サダオ

鏡水 敬尋

第1話 はじめまして

 某年八月某日。よく晴れた日の昼下がり、うだるような暑さの中、サダオは直射日光を浴びながら、古びた、しかし立派な一戸建の前に立っていた。今日から、この家がサダオの住まいとなる。


 仕事の都合で、この界隈の物件を探していた。家の広さや間取りにこだわりは無かった。ただ、予算の都合上、家賃が安い物件を選ぶ必要があった。

 不動産屋に出向き、候補となる物件を見せてもらった。大抵の場合、駅に近いほど、また物件の面積が広いほど、家賃は高くなる傾向にある。

 家から駅までの距離になど意味は無い。住みやすさなど考慮しない。重要なのは、家賃の安さのみであった。

 家賃のみに注視しながら、探していると、あった。駅からそれほど遠くなく、かつそこそこの広さの一戸建てが、格段に安い値段で提示されていた。

 サダオがその物件に興味を示すと、不動産屋は、その物件が安い理由を説明し、そこへの入居はお薦めしないと言った。しかし、サダオはその戸建てへの入居を決めた。不動産屋の話した理由など、サダオにとってはどうでも良いことであったからだ。むしろ、そのような理由で、家賃が安くなること自体が理解できなかった。


 サダオは、自らの新居の外観を眺めた。家は二階建てで、一階部分に比べると二階部分は小さく、大きな台の上に、ちょこんと直方体が置かれている、そんな印象だった。

 申し訳程度の庭もある。外から見ても、中の広さが想像できる、立派な佇まいであった。

 外壁のモルタルは、いやに茶色く、元からこの色なのか、長年、風雨と日光に晒された結果、この色になったのかは分からない。

 ふと周囲を見回すと、そこら辺一帯は、小綺麗で瀟洒な、比較的新しめの戸建が立ち並んでおり、その中にあって、歴史を感じさせるこの家は、やや異質な存在であった。

 サダオは、最低限の手荷物を詰めたバッグを片手に、玄関へと足を進めた。

 玄関のドアは、銅色に鈍く輝く引き戸で、重厚さを感じさせる。サダオは、右手に持った鍵をその鍵穴に鍵を挿し込み、手首を右へと回した。年季を感じさせる鍵穴は、その外見とは裏腹に、滑らかに回り、ガチャリと鍵の開く手応えがあった。

 ドアを左に滑らせると、玄関が目に入る。外の明るさとは対照的に、中は妙に薄暗かった。

 誰の靴も置かれていない玄関に足を踏み入れ、ドアを閉める。玄関の先には真っ直ぐ廊下が続いており、その木の床は、長年に渡り使い込まれたことを思わせる、独特の暗色に染まっていた。くすんだクリーム色の砂壁が、廊下を挟んでおり、壁と廊下の境目には、焦げ茶色の巾木が這っている。

 古い家とはこんなものだろう。そう思ったサダオは玄関で靴を脱ぎ、廊下に上がった。踏み出す足に体重がかかる度に、ミシ、ミシ、と廊下が軋む。

 すぐ左手のふすまを開けると小さな和室がある。すぐ右手、つまり和室の向かいには洗面所と風呂場がある。さらに廊下を進むと、左側に二階へと続く階段があり、階段の向こう左手にトイレがあり、廊下の突き当たりに居間と台所がある。サダオは、居間にバッグを置いてから、一階の各部屋を一通り見て回り、再び居間へと戻ってきた。

 特に問題は無い。家賃の安さ故に、何かとんでもない問題があるのではないかと疑っていたのだが、軽く見て回った限りでは何も問題は無さそうであった。

 サダオが、床に置かれたバッグの傍にしゃがみこみ、開けようと手をかけた瞬間、二階から音が聞こえてきた。

 トン……トン……トン……。

 誰かが緩やかに歩いているかのような音。

「おや、二階に誰か居るのだろうか」

 そう言えば二階はまだ見回っていなかったな、と思ったサダオは、居間から廊下に出て階段を上った。

 階段を上り切ると、右手に引き戸があり、その先には寝室がある。つまり、居間の真上に、この寝室が位置しており、二階にはこの一部屋しかない。

 引き戸を開けてみるも、そこには誰も居ない暗い寝室と、静寂があるのみだった。

 音の原因を確かめようと、サダオは寝室に足を踏み入れた。西側の壁には小さな窓があり、窓外には、真夏の日差しに照らされて白く輝く、隣家の外壁が見えている。窓外の眩しさのためか、寝室内は異様に暗く感じられた。

 窓に近付き、開けようとしてみたところ、鍵がかかっていて開かなかった。

 北側の壁には、押し入れがあり、今はふすまが閉ざされている。もし、人が、人でなくとも、音を立てた何かが有るとすれば、この中か。

 押入れのふすまを勢いよく開けてみたものの、そこには何も無く、結局、音の原因は分からなかった。

 サダオは、少しわざとらしく首を傾げ、押入れのふすまを閉めると、踵を返して寝室を出た。

 階段を下りて居間に戻り、再びバッグの脇にしゃがみ込むと、バッグの中からスマートフォンを取り出し、家に無事着いた旨を上司に報告した。


 サダオが引っ越してきてからの一週間は、分からないことの連続であった。家の中に、馴染みのないものが沢山有ったためだ。照明器具ひとつとっても、最初は操作法が分からなかった。照明器具からぶら下がった紐を引っ張るタイプの照明を見たことが無かったのだ。

 サダオにとって、各部屋の様々なものが物珍しく、興味深いものであった。しかし、一通り見て回り、その存在意義や操作法が分かると、段々と興味は失せていき、サダオはその生活の全てを居間で過ごすようになった。

