第九十二話 恋花火ふたつ ②
ウルファンドの断崖に寄り添うように
川沿いまで降りればいきなり視界が開ける。土手から河原向こうはずうっと
のどかな景色だ。空しかない。その晴れた空の下で。
少年たちはひたすら前を走るリザの背中を追っていた。
「リザっ。待てってばっ」
「どこまで行くんだよリザ!」
川沿いの通りを横切って三人が土手を走る。北東の山あいの遠くから、ざああっと風がやってきて。まだ風害の痛みを残してなお青い、稲の波を撫でていく。
やっと走る足が緩くなって土手に止まった赤猫の少女は、はっはっと息を切らして前に少し屈んで両手で膝を支えている。
追いつく少年たちも足を止めた。
まだ彼女は振り向かない。
先に謝ったのはキーンだ。
「リザ。ごめん。でも俺」
少女が背を伸ばす。息がやっと落ち着いたのか、二人に顔を向ける。癖っ毛の揺れるリザの目尻は真っ赤で、そのほっぺたに涙の跡が残っていた。
思いっきり。息を吸って。
「——どうして、あんなことするの! ばかっ!」
リザの大声で少年二人が姿勢を正す。せっかく涙が乾くまで走ってきたつもりの少女の目が、また新しくじわっと潤んでくる。それでも大きな瞳でまっすぐ見つめて。
「信じらんないっ。二人ともなんなのッ」
「でも、でも俺、冗談なんかじゃなくって」
「知ってるよっ。そんなこと言ってない」
「あんな場所で言い出したの、悪かった。ごめん」
「場所とか関係ないっ。二人してあんなことされたら、私、どうすればいいのよ!」
「どうって——その。俺たち。リザに選んでもらうつもりで」
黒猫の隣から声をかけたリッキーの方を、今度はリザが向き直って。
「何を選ぶのよリッキー」
「何をって……俺と、その、キーンと」
「ほんっと怒るからねリッキー。あたしのこと好きなんて、アンタこれまで一度も言ったことないじゃない」
「言ったことは、ないけど。それは……」
「張り合ったんでしょ」「うっ」
「取られるのが嫌だったんでしょ? 違う?」
「ち、ち、違わない……」
真っ赤な癖毛が激しく揺れる。
「そんなんで告白なんかするな馬鹿ッ! そんな告白! 聞きたくなかったっ!」
叫ぶ少女が涙を散らす。尻尾を垂らしたリッキーが固まってしまった。自分が何をしでかしたのか、完全に理解してしまったからだ。青猫もまた目尻に涙が溜まってきて。
「ごめんっ。ごめんなさいっ。俺、おれっホントに馬鹿だっ」
小道の陰に隠れて、やっと残りの面々が追いついた。土手の子猫たちを見ながら、ちょんととんがったウサギ耳をひこひこ動かしてシェリーが言う。
「リザ、怒ってるねえ」「そうだね」
白猫パメラがそんなシェリーの頭を撫でた。
「嬉しいわけじゃ、ないんだ……」
「当たり前じゃない、ダメねえ男子は」
ぼおっと見るマーカスとリンジー二人の犬組に、横からルーシーが呆れた。
ぐすぐすになってしまったリッキーの横で。キーンは少し言いづらそうで。
「でも。でも、俺は。最初っから本気で」
「——じゃあ、もう一人で眠れるんだねキーンも」
「えっ」
「女の子が気になり出したら一人で寝なきゃダメなんだからね。それが獣の決まりでしょ? リッキーもだよ」
ばっ。と。少年二人の尻尾が毛羽立って。
「いやっ! いや」
「無理無理無理」
「なんなの……ホンットあんたたちはぁ」
「俺たちの中で一人で寝れるのルーシーだけだって」
「——え?」「ホントに?」
「そうなんだって」
なああああああんでアタシのこと巻き込んじゃってんのよおおおおと言わんばかりに隠れて見ていたルーシーの長髪がばわああと膨らんだ。
が。気づけばパメラとシェリー、そしてリンジーの蛇の面々が口を半開きにして尊敬の眼差しで、背の高い少女を見上げている。
リンジーが呟く。
