第7話 昇れ。昇れ。そこに全てがある

 彼は先程の部屋へ戻ってきた。色硝子を透過する朝日に照らされた部屋は、夜間の豪奢さが嘘のように作り物めいて見えた。外の喧噪が、塔の中に虚しく反響している。

 木偶のように座り込んだ彼の目の前で、硝子が輝き、そしてくすんでいった。終業の鐘が鳴り、始業の鐘が鳴る。しかし彼にはもはや何の意味も無いことであった。  眠っているのか、眠いのかも判然としなかった。時折、落下直前にやってくるような不安が、彼の鳩尾を執拗に襲った。そんな繰り返しの中で、彼の精神を奮い立たせたのは、飢餓感だった。


「何をしても無意味である。しかし、何かをせずにはいられない。空腹だという感覚は、つまりは生き続けたいという本能の現われである。だが、この衝動的欲求はあまりにも無目的すぎる。僕はどうして生きたいんだ?」


 彼は卓上のランプを取り上げて部屋を出た。奇形茸を型取ったランプの明かりは、モザイク硝子の傘に弾けて拡散し、跋扈する魑魅魍魎を照らし出した。

 そこは階段の途中だった。下方へ果てしなく続く階段を降りるのは躊躇われたが、足は勝手に動き始めた。


 「串刺し王の玩具」の内部は、この螺旋状の階段と、両端に均等な間隔で取り付けられた扉とに終始していた。扉は樫の木に鉄帯を打ち付けた重厚なつくりで、目の高さには引き抜き蓋の付いた小窓があり、足下には横長の隙間が開いている。途中幾つかの部屋を覗いてみたが、一筋の光も射さない室内はただ暗いだけだ。コツコツと壁を叩く音が聞こえたような気もする。幻聴なのだろうと彼は思った。

 階段が尽きると、足下がぼそぼそした。絨緞が敷き詰められているようだ。厳重な戸張を潜って昼の光が漏れていた。仄かに青みがかった冷たい大気の色だ。そして忘れかけていた街の匂いが彼の胃を刺激した。

 平坦な廊下を壁伝いに歩いていく。壁には百号の肖像画や、タペストリーがかさぶたのように隆起している。そして厳重に封印された大扉の両脇には、甲胄が二体、尻を高く上げた犬の姿勢で倒れていた。彼は薄闇の中に現われた無様な騎士を見て、声を上げて笑った。

 食料を得る為にここまで降りてきたのだが、食料庫らしき部屋は見当たらなかった。彼はそこかしこに散乱している調度品や衣類などを蹴散らしながら、さらに下階を巡回した。


 階段脇の埃の山を蹴り上げた時、一枚の布が靴にからみついた。月にかかる傘のような光を纏った白い生地で、細かい糸玉が無数に突起していた。彼は生地をポケットに突っ込んで、さらに下った。


 最下階にあったのは、中途半端な石組と、だだっ広い闇だけであった。

 彼は黴臭い空気に鼻を慣らしながら、自分が通って来た筈の通路を丹念に探した。石組は崩壊した竈らしかった。マントルピースも、隠し扉も、食料も、何も無かった。彼は室内をぐるぐると回った。壁を蹴飛ばした。挙げ句の果てに、ランプを投げつけた。飛散したモザイク硝子を包み込むように炎が上がった。明らかになったのは、壁の染みと、天井の梁だけだった。彼は放心した。体に跳ねた油を拭うのは無意識の所作だった。掌に違和感を感じて見てみると、先程拾った奇妙な布切を握り締めていた。揺れ動く炎の中で彼はしげしげとその小さな布を眺めた。髪より細い亜麻糸を丹念に編んだレースだった。


