海棠の庭

叢雲いざや

プロローグ

 見渡す限り薄紅色の花が咲いている。柔らかな下生えに散り積り重なる花弁は花海棠である。美人の睡りに例えられる艶麗な花は、春の陽気の中に僅かばかりの肌寒さを孕む微風の中、ふわふわと揺れている。空気に混じる香りは沈丁花。人よりも遥かに優れた嗅覚を有する銀髪の少年は一瞬顔をしかめながらも、師に申し付けられた仕事を全うする。


 幾本かの切り花を得て、少年が室に戻ると、師たる妙齢の美女がベッドの上で欠伸あくびをしていた。

 彼女はこの御殿の主・楊宵雪ヤンシャオシュエ。白い九本の尾が延びた剥き出しの尻を、さほどの感慨も覚える事なく少年が眺めていられるのは、情事の痕跡がないからだ。少年が戻った事に気づいた宵雪は、一糸纏わぬ裸体を恥もせず両腕を伸ばす。少年は抵抗もせずその胸に抱かれ、鼻と口を塞がれ、息継ぎを求めて顔で両の乳房の間を探る。

「……お召換えを」

 抱擁を受け入れたはいいが恥ずかしさを覚えた少年は低く抗議する。

「いいじゃないの。ねぇ、帰ったばかりで悪いのだけど朝餉あさげの支度をして頂戴」

「お召換えを」

二度言われしぶしぶと宵雪は衣服を身につける。それが極薄のうすものであるのは不満の現れか、彼女の趣味かは定かではない。

「ねぇ嗣志シーズィ。今日は一日中一緒にいられるのよ。何をして過ごそうかしら? 秋千ぶらんこなんてどうかしら?」

 嗣志と呼ばれた少年は摘んできた花を生ける。

「俺は、いつも通りです、我が師よ。読書、鍛錬……そしてお茶」

 衣服を着終えた宵雪は髪に飾るものを探してゴソゴソしている。

「真面目なのね。ならそこにわたくしも混ぜて頂戴」

 宵雪の首には色とりどりの玉の嵌った金環が光る。それは彼女をここに閉じ込める仙界の秘宝である。


 この御殿は仙境の外れにある。ここでは年中、季節の花が咲き乱れ、数百人の女仙が暮らしている。女仙達は仙人の中でもとりわけ若いもの・美しいものが集められている。

 仙人というものは繊細で、外界の女の白い脛を見ただけで力を失う危うさがある。かと言って、美しい女仙がいないわけでもなく。また、房中術――陰あっての陽、陽あっての

陰。男女和合にて万物を調和せしめる業が仙の道でなくもなく。棲み分けのために。房中の業を伝え学ぶ場を保存するために。かつて人界の王を惑わし一国を滅ぼした千年狐狸精・宵雪を封印し、いつでも気の向くままにその精気を供給させるために。人界の後宮を模し建てられたのがここである。


 宵雪の室には来客のない日だけ花が飾られる。

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