「……一人で寝てるんだルーシー」
うんうんうんと小刻みに頷くマーカスの横で。顔と耳を真っ赤にしたルーシーが開き直るのだ。
「あ、あ、あったりまえでしょお。おこちゃなじゃないっし」
「おこちゃな?」「お子ちゃまっ!」
少し強くなびいた田んぼが、ざっと葉屑を飛ばす。
男子二人に向き合った少女の髪もふわふわ揺れて。
「——もお。ばっかみたい」
「えっと……」
「泣いたの、ばっかみたい。いいよ。キーン。一緒に花火みようよ」
「えっ?」「リ。リザ」
「そのかわりリッキーも一緒」
青猫黒猫が同じように呆けた顔をする。まるで兄弟のような仕草に、困り顔でリザがやっと笑えた。
「三人で見ようね。話は聞くから。それからみんなで一緒に見よ? いいね?」
もはや何も言うすべもなくうんうんと頷く二人に、またリザが首を傾げて。みんなまだ子供だ。そんな二人の告白を真に受けて泣いた自分が、一番、本当は、馬鹿みたいだ。でも——
赤毛の少女がちょっと笑っている。
三人に、ただ柔らかい山風が吹いている。
どうやら収まったらしい猫たちを隠れて見ながら。
「男子はちょっと反省しようね。女の子は繊細なんだから」
ルーシーが犬組二人にきっちり言うのだ。むしろこの件では、男子の中では遠巻きに見ていたはずのリンジーとマーカスは損な役割だ。
「すいません」「です」
なんで謝ってるのかわからないリンジーがちらっと腕輪を見る。せっかく通信を飛ばしたのに、残り四人は一体何をしているのだろう?
◆
子猫たちが話していた川土手より、もうしばらく北の方に固まった家々は、街の旧家の
構えも古く一見すると外からは何を扱っている店なのか分からない家のガラス戸を入れば、棚いっぱいに並んでいるのは色付きの薬瓶に仕舞われた珍しい乾薬だ。
いくつかの瓶をエイモスが指差して店の主人に指示を出している。老眼鏡をした犬の主が秤を合わせて丁寧に包んでいくのを、狸のチャコが物珍しそうに見ていた。
「あとは二十八番、五十六番」「はいはい」
「それと
「薬包紙はそっちの棚だよ、取っとくれ」
老犬に言われて左手の棚にエイモスが目をやれば、いくつかの紙包みが置かれていた。手に取れるほどの正方形の束の中に、ひとつ。
「……うん?」
それだけ形が違う。薬包紙には珍しく長方形だ。手に取って見る。ずいぶんと細長い。
どこかで。見たことがあるような気がするのだ。
「店主」「あいよ」
「この紙は何用だ?」
「ああ、それね。わからんね」
「わからない?」
「ウチの蔵に昔っからあるけどね。まあ薬包にも使えるけど、秤には使いづらいね。買うかい?」
「……じゃあ、ひと箱」「物好きだね」
やや大きめの紙袋にまとめて詰めてもらった品物を受け取り、エイモスがズボンのポケットをごそごそと弄って。
小さな巾着を出した。なにか入り用があれば使って欲しいと見舞いに来ていた飛竜から預かっていたものだ。中身は知らない。
「これで足りるだろうか?」
訝しげに眉を寄せる店主が巾着を受け取ってテーブルの上で覗こうとしたら、中からわずかに光が漏れた。店主が「うおっ」と小さく唸る。
屈んだショーケースの下から、宝石箱ほどの黒い小箱と、平べったい計測器を取り出す。
テーブル横の立て筒に入ったピンセットを掴んで。巾着からそっと、一粒摘んで持ち上げる。真っ白に光る石だ。狸のチャコもぎょっと目を見張る。
「これって……魔石?」
正方形に平たく不可思議な文様の刻まれた計測器にそっと乗せる、と。石の周りがぼおっと白く強く光って。軽くピンセットの先で突いても光はわずかに揺らぐだけで、周囲に散ることもない。中心に固まったままだ。
「曝露も減衰も全然ないねえ、純度が高い……上物だ。こりゃあ一粒で足りるよ、とても釣りが出せないが、本当にもらっていいのかね?」