 床の目地を這いずる炎に覆い被さるようにしゃがみ込み、彼は繊細な細工を検分し始めた。だが、そうする以前に彼は確信していた。 

 これが、全ての発端だったのである。


 周囲には昼なお暗い森が迫っている。上空を、幾何学的な隊列を組んだ渡り鳥が行く。曲がりくねった枝の上から、梟が取り澄ました眼差しを向けるのは中央の草原だ。斜めの木漏れ日が、乗馬する若い恋人達の間を裂いている。小振りな胸を空に向け、鞭を小脇にした女の口元は、微かな緊張に引き締まっており、背後からついてくる男の鷹揚さと良い対照を成している。猟犬の群れは既に走りすぎ、前方の沢に駆け降りていく寸前だ。装飾的な薔薇や菖蒲などの草花が馬の蹄を上手に避けて咲き乱れ、その上を蝶が舞い踊っている。向かいの茂みから孔雀の隊列が現われて、羽の目玉模様を競っている。その前を、悪戯な兎が跳ねる。林の向こうには小高い丘がある。丘には羊の群れと、それを追っていく牧童が腰の角笛を揺らしている。群れを遠巻きに見ながら、鹿が跳躍している。そして、遠景には聳え立つ山、雲をついて聳える半透明の三つの峰が残雪に輝いている。

 

 炎が翻り、レースの図案は消え失せた。それは紛れもなく彼が家を出る時に、母親が丹精していたレースだった。遠景の連峰と中景の牧童を編み上げている母親の指先と、立てかけてあった前景の台紙を、彼は良く覚えていた。牧童は彼であった。幼い頃、まだ両親が継承者の成長を心待ちにしていた時の自分の姿が、紛れも無く編み込まれていた。


「あれは完成していたのだ。そして僕よりも先に、この地へやってきていたのだ」


 彼は年老いた両親の事を改めて思った。不肖の息子だった。自分は最高学府から金時計まで拝領しながら、何もなせず、もはや何かを成す機会すら失われてしまった。 両親の誇りだったレースが、屑同然に打ち捨てられていた事に対するやるせない思いと、理不尽に貶められた自分の境遇とを思った時、彼は自分の体内を循環する血流の激しさとその温度とをまざまざと感じた。これまで無気力な受容者として生きてきた自分の位置は、常に安定していた。世間に何の対価も求めず、与えられた物だけで充足する事に慣れ切った彼が最後に与えられたのが、この不条理な境遇と憎しみだった。


 彼には憎むべき相手がはっきりと見えていた。彼は彼らと彼らが従属する社会とを、自らの心に刻印した。この塔の最下階には彼の過去があった。だから未来は天辺にあるのだ。


「昇れ。昇れ。そこに全てがある」


 彼は猛然と走った。甲高い足音を追い越すべく、螺旋階段を一息で駆け上がった。頭上には光があった。屋根裏を巧妙にくり貫いた天窓から、光を纏った霧が浸潤していた。彼は微細な白い粒子を掌に掬い上げると、一滴も零さぬようそろそろと立ち上がり、精一杯背伸びをした。これ以上昇る術を持たない彼は、苛立ちながら跳躍を繰り返した。天窓は中空彼方に浮かんでいる。指先は、闇に漂う斑の霧を無為に掻き裂くだけだった。彼は低く唸りながら、直上の天窓を凝視し、ひたすら待ち続けた。時折、天空を横切る影があった。彼は緑色に染まった双眼を痙攣させて呟いた。


「違う。雁か椋鳥だ。数が多すぎる」


 煙る大気の中を滑るように月が変わった。街路の狂操は途切れる事無く屋根裏に響いていた。蒼い満月が天窓を塞ぐ中、彼は見える筈の無い三本槍の影を見た。彼は強ばった身体を起こした。額に冷風を感じた。霞がかった視界の中に、明滅する無数の眼があった。彼は目茶苦茶に手足を振り回した。すると指先が固い物に打ち当たった。ぶつかった何物かは戦いたように身を引いた。彼は慌てて辺りを探り、気配を頼りに何処までも追いかけていった。


「引き摺り下ろせ。こいつを引き摺り下ろすのだ」


 彼は、いつしか握り締めていた石塊をポケットに詰め込んで、無音の咆哮を上げた。東の地平は牛血色の黎明を迎えていたが、光は濃霧に捕縛され、彼の所までは届かなかった。彼は執拗に闇を追い、闇を打った。

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