第6話 死にたいなら、場所を選べよ
鼻の奥に痛みを感じて、彼は目を開いた。切子硝子の小瓶と、それを摘んでいるか細い指とが見えた。
彼の朦朧とした視界の中にある室内は、紅と金とに輝く温気に溢れていた。彼はいよいよ煉獄に入ってしまったかと思い、再び気が遠くなりかけた。すると、彼の額をコツンと何かが叩いた。彼は顔を上げた。そこには、上等な革靴のつま先が浮遊していた。地下室のおぞましさを思い出した彼は身悶えたが、身体は椅子に括り付けられていて、その場を離れる事は出来なかった。
「珍客だな」
老人の声が降ってきた。彼はさらに顔を上げた。シャンデリアの光を背負った老人が、部屋の中空に漂っている。彼はあまりの事に唖然として、抗う気力を無くした。
「落ち着いたようよ。この小瓶の効き目は絶対なんだから」
背後で若い女が言った。勝ち気な口調だった。腕に刺青のある若い男が、彼に向かってグラスを差し出した。
「まあ、一杯やって気を落ち着けることだ。乾杯」
突然、背後から柔らかな丸い物が舞い上がり、彼を飛び越していった。そして大きく膨れ上がった絹のスカートと、羽根付きの帽子を目深に被った女が、向かいのカウンター上へ優美に舞い降りた。続いて、彼のすぐ傍らで重厚な靴音が響いた。恰幅の良い富裕そうな老人だった。老人は膝を庇うようにしばらく静止してからゆっくりとソファーに体躯を沈めた。
鼻眼鏡を乗せる為にあつらえたような鼻と、ぴったりとなで付けられた銀髪。仕立てのよい背広からビロウドのチョッキが、血統書付きの猫のような光沢を滑らせている。大振りな指輪を包むような指毛。赤ら顔。瞳は緑色で前頭部が大きく迫り出している。カットグラスを回しながら、初老の男は彼を見て微笑んでいた。
前方の若い男は、彼に背を向け、隣の優美な曲線に何やら耳打ちしている。シャツの上からでもはっきりと分かる背中の厚みと、カウンターへの肘の突き方を見て、船乗りだろうと彼は思った。三等客室を嘲笑しながら覗いていた男を思い出した。
そして女だ。顔は地味だが船乗りのあしらいは慣れていて、社交会に退屈し、趣味で月給取りの生活を経験しているのだというような放逸さが感じられた。
彼は自分が比較的冷静な事と、観察の細かい事に安堵した。けれども、結局単なる類型を当てはめているだけの事で、事態の収拾に役立つとも思えなかった。
「何を考えているんだね」
老人があやすように尋ねた。彼は胸中に荒波が立つ思いがした。
「分からないことばかりです」
「分かったような事をいうなよ」
船乗りが茶々と入れ、老人の眉が痙攣した。
「興味ある問題だな。君は見たところ健常態に見えるが、なかなかの食わせものかもしれん」
「首を刎ねておしまい」
くすくす笑いながら女が叫び、老人は再び眉を跳ね上げた。
「私には知る権利も無いのでしょうか?」
彼は俯いたまま呟いた。老人は大げさに両手を広げ、手にしたグラスから酒を零した。
「おっと勿体無い。権利などという事を言い出すから、仰天してしまった。君はまさか、自分が何故ここにいるのかすら分からないなどと言い出すのでは無いだろうね」
「その通りです」
カウンターの二人が笑い崩れた。老人も嘆息しながら酒を飲み干した。彼は沈黙を恐れた。だが、彼には病院での診断について話す事しか出来なかった。頭上のシャンデリアの軋む音が、それを伴奏した。三人は意外な程おとなしく、それぞれのグラスを傾けていた。
話は言語道断な程に馬鹿げていた。話している彼自身も、途中で訳が分からなくなった。
「だから、私には何も分からないのです。何故自分がここにいるのか、ここが何処なのか、貴方達が何者なのか」
「そして、自分が何者なのか、だろ」
「あまり時間がないんだがね」
「これは、どういった集まりで、ここは何処でしょうか」
