第26話 モーゼル郷の冬
今年は寒さが早い。
それは家の中から人が1人いなくなったからだ、とマタイは気づいた。
万事質素倹約を呪いのように続けて来たレニングス兄妹だが、2人ともいい歳だ。意地を張って病気になるのも馬鹿馬鹿しい。マタイは薪を暖炉にくべて、火を入れた。
「マーヤは寒くしていないかねえ」
ハーブ茶を飲みながらため息をつくラケルである。
「お城で暮らしていて不自由があるはずがないさね」
マタイが簡単な野菜スープを飲みながら言う。これは朝、こしらえたものの残り物だ。ラケルは村の夫人たちから教えを請われるほどの料理上手だが、マーヤがいなくなってからは気が抜けて、明らかに手を抜いている。食卓が貧相になったことに気づかないマタイではなかったが、何も言わない。
「広い部屋ってのは、案外寒いんですよ、兄さん。マーヤは何でも我慢する性格なんですよ。あんたは牛みたいに丈夫だから、分からないのですよ」
淋しい。思わずラケルが涙ぐむ。マーヤのことを思えば、きれいさっぱり未練を残さずに忘れてしまったほうがいい。頭ではラケルもそう分かっているのだが、気持ちはどうにもならない。木枯らしが吹けば、初雪が積もれば、そのたびにラケルの心はざわつく。
リード夫人にでも愚痴を言えれば多少は楽になれるのだろうが、誰に話せる話でもない。マタイ相手に話しても、どうにもならない。
コンコン。
その時、まだ鎧戸を閉めていない家の玄関扉を叩く音がした。
「誰だろう、小作でも来たかね」
「兄さん、ほら、一応、剣を持ってくださいよ」
コンコンコンコン。
「さてさて。外は雪が降り始めたが」
立てかけてある剣を握って、扉を開ける。
「こんにちは。申し訳ないけど、私も結構忙しい身なんで、こんな時間に失礼するよ」
そこにいたのはブランシェットだった。
「おや、あなた様でしたか」
「マーヤ様の近況をお伝えしようと思ってね」
ラケルはブランシェットに会えて嬉しいと言うことはまったく無かったが、マーヤの近況は素直に有難かった。ぼんやりとしていたのが嘘のように独楽鼠のように動き回って、茶を入れて、茶菓子を出す。
ブランシェットはマーヤから分厚い手紙を預かっていた。
急いで、マタイとラケルはそれに目を通す。
ドラゴン襲撃の日に何が起きたのか、目覚めてから説明されたこと、フェルカムとブランシェットがよく仕えてくれていること、ゼックハルトから騎士の誓いを受けたこと。文字通り、あますことなく近況が記されていた。
リヒトホーフェン伯夫妻からとても可愛がられていること、難しい立場であるにもかかわらず引き取ってくれたガレアッツォ総督にとても感謝していること。
機密的に書けないようなこともあったのだが、そちらは口頭でブランシェットが伝えた。マーヤの血統、置かれている境遇をあますことなく、レニングス兄妹には知る権利があると言って。
そもそもこの世界には新聞は無いし、平民に広く情勢が伝えられることもない。12年前に戦争があったことは無論、マタイは承知していたが、誰が相手なのかすら知らなかった。なるほど、そう言う事情で、と初めて知り、マタイもラケルもブランシェットの語りに頷くばかりだった。
「それでね、3月になったらすぐに、マーヤ様は王都に行くものだから」
ブランシェットも当然それに随行する。夏には帰れるかも知れないがそこはまだ分からない。最悪、次の接触は1年過ぎてからになる。
「…マーヤも養子を迎えるよう言っているね…」
ラケルが手紙から顔を上げて言った。
終りの方は箇条書きにして、なぜ養子を迎え入れた方がいいか、そのメリットが羅列してあった。ラケルは、久しぶりにくすりと笑う。
「まったくあの子らしい書き方だよ」
大人に揉まれて仕事をしていた北条真綾は、嫌なことは嫌だとはっきり言った方が後々、却って傷が小さいと理解していた。ただし、言い方、言うタイミング、言う相手には気を付けた。
『そんなのは私…できません』
そう言って、「感情的」に押し切る方法も手法として用いなくもなかったのだが、それは真綾の好みでは無かった。基本的には理詰めで説得するスタイルであり、そのためによくやったのが、箇条書きで意見を整理する、と言うことである。
そのスタイルをラケルに対しても発揮していた。
子供がいないと世間が狭くなる。マーヤはそれを指摘していただけではない。自分が本当に幸せだったこと。だからその幸せを失いたくなくて、実は魔力があることを打ち明けられなかったことを詫びていた。
マーヤが指摘したのは、ラケルとマタイの年齢ならば、後1人くらいは子供を育てられるだろう、と言うことだった。人間にとっての幸福とは、誰かのために生きることでは無いのか、と。レニングス家は富める者としての義務を果たさなければならないのではないか、と。
もはやマーヤがレニングス家を継ぐことは出来ない。
この12年、レニングス家が果たした役割は小さなことかも知れないけども、決して無視できることでもなかった。
もう、孤児院には飢えて痩せた子供たちはいない。小作たちの生活も目に見えて向上した。横暴で冷酷なレニングス家を引き継いだマタイとラケルが、優しい家に変えたのだ。
その、レニングス家を絶やしてはならない、マーヤはそう主張していた。
「責任か…そうかも知れんの。人は生きている限り務めがあるものさね」
「私はマーヤに教えられた気がしますよ、兄さん。あの子は、慣れない貴族の振る舞いをさせられて…それでも私たちやレニングス家のことを考えてくれている」
「マーヤ様から、ある子どもが養子として相応しいのではないかと聞いて来ているんだけどね」
ブランシェットの言葉に、
「ロリアンだろうさ」
「ロリアンですね」
とレニングス兄妹は声を揃えた。
「…その通りだけど、その子はよほど見どころがあるのかい?」
ブランシェットのその言葉に、ラケルは首を振った。
「10人いれば10人がとるにたらない子供だと言うと思いますよ」
「…まあ、儂の子供の時分も大概だったが、さすがにロリアンよりはましだったかの」
マタイもそう言う。
「おやおや、そんな子を推薦するなんて、マーヤ様にしては…」
「いいんですよ。マーヤの言う通りだと思いますね、私は。レニングス家を委ねるならあの子がいい」
「儂もそう思うさね」
ロリアンの人生において華々しいことなどおそらく何一つ起こることは無いだろうが、ロリアンが迎え入れられれば、レニングス家ははるか先々までまっとうな家であり続けるだろう。
翌朝、ブランシェットが帰った後、マタイとラケルは正装に身を包んで、リード家を訪問した。そして、上の兄弟に蜂蜜を盗み食いした罪をなすりつけられて、厠の掃除をしていたロリアンを指さして、リード夫人に、あの子を養子にさせていただけませんか、と申し出たのだった。
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