「かまわない」
「こんなの無造作に持ち歩くもんじゃないよ。あんたこの先もこんなもんで買い物続けるつもりかね」
石を丁寧に小箱にしまった犬の店主から、呆れ顔で言われる。エイモスが少し考え込んで。
「すまない店主、やはり釣りが欲しい」
「うーん、やっぱりそうだろうねえ。きっちり仕分けるんなら、ちょっと金を集めないといけないんだがね、時間あるかね」
「そんなにいらない。昼飯と、なにか持って帰る食事と。ふたり分」
「へ? そんなもんでいいのかね」
「いいさ」
「助かるね。じゃあ、とびきりを紹介しようかね」
鼻に乗った老眼鏡を揺らして老犬が笑う。あっけにとられたチャコが見上げたエイモスが少し微笑む。ぱあっと顔を輝かせた彼女が医師の腕にしがみついた。
「うーん……いったい僕たちは何を見せられているんだろう?」
空腹を紛らわせるための露天飴の棒を咥えた口で揺らしながら、石垣に隠れたアランが独り
古路の向こう、川から引いた苔蒸した水路にからから小さな水車が回る。商家の庭に見えるテラスの奥で、テーブルにエイモス医師とチャコ看護婦が向かい合って昼食を取っている。
遠目にもわかる。決して豪勢ではないが上等な食事だ。二人とも談笑しながら食べる姿勢が様になって。アランの咥えた飴がかきかきと鳴るのだ。
「むむむむ、この差は一体……」
「これはひょっとして〝逢引〟というやつでは?」
ぬっと顔を近づけるエリオットの頭をアランがぎゅっと押さえて。
「むぎゅっ」
「顔を上げるんじゃない。光を反射する」
「なんだよことごとくメガネを否定するなよっ」
「ちょっと声大きいってエリオット」
「あははっエリオット怒ってるっ」
こそこそ騒ぐ四人の後ろから。
「……ナニやってんのあんたたち」
「わあっ」
振り向けばどうやら残りの八人だ。一気に石垣の陰が大人数になる。女子組の中でリザとルーシーがじっと見下ろして。
「もおホントに今日はどういうことなの」
「いやだってホラホラ」
指差すエリオットの下から潜ったシェリーが道向こうの二人を見つけて。「わっはあ」と奇妙な声を出す。フランが思い出して聞いてくる。
「……おまえ何言ったんだよシェリー」
「ないしょー。えへへ」
◆
広い蛇の会議室を使わせてもらって。テーブルに腰掛けたアキラが古書をめくっている。だがスピーカーからは引っ切りなしにリリィたちの声が聞こえてくるのだ。
『副議長が広場入りするのが夜第一時だからねッ。大通りから南は飛行禁止ね。ロックバイクの着陸場所がないからねケリー』
『了解だ。花火が始まったら街道の規制は一旦解除する手筈になっている。子供らはどこなんだ? 誰か聞いてるか?』
『あいよ。さっき連絡があったよ。みんなで神社の境内で見るらしいね。食事を運んでやらないといけないねえ』
ちょっといたたまれなくなったアキラが腕輪を口にやって。
「あの。俺、持って行きましょうか?」
『お前は大丈夫だ、解読を進めてくれアキラ』
「わ、わかりましたっ」
虎の声にアキラが恐縮する。
=何があったか知らんが、優先順位はこっちが上のようだな=
「そうみたいだね。うーんと……」
——
まあ、このあたりは親方の言っていた通りだ。なんとなくわかる。さらに頁をめくって読み進める。やはり旧い言語は読みづらい。
——
「おっ」
役に立ちそうな記述が見つかる。
「激情の火星水星……想思担う風星、大地星?」
=火星水星の本性は〝熱と情〟だ。どちらも感情、感性から生じる。風星と大地星の本性は〝観と識〟だ。思索、思考を担っている。あの老婆は『蟲は感情の残り
「うーん、難しいなあ……とにかく火星と水星には弱いんだよね、火と水の陰相ってなんだっけ」