彼は最大の疑問を口にした。しかし、老人は彼を無視し、ゆっくりと立ち上がった。そしてそのままシャンデリアを越えて、カウンターの方へ、ふわふわと漂って行った。彼は老人の背中に、有る筈の無い黒い翼を見たような気がした。
「見たとこ健康そうな若者じゃないか」
「甘えておるんだ。私の若い頃は、リヤカーに野菜を入れて行商したもんだ」
「それ、いつの話よ」
三人は、時折彼に視線を走らせながら、そんな話をしていた。彼は後ろで縛られた手を動かしてみたり、きっちりと揃えて括られた足をそっとばたつかせてみたりした。
「死にたいなら、場所を選べよ」
突然、船乗りが彼に向かって飛んで来た。老人も眉を潜めて彼の前に降り立った。
「そう乱暴なことを言うものではない。彼にも彼の事情があったのだろう。我々に何事にも優先する事情があるように。そして」
「相克の決着は、常に力関係によって付けられねばならない、ね」
「頭なんて、使うなよ」
「そんな乱暴なことはせんよ。ただ、我々には君の手助けをする義理もありませんな」
「どういうことでしょうか」
彼は常識の通じない人間に弄ばれて、初めて常識の効能を実感した。
「一体ここは。そしてあなた方は」
「記憶喪失なら、強い衝撃を与えればいいんだろう」
船乗りはカウンターまで歩いて戻ると、グラスを取り上げて神経質に磨き始めた。女はハンドバックからコンパクトを取り出して自分の唇を検分し、紳士は彼の鼻先で葉巻をもみ消した。
「教えてください。あなたがたは一体どういう人達で、ここは一体」
「玩具の天辺だよ。皮剥ぎの部屋と呼ばれているところだ。我々がここにいる事は無論違法だ。法律が我々の靴の底にまで届くのかどうかは疑問だがね。これはクラブ活動のようなもので、他言は無用だ。まあ、不可能だが」
老人は立ち上がって、明かりを消した。気がつくと、濃色の色硝子が色付き始めていた。蒸気の吹き上がる音も聞こえてくる。
「もうすぐ鐘が鳴る」
宿の寝台に横たわったまま聞いた始業の鐘は、もう書物の中にしか存在しない、異国の奇妙な風習のように聞こえたものだった。だが、今朝の鐘は紛れもなく自分の暮らしてきた街から響いてきた。
「君は知ってしまった。私達にとっては大変な誤算だった。けれども依然としてこの地は安全であるといえる。この塔の管理は厳重だ。入り口は全て封鎖されている。出口もない。よしんば君がここから出られたとしても、当局の監視網に捕縛されて終身刑だろう。死にたがっている君にはおあつらえ向きだな。食料は、地下にぶら下がっているのを自由にしたまえ。その縄を解いて、首を括ってもいいだろう。次の定例会までには、片を付けておいて欲しいものだがね」
老人は鷹揚に彼の肩を叩くと、時計を引き出して眺めた。女は鏡の前へ飛んでいって髪をいじったりパフをはたいたりし始め、船乗りはせっせとグラスを磨き、酒瓶を並べ直したりしだした。彼は絶望の極致を知った。真の絶望は全てを無効にした。いつしか緩んでいた両手の縄を手首からぶら下げたまま彼は立ち尽くした。
三人の靴音が遠のいていった。本当に最後の生への可能性に気づいた彼は、椅子を跳ね飛ばして後を追った。
「彼らはここから出ていくと言っていた。ならば、私もそこから出れば補縛されずに済む筈だ」
彼は、彼らの靴音を辿った。そして見たのだ。黒い円錐形の屋根の側面にくり貫かれた天窓から、風船のように脱出していく三人の姿を。彼らはもやい綱を解かれたかのように天窓を超えていった。そして、三人の姿が遙か上空へと消えていくのを、彼はただ手をさしのべて見送るしかなかった。
一縷の希望も断たれた。彼には彼らのような芸当は出来ず、ここに一人滞在している彼は、どう考えても極刑に値する犯罪人となったのである。
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