永遠の恋人(Forever you)

日野 哲太郎

第1話 運命の出会いー1



         風に壁はない。

         どこへでもとんでいける。

         気流や渦や

         法則が、ないではないが

         自然に

         地球をめぐって

         うつくしい命をはぐくんでいる。


         風に国境はない。

         葉むらをゆすり

         山から街へと『気』を供給し

         鳥とともに、

         野をこえ、海をこえ、

         夜をこえて

         ながれていく。


         光をつたえ、

         風は、季節のとびらをひらく。

         伴侶は水、氷、砂・・・

         ときに狂った嵐ともなるが、

         歌声とともに

         地上に

         芽生えを告げるのは風である。


         窓を開けてほしい。

         そしたら君と会える。

         ぼくは

         風になりたい。

         そして

         とんでいきたい。

         君のもとへ。




         一 運命の出会い


                        一九八〇年代の物語


 年の瀬も迫ったクリスマス・イヴの夜だった。私はモスグリーンのコートに手を突っこんで雪の降る街を歩いていた。友人宅から場末のアパートへの帰り道だったが、都会の雑踏が意味のない混乱のように見え、夢想にわが身を汚した詩人のように取り留めのない考えが浮かんでは消えた。

 その夜は、ふだん気にもかけない瑣末事が奇妙なほどに目にちらついた。二十分ほど前、電車にゆられていたときも、となりに座った熟女の人差し指が腕組みに隠れてコートのうえを何度も往復した。横を見ると、厚化粧から浮きでた秋刀魚のような目が電灯に映えてにぶく光った。

 思わず生欠伸がでた。どこの誰とも分からぬ女が、自分の心を出会い頭に刺激するなど許されることではない。ここが夜の熱帯林ならいざ知らず・・おお、そうか、そうだった。ここは東京なのである。動物園もあれば、博物館もある。ここはアマゾンのジャングルよりも始末が悪いコンクリートのジャングルなのだ。

 舌鼓を打った。甘いキャンディをなめたのではない。都会の空虚を呑みほしたのである。女はその音を聴いて、そそくさと髪に手をやった。そしてただそれだけの事だ。

 私鉄電車の震動に合わせてふるえる体。となりの女の緊張は通路を越えて向こうの座席にまで伝染したらしい。ときどき眼鏡越しに視線をそそぐ馬面がいる。そのとなりにはハイヒールの婦人。赤い靴の少女。夜の帳に薄暗い鏡となった窓ガラスには、となりの女の右半身が婦人の脇に映っている。彼女は、薄いピンクのスカートのうえに置いた黒いハンドバックをかかえて細い指をもじもじさせていた。

 右の斜交にはスニーカーの若者。劇画を読む女学生。鳥の巣頭のおばさん。目を閉じたサラリーマン。左の斜交には、スキー帰りの青年。ぼんやりと夜景を見ている老人。ひそひそ話の恋人たち。窓の上に一列に筋をなした宣伝広告。そして無言の人、人、人。

 赤っぽい光の下に偶然に集まった人生のコンチェルト。ほら、耳を澄ませば聴こえてくる。笑いの底によどむ溜息。沈黙の底にながれる歌声。喜怒哀楽を秘めたスーツケースに、無関心を気どっている目。座席から遊離する浮気心のフォークダンスに、ふるえる列車の震動。空席は昼間の混雑の余韻をにじませてうめいているようだ。車内にまき散らされた夢の破片は、どんよりとした夜のなかでチラつく星となっていた。


 列車がゆるやかに停車した。後二つだと思う。となりの女は釣られて外を見た。

 雪のなかをふたたび列車は発進する。走るにつれて一区間の緊張が生ずる。しかし私は、何があっても動かぬ岩のようにじっとしていた。

 そのとき劇画を読む女学生の口許から忍び笑いがもれた。となりのおばさんは眉をひそめ、手持ち無沙汰に好奇の目を光らせながら、生欠伸を一つ、もう一つ。彼女の笑いは濡れ場のせいかと、ぽつり一言「おもしろいかね?」学生は口をつぐんで答えない。おばさんは遣り場をなくして赤面し、下車するふりをして座席を変えた。