 居間は十八畳ほどあり、バッグひとつしか持ってきていないサダオにとっては、生活の全てが賄える広さであった。仕事はもちろんのこと、夜も居間で寝泊まりをしていた。

 サダオには一つ気がかりなことがあった。やはり、二階の寝室に、誰かが居るような気配がするのだ。言うまでもなく、サダオには同居する家族などいない。一人暮らしながら、このような戸建てに住んでいるのは、家賃が安いからに他ならない。

 居間で過ごしていると、二階の寝室から物音が聞こえることが幾度かあった。その度に、サダオは階段を上り、寝室の様子を確かめるのだが、音の原因を確かめることはできなかった。

 ある日の昼、サダオは二階の寝室で横になってみた。寝室、という名が付いているくらいだから、この部屋で寝てみるべきだろうかと思った。そのくらいの気持ちだった。

 寝室には、色褪せたグリーンの絨毯が敷いてあったが、毛足は短く薄いため、床の感触が直接伝わってくるようだった。

 この絨毯は、サダオが引っ越してくる前からこの寝室に敷いてあったものである。不動産屋からは、絨毯は替えたりせずに、そのままにしておいてくれと言われている。サダオは、絨毯の有無などに興味は無く、特に気にしてはいなかった。

 寝転びながら、ふと、顔を横に向け、絨毯をまじまじと見ると、あるものが眼に入った。五十センチはあろうかという長い髪の毛だ。

 「おや?」

 サダオは、横分けの短髪であり、後頭部と側頭部に至っては、刈り上げたように短い。したがって、この髪の毛はサダオのものではない。

 前の住人のものだろうか?

 サダオは起き上がり、絨毯全体を見回してみた。すると、緑の絨毯のそこかしこに、黒い曲線がへばり付いていた。

 不審に思いながらも、サダオは髪の毛を一本一本丁寧に取り除き、一本残らず全てを取り除いたことを確認してから、集めた髪の毛の束をゴミ箱に入れ、寝室を後にした。


 その日の夜。サダオが居間で寝ていると、やはり二階から物音がする。足音のような音に加え、カリカリと壁を引っかくような音も聞こえる。どうせ、確認に行ったところでいつものように何も無いのであろうと思ったサダオは、音を無視して寝ることにした。

 翌朝、サダオが二階の寝室に行ってみると、そこにはかすかな異変があった。

 色あせたグリーンの絨毯、その上に無数の、長い髪の毛が散らばっていた。

 昨日の昼に、間違いなく一本残らず取り除いたはずの髪の毛が、今ここに再び落ちている。しかも、昨日の昼よりもその数を増しているように思えた。これは、何者かがこの部屋に存在していたとしか思えない。そして、落ちているものが髪の毛である以上、それは人間の女性である可能性が高い。

 サダオは考えた。寝室で寝てみるべきだろうか。

 寝室から物音が聞こえるのは、夜のほうが多い。音の発生源を確かめようとしても、毎回それが叶わない。寝室で寝てみれば、音の正体を突き止められるのではないか。

 それに、自分の仕事の都合上、この存在をこのまま放置しておくのはまずい気がする。


 その日の夜、サダオは寝室で寝てみることにした。布団などというものは持ってきていないので、絨毯の上に直接仰向けになっている。

 深夜0時を過ぎ、日付が変わる。特に異変は無い。

 今日は来ないか、そう思ったサダオが体勢を変えようかという瞬間、音が聞こえてきた。

 トン……トン……トン。

 音は、サダオの頭のすぐ横から聞こえてきている。寝ているサダオのすぐ近くを、誰かが歩いているようだった。トン、という音に混ざって、絨毯の毛が踏みしめられる、シャリ、という音も聞こえる。

 サダオは、努めて平常心を保ちつつ、その足音に意識を集中した。足音は、サダオの周りを、円を描くように歩いているようだった。足音が少し遠ざかっていく。サダオの足元の方に移動しているのだ。そして、一旦足音が止まり、別の音が聞こえてくる。

 カリ、カリ、カリ。

 どうやら、ふすまを引っ掻いているらしい。そして、足音は再び鳴り始め、段々と近づいてくる。足音はサダオの頭のすぐ近くまで来て、やがてその動きを止めた。

 誰かが、自分の頭のすぐ近くに立っている。そしてその誰かは、自分の顔を覗き込んでいる。足音の主を確かめるべく、サダオは両の瞼を開き、己の前方を凝視した。

 サダオの視界に映ったもの、それは、長い髪を垂らして、サダオの顔を覗き込む女の顔だった。女はサダオの頭のすぐ横に立ち、腰を直角よりも深く折り、その顔をサダオの顔にぐいっと近づけて覗き込んでいる。

 女の表情は見えない。部屋はただでさえ暗い上に、垂れ下がった女の髪が影を作っており、顔面を闇で塗りつぶしていた。しかし、漆黒の顔の中に、爛々と光る血走った目だけが浮かび上がり、サダオを睨めつけている。その目にも幾本かの黒い筋が入っているところから、どうやら顔に髪の毛が絡みついているらしい。

 女は、何も言わずに、射抜くような目でサダオを睨め続ける。

 サダオは、身体を硬直させたまま、女の顔から視線を逸らさずにいた。

 どうする。この状況で取るべき行動は……。

 サダオは意を決して、息を深く吸い込み、無理やり笑顔らしい表情を作って、大音声を発した。

「はじめまして! わたくし、高橋サダオでございます!」

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