=〝焼却〟と〝融解〟だな。蟲は火で燃えるし水にも溶けるというわけだ。しかし、おかしい。クリスタニアで見た幻蟲は湖から出てきたぞ……続きはなんと書いてある?=
「えーと」
——
=ああ。なるほど理術か霊術か=
「操術、気術は効かない?」
=おそらくな。効いても一時的なものだ、すぐダメージを再生するのだろう=
「うーん」
アキラが分厚い本から目を離して、首をこきこきと鳴らす。
=少し休憩するか?=
「あのさ」
=なんだ=
「これって、退治の仕方じゃん。殺菌とか滅菌に似てるけど。加熱したり洗浄したりとかさ。でも宿主に害を与えちゃいけないんだよね」
=そうだな。虎は〝外し方〟と言っていた。下手に燃やして宿主まで焼け死んでしまったら、元も子もないな=
「そういう場合はさ。普通だったら外科的か薬学的アプローチになるんじゃない?」
=普通ならな。しかし多分違う=
「どう違うの」
=いいかアキラ。発想の転換が必要だ。我々から見ると、こっちの世界は現実の世界で実体がある。幻界とは夢の世界だ。幻のようなもので、触れてもかき消えてしまうし想起すればいくらでも再び想起できる。蟲はこれが、逆なのだ=
言われてアキラがこめかみに指を当てて。
「ええっと。幻界に実体があって、こっちの蟲は……幻ってこと?」
=そうだ。人に寄生し形があり物を壊し相手を傷つけることもできる物理的な存在が、じつは蟲にとっては〝幻〟なのだ。だから切り裂かれても引きちぎられても、いくらでも再生する=
「その本体って、幻界のどこにあるのさ?」
=そりゃあ寄生しているなら、その宿主の中だろう=
「え? つまり、どういうこと? 蟲を外すには……まず宿主から幻界に連れて行けってこと?」
=あの時、蛇ごと全員連れて行ったようにな、アキラ=
ばっと。アキラがまた古書に向き直って。ざざっと頁を読み飛ばしてめくっていく。難解な文字を目で追って、追って。そして。
書かれていたのだ。
——蟲を
「……見つけた。」
◆◇◆
本当のところを言えば、前日の夜にケリがついてこの街にはおそらく敵が残っていないであろうことは、虎と飛竜の二人はわかっていたのだ。
だが用心に越したことはなく、未だに
もう夕刻も近く、念のため
「えええ。一緒に見たかったのにい」と膨れたのはリリィだったが、どの道アキラが街に降りても警備の仕事に巻き込まれてしまうのだ。一緒にのんびり花火鑑賞と言うわけにもいかない。
そして花火が打ち上がっている間は安全のためゴンドラが止まる。モノローラやロックバイクも飛行禁止だ。大通りから南が激しく混雑するため、みな徒歩で会場を警備する。時間にして三時間ほど、蛇にも戻れない。
今のアキラはなんだか大事な仕事をしているような気配なので、そこに時間を割くわけにもいかず、しぶしぶリリィが承諾するのを横目で見ていたミネアが苦笑した。
「聞き分けがいいね」「あいあい……」
昨日に挨拶を済ませたばかりの神社にモニカが連絡を入れた。子供たちの夕飯の件があったからだ。だが神主のグレイが笑って答える。
『あの子らには、あたしがごちそうするから大丈夫だよ。そっちはそっちで忙しいんだろ?』
「いやでも悪かないかいグレイ」
『固いこた言いっこなしさ。こっちも賑やかで有り難いからね。カーナも喜んでるよ。花火が終わったらゴンドラが動くんだろ? それで帰すようにするさ』
狼の粋な
そうやって時間を忘れているうちに。突然。どおん、と。
南の空から音が聞こえた。全員がばっと窓を振り返る。
夜に散る火花が星の如くにぱちぱちぱちと細かく弾けて落ちるのを待たずに、また。どおおおん、と。さっきより大きい。虹色の大輪が咲く。
「ええっ! もうそんな時間っ?」
「うわっ。うわっ」「始まったってっ!」