 独り、独り、独り、独り・・・。突然コーラの空缶が転げた。ポスターの少女は磨かれたタイルのような歯を剥いて笑っている。

 私は無性にいらだって、となりの女の耳をロバのようにピンと引っぱってやりたくなった。彼女は、あのポスターのギャルのように笑うだろうか? あまりの事に怒るだろうか? それとも悲鳴をあげるだろうか? もしかすれば、反射的に横面をたたかれるかもしれない。その行為が生みだすものは、痴漢の名誉か、三文オペラだ。

 おおきな欠伸をして外界を遮断した。まだ見ぬ誰かの面影が、窓ガラスに浮かんでは消えていく。それは、甘酸っぱい果肉に火を点けて、滅びの時を静かに待っている詩のようだった。

 時間がスローテンポで過ぎていく。『早くしろ! 早くしろ!』無言の叫びが走る。焦燥がかえって心を冷たくする。体だけが熱っぽい。『早くしろ! 早くしろ!』叫びは執拗に心臓を打つ。心は氷のようなのに、悲しみに体がほてる。情熱は氷塊にはじかれて、かぎりなく横道へとそれていく。

『夢を忘れてはならないぞ。不安の代償ではない。

 夢のための夢を』

 そのとき私のまぶたには、炎の十字架があざやかに映った。それは生きる苦悩と歓喜とに満ちて、私が生まれるずっと以前からそこに立っているもののようであった。

『呼んでいる。俺を呼んでいる声がする。やさしさに刺をかくした薔薇の花のようなその声が・・・』

 私は歓喜に脈打ちながら底知れぬ不安におののいた。

 頭のなかには小さなひびき・・列車の鉄の軋みではない。ほそく、しなやかに、時計のようにチクチクと、しかも生物のリズムを持ってひびいてくる。何であろうか。聞き覚えのある音だ。まるで蜜蜂の羽音のような・・それともこれは故郷の梢の葉音だろうか?


 ガクン! キーキーキーッ! 列車が急停車した。私は首をふって押し寄せてきた幻影を振りきった。・・体が緊張のために汗ばんでいる。窓を見ると、白い雪がガラスに付着して、こまかい水滴を作っていた。今夜は、silnt night.holy nightだ。真北から風が吹いたのだろう。

 それにしても、ここはどこだろう。駅に着いたわけではない。「失礼、ここはどこ・・」と訊きかけたとき、事務的なアナウンスが流れた。

「ただ今、前の踏切で事故が発生しました。お急ぎのところまことに申しわけございませんが、しばらくの間お待ちください」

 少しもすまなそうではない声を耳にして『自殺か?』と思った。そして若く美しい女の死体を思い浮かべた。

 あたりに小さなざわめきが起こった。となりの女は、「どうしたのかしらね?」と声をかけた。私は無言のままに首をかしげた。

 現実は怠け者だと思った。でも、それも愛敬なのだろうと思いなおした。おどけてはみるものの何もすることはない。時間が無益に氾濫して、心は冷たくまどろみはじめた。

「犬がいっぴき、線路で死んだのかもしれないね?」

「犬が?」

 となりの女は、理解できないといった様子で不自然な笑みを浮かべ居ずまいをただした。

 私はあくびを噛み殺した。

 ふと見ると、となりの席では小学生が、窓ガラスに息を吹きかけて○や△の絵を描いていた。くたびれた様子の中年男はそれを見て、

「愛子、汚いからよしなさい」とたしなめた。

「だって」と反抗のそぶりを見せると、

「お父さんのいうことがきけないのかい?」と娘を睨みつけた。

 男は、しかつめらしい顔をしながら本の頁をめくっている。

 女の子は、黙ってガラスに映る自分の顔とにらめっこをしていた。そのとき彼女は、薄曇りの雪のなかにぼんやりと浮かぶ月を発見した。感激して父親の肩をゆすると、男は縦皺を寄せて娘を見た。

「何だい?」と物臭な声が返る。

 女の子は怖いものにふれたかのように手を引っこめて首を横にふっただけだった。

「愛子、疲れたろう?

 少しおねむり」と告げるや、彼は本を閉じてうたた寝をはじめた。

 娘は寝たふりをしていたが、すぐにまた目をあけて、おもしろそうに雪夜の月をながめていた。そのとき少女は何かの視線に気づいたのか。横を向いてジッと私を見つめた。クリッとした瞳に出会って思わず微笑した。すると女の子は、安心したようににっこりとした。それから恥ずかしそうにうつむくと、しずかに寝息をたてはじめた。

 列車は動きはじめていた。私は立ちあがった。そして次の停車を待ってプラットホームに駆けおりた。



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