容器とスプーンを受け取り、中身をじっと見つめる。何だろう、このぷるぷるとした物体は。淡い黄色がかわいい。食べ物、だろうか。確かに、お腹は空いたけれど。
恐る恐る、スプーンで掬って口に運ぶ。すると、稲妻のような衝撃が私を襲った。
「お、おいしい……! これ、これは何? なんていう食べ物?」
「え? プリン、だけど」
「プリン……これ、プリンって言うんだ」
口に入れた瞬間にとろけ、濃厚な玉子の風味と甘い香りがいっぱいに広がる。それだけではなく、容器の底には焦げ茶色の苦いソースのようなものが入っており、これだけを舐めると苦いが、黄色の物体と絡めて食べると絶妙な味わいになる。
美味しい。ぱくぱくと食べ進めていると、容器の中はあっという間に空になってしまった。
「もう、無い。寂しい……足りない……」
「ぷ、あはは! きみ、面白いね。プリンなんて珍しいものじゃないのに。そんなに気に入ってくれたのなら、お店にまだあるから来ない?」
「お店?」
「うん。ぼくのお店、ケーキ屋なんだ。どうせもう店じまいだし」
来て来て。そばかすの目立つ顔でくしゃりと笑いながら、青年が私が背もたれにしていた建物の中に入っていった。赤い三角屋根の小さなお店は、周りの背の高いビルや大きな家に囲まれて居心地が悪そうだ。
私は彼の後をついて、お店の中へ足を踏み入れた。木目調の床に、温かみのある吊り照明。窓際に飾られた観葉植物と、お菓子とお茶の良い匂い。こじんまりとしていながら、温かみのある雰囲気だ。
「凄い……これ、全部あなたが作ったの?」
「うん、そうだよ。ぼくはパティシエだからね」
小さなショーケースの中にしまわれたお菓子に、思わず見惚れてしまう。フルーツが鮮やかなのタルトに、生クリームたっぷりのケーキ。クッキーやチョコレートの詰め合わせまである。
でも、今はショーケースの真ん中で行儀良く列を成しているプリンにしか目がいかない。
「プリン……たくさんある」
「一番の目玉商品だから、作りすぎちゃったんだ。好きなだけどうぞ」
二つだけあるテーブル席の一つに促され、プリンを目の前にたくさん積み上げて貰う。やった! 私は握ったままだったスプーンでプリンの山を攻略し始める。
「はあ……美味しい、幸せ……生まれてきて良かった」
「いや、大袈裟じゃない? でも、そんなに気に入ってくれたんだ。嬉しいな」
紅茶の入ったポットとティーカップをテーブルに置いて、彼が私の前の席に腰を下ろした。いや、決して大袈裟じゃない。
私は生きてきた中で、今日ほど幸せな時間を過ごしたことがないのだから。美味しくて、嬉しくて。鼻歌まで零れそうになってしまう。
でも、ふと気づいてしまう。
「あ……私、お金持ってない」
まずい。これは、怒られる。お金を払って、物を買う。どんな世界でもそうだ。それなのに、どうしよう。冷水を頭から被ったかのような絶望感に襲われる。怒られるだろうか、それとも……思いつかないけれど、怖い。
でも、彼は笑うばかりだった。
「あっはは! お金なんか良いよ。言ったじゃないか、もう店じまいするところだったって。このプリンは売り物じゃなくて、余り物なんだ」
「余り物?」
「そう。他のもそうだけど、今日中に売れなかったものを明日売るわけにはいかないから。フルーツが乗っているものは特に、悪くなったりしなびたりしちゃうから。捨てるしかないんだよねぇ。だから、きみに食べて貰った方が嬉しいんだよ」
「す、捨てる!? そんなの、おかしい!」
あり得ない、こんなに美味しいものを捨てるだなんて! 私が犬のようにそう吠えるも、彼は困ったように笑いながら赤みの強い茶髪を掻くだけだ。
「うーん、そうだねぇ。でも、売れないからさ。これでも、チラシ配りとか頑張ったんだけど」
「わ、私……何か手伝う! あなたのプリンの、助けになりたい!」
「プリンの!?」
「あなたのプリン、本当に美味しいから……捨てるなんて、駄目。もっと、大勢の人に食べて欲しい」
そうだ、捨てられてしまうだなんて駄目だ。このプリンにはもっと、凄い力があるのに。もっと大勢の人を笑顔に出来るのに!
そう熱く語れば、彼はしばらく悩んで。やがて何かを思いついたと言わんばかりに、手をポンと叩いて私を見た。
「じゃあ、さ。きみに一つ、手伝って欲しいことがあるんだ」
――チクタク。止まっていた時計の針が、わずかに前へと進んだ。
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