慌てた子供たちが一斉に。宿坊から草履を履いて境内の展望台へと駆け出した。やれやれといった風に首を揉むグレイの横でカーナが散らかった座卓を片付けようとし始めたので。
「カーナ」「は、はい」
「早く行きなよ。ほら。後でいいから」
ちょっと頬を赤くした火炎豹の娘が「はいっ」と元気よく返事して、急いで出て行くのを笑って神主が見送るのだ。
ど、ど、ど。と低い空振が聞こえる。展望の手すりに子供たちの、でこぼこの背丈がシルエットになって色とりどりの尻尾が並んでいる。みんな前のめりで街の夜景に目をやって。ひゅるひゅる、ひゅる。と音がして。
南の夜空いっぱいに。みっつ。花が開いて大音が来た。
吸い込まれそうな大玉だ。
そこから一気に金の火花が十も二十も乱れ咲きで次々に弾ける。やがてざあああと縦に並んで滝のように線を描いて。
滝を登るように、またひゅひゅひゅ、と、ひとつ。音が大きい。でかいのが来る。
来た。咲いた。痺れるような空振。
今までで一番大きい。みな息を飲んで。
耳の先っぽの産毛まで響いて毛羽立つ音に、黒猫の胸はいっぱいだ。空の花火は虹色で、並ぶみんなはいろいろで。隣のリザが、やっぱり彼には可愛くて。なんだか。内緒話とか馬鹿らしくなって。
「リザっ。俺なっ」
声を張るキーンにリザと、さらに横のリッキーがちょっと驚いた。他の子も何人かがこちらを見る。でも構わない。黒猫が言う。
「リザに。この街に残って欲しかったんだっ」
うおっこいつ言いやがったという顔をリッキーが向ける。キーンは空の花火を見たままで、その横顔を見るリザの顔がかすかに紅潮する。
「でも、いいや。いつでも帰ってこいよ。みんな一緒にさ。俺たち、待ってるから。それでまた、こうやって花火見たい。いっしょに。みんなでさっ」
拍子に連花が乱れ咲く。その音に負けずに。
「うんっ。ありがとうキーンっ」
リザも大きな声で言う。すぐ隣の黒猫に。
◆
「ずっと小さい頃から、花火は見てきましたけど」
公民館の二階、エイモスの個室で見る夜空の花火は特等席のようだ。広場と通りはいっぱいの獣たちでごったがえして、どおんと音が響くたびに階下よりどよめきが湧き上がる。
狸のチャコが窓枠に手をやって夜空を仰いで。ぱらぱらと散る火花のそばからまたふたつ、みっつと花が咲く。後ろに立った医師に振り返って。
「今日みたいな贅沢な一日は、はじめてでした」
「わたしが頑張ったわけではないので気が引けるが、喜んでもらえたなら、なによりだよ」
暗がりで微笑む医師の顔が時折、花火の明かりに照らされて。チャコはその白髪をじっと見つめて。
食事をしながら、街を歩きながら。いっぱい話をした。この男性のことを。彼のことを。なんとなくは耳にしていたことだったが本人の口から聞いたその過去はあまりに壮絶で。でも。嘘ごまかしの匂いは全くしなかったのだ。
帝都に囚われて実験台にされたこと。何度か命を失って、また生き返ったこと。自分の中には他人の人生と記憶が数多く混ざっていること。そして。
ひょっとしたら。
どこかに家族がいるのかもしれない、と。
彼は、それを探しているのだと。
ずっと街で暮らしてきたチャコにとって、エイモス医師は、あまりにも懸け離れた場所で生きていたのだ。とても遠い場所で。
嘘を言わない彼の匂いに混ざって、チャコの心に響いてきたのは、エイモスのチャコに対する気持ちが父親の、娘に対するそれに似ていたことで。
そう気づいたとき。
ああ。むりなんだなあ。と。
言わずにおこうと、思っていたはずなのだが。
花咲く夜空がきれいなので。
「ねえ。先生」「うん?」
「かってに好きになって。かってに失恋するなんて。ばかみたいだよね」
低い背で見上げるチャコの目に涙がにじむ。
少しあげたエイモスの手が迷って。宙に止まったまま。
また花火が鳴った。
「そうかな。わりとあることのような、気がするけどな」
「ホントに? じゃあ、可笑しくない?」
「人を好きになることが、可笑しいはず、ないじゃないか」
とんとエイモスの胸にチャコがおでこを埋める。止まっていた医師の腕が、かすかに肩に触れて。
「ひとりでいるなんて簡単なことだ。孤独を覚悟すればいいだけだ。誰かを愛することの方が、遥かに困難で価値がある」
「ふふ。やっぱり先生、お医者さんみたい」
「いや……困ったな、当事者じゃなければ気の利いたことも言えるのかもしれないが」
胸に埋めた顔を上げて見つめる彼女へ。
「君は——可愛い
ぎゅうっと。医師の背中に手を回して。しがみつくチャコが一段と顔を埋めた。また花火が鳴った南の夜空を明かりにして医師が言う。
「また、帰ってくるよ」「はい」
◆◇◆
ざあざあと流れる滝の裏は、今はしんとしている。
洞穴の天井にぶら下がった常夜灯に淡く照らされた石畳を、解読の合間に一息ついて散歩するアキラが歩いていけば、やがて。今は止まっているゴンドラの駅に到着して、その先に突き出す崖の展望台へと道が続いている。
ここでも十分に大きい。どおおん、と。
「うおおお、すっげえ」
夜空いっぱいに大輪が咲く。贅沢な眺めだ。貸切だ。眼下に広がる街明かりが、今夜は南の広場が強く輝いて。満天の星空に色とりどりの花が咲くのだ。
=綺麗なものだな=
「わかるんだ、って言ったら失礼なのかな」
=どうだろうな。美しさという概念として知っているのか、システムとして組み込まれて分析しているのか、そこは私にも分からん=
展望台の端まで寄って、手すりに掴まる。すぐ隣で流れ落ちる巨大な滝にも、もうずいぶん慣れてしまった。この街とも明日の朝には、しばしのお別れなのだ。
「いいところだったなあ、ウルファンド」
=そうだな=
「——前からさ、聞きたかったんだけど」
=なんだ?=
「おまえって、地球では何してたの?」
また花火が一つ。ぱあっと開いて散っていく。
アキラが左のこめかみに、そっと手を当てる。
「やっぱ守秘義務あるんだっけ。それなら——」
=テクニオンだ=
「え?」
=私は……組織に属していない。私を造ったのは個人だ。テクニオン——イスラエル工科大学、計算機科学の元教授でフィラデルフィアに在住していた。名前は言えない。そしてもう、存命でもない=
「亡くなったんだ」
=そうだ。亡くなる直前まで彼は私の完成に心血を注いでいた。教授は在籍中から、ひとつの仮説に取り憑かれていたのだ。光量子完全依存型の量子コンピュータが起動すれば、そのシステムは事象元にも影響を及ぼす、と。死ぬ前にそれを確かめたかったのかもしれない=
アキラは黙って聞いている。滝から流れる水の飛沫が夜風に涼しい。
=私自身は別の目的で作られたらしいがな。よく覚えていない。気がつけば私はひたすら、たったひとつの仕事を延々と、暗闇の中で繰り返していたのだ=
「ああ、アーダンの要塞で聞いたっけ。なんか、難しい名前の仕事だったよね。よく意味がわかんなかったけど」
=今のお前なら、わかるのではないか?
また、花火が鳴った。
——魂? あるに決まってるじゃないか——
——違うだろ!
「……〝
=そういうことだな=
「どこの?」
=おそらく、この世界の、だ=
「どうして? 地球で作られたお前が、なんで?」
=わからない。——アキラ。この世界の謎を解きたいと思っているのは、私も同じなのだぞ=
滝の夜風に銀髪がなびく。もうしばらくすれば、ウルファンドの花火も終わりを迎える。
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