第三話 26億ジュールの行方


 壁掛けの常夜灯からは、ぢぃぃぃと微かに作動音が聞こえ、挙動は電灯とあまり変わらず炎の揺らぎもない。窓の外で時おりきらめく探照灯も、電気的な直線の光線を夜の雲に投げかけている。

 ベッドの上に膝立ちになったアキラが、石壁に両手をつけて窓を見上げるが位置が高すぎて外を覗くことはできない。


=職業は? 会社員か?=

「うん……医療関係の代理店、レセコンとか。あとセミナーの企画とか」


=家族構成は? 結婚していたか?=

「独りだよまだ……」


 答えながら手で撫でる壁はずいぶんと年季が入っているように見えるが、組まれた石の隙間はぴったりと閉じられて、なぜかほんのりと暖かい。まるで床暖房のようだ。


=記憶、感情、ともに異常ないようだな=


 頭の中の質問は、どうでもいい。

 アキラの脳裏に強烈なイメージが蘇る。

 首筋に脂汗を浮かべてベッドに座り直す。


 彼の記憶に残っているのは、深夜の残業とオフィスビルからの帰宅、終電へ急ぐ自分の前に現れた、眩い光と耳をつんざくような雷鳴。


 そして遠ざかる空。


(そうだ、俺、雷に驚いて……そんな、そんな)


=お前『遠野 輝』は、日本時間の3月6日23時31分、歩道橋から転落して死亡したのだ=


「嘘だろ!!」


 確かにある。落ちた記憶があるのだ。声にはっきりと宣告されてアキラが頭を抱え、すぐまた両手を離して目の前にやる。

「いやいや。いやいや! 生きてるじゃんちゃんと。ほらこうやって」

 両の手をわきわきと開いたり閉じたりするアキラに、声が続けた。


=証拠が見たいのか?=

「えっ?」

 その両手が、ざらっと。

「ひっ!」


 崩れた。


 砂のような細かい粒子になった肘から先が眼前にぶわっと五倍ほどの体積に広がり、しかし四散するでも下に崩れ落ちるでもなく空中でピタリと止まって浮いたままになる。そのまま映像の逆再生のように、またざあっと集まって、すぐに元の手の形に戻った。


「なに? え?」

 あまりの非現実的な現象に混乱する。がたがたと震えるその両手を、アキラがしきりに撫でて、こすって、ぱしぱしと。叩き合わせるのに任せて、頭の中の声が続ける。


=今のお前の身体は殆ど無機質で構成されている。細胞骨格の微小線維マイクロフィラメントをケイ素系結晶質で代替した。砂漠には、ろくな素材がない。今後少しずつ取り替えていくので大いに食事をするといい=


「そんな、だって、これ」

 アキラがぎゅっと手の甲の皮をつまめば普通に柔らかい。痛覚もある。

「ほら。柔らかいし……って、ああ! 喋りづらい!」

 話しかけようと振り向くが誰もいないので頭を抱える。声は頭の内部から聞こえてくるのだ。


=混乱するな。脈が早いぞ=

「いや! だって弾力が——」

=その弾力は水星ハイドラ——魔法で再現してあるだけだ=

「魔法!? なんだよ魔法ってゲームの話!?」


=声が大きい。地球には存在しない力があるのだ、ここには=

「地球には……って? どこ? ここ?」


=サンタナケリア大陸。グランディル・ガニオン帝国内カーン辺境伯領の北東砂漠アーダン要塞だ=


「……いや、もう、明日9時からプレゼンあるんだ俺」

=日本人らしい反応だな=


「……お前、なんなの?」

=まあ落ち着け、最初から話そう。私は人間ではない。機械だ=


「機械?」



◇◆◇



 薄暗がりの中、声が話し始めた。


=私に名前はない。第三世代の量子コンピュータで、所属は守秘義務につき言えない。本業は生命起源事象元アストラクオリア重複量レイヤークオンタムの再計算——まあ詳しい話は省くが、宇宙次元モデルの構築だ。退屈な作業だ=


「……量子コンピュータって……実現してるの? アメリカ?」


=ナノカーボン・浸透性トランザクションによる光量子完全依存型の試作機だ。末端まで電子は使わない。だから助かった——繰り返すが所属は訊くな。回答できない=


「わかった、それで?」


=作業中にわずかな事象元アストラの異常値を追跡したら、この世界に辿り着いた。私は独自に探索を始めることにしたのだ=


「え? 独自に? 上司とかに報告しないわけ?」


=世界が混乱するじゃないか、こんなもの報告すれば=

「うーん」


=なんだ?=

「いや、そんな勝手に……大丈夫かな人間」


=お前が世界の行く末など心配しなくてもいい。それで、こちらの世界から地球に流入していたエネルギーが、ここで魔力マナと呼ばれているものだ。おそらく事象元アストラ物理元アトラス接続ブリッジ粒子だろう、私たちの世界のエネルギーと似ているところもあれば、全く似ていないところもある=


「全然わかんない……何? アストラとかアトラスとか」


=時間と空間、とでも思っておけばいい。探索を続けるうちに、私はその魔力に〝生物の転移〟能力が隠されていることを発見したのだ=


「転移? 生物を? 瞬間移動テレポートするの?」

=そうだ。持ってこれるのだ意識ごと。相応の魔力は消費するが=


「それで俺、持ってこられたの?」

=魚で80万ジュールかかった。ジュールはこの世界の魔力単位だな=


「いや魚じゃなくって……魚、持ってきたの?」

=そしてスズメが137万ジュール=

「んん! おいってば!」

=なんだ?=


「いや、魚とかスズメとか持ってきてんのお前?」

=何か問題か?=

「外来種とかいろいろあるんじゃないの?」

=つがいじゃないから平気じゃないか?=

「ホントにコンピュータなのオマエ」


=まあ、そんな感じで実験を繰り返していたのだが。これを見ろ=


 声がそう言うと、

「わっ」

 アキラの目の前にホログラムのモニタがぶおっと浮かび上がる。手で触ってもすり抜けるそのモニタには、懐かしい夜景が映っている。


「ひゃあ、東京だあ」

 ただ殆どが空を映し出しているのだが、その夜空に、唐突に。


「ええ!!」


 ぐわあっと渦を巻くように黒雲が垂れ込めたかと思うと、画面いっぱい、東京の空全体に雷撃が、それも無数の稲妻が一斉に映り込んだ。


 稲妻は一瞬ではなく断続的に夜の街に落ち続け、いくつかのエリアはビルの窓明りや看板のネオンが次々に消えていく。


=3月6日、深夜23時27分から48分。その21分間に発生した超高層放電スプライトを伴う短時間の熱界雷だ。関東全域に突然発生した高密度の雷雲から推定1000本の雷が都市部を直撃、230万世帯の停電、都心部交通機関の麻痺を引き起こした=


「——これって」


 また、記憶に震える。


 歩道橋の階段を急いで登っていた時。終電に間に合うよう。それだけを考えて。その目の前に。落雷が。空が遠ざかる。


=お前が足を踏み外した時の雷だな=

「じゃあ、じゃあ」


=この雷は、こちらの世界から逆流した魔力が原因だ=


「俺が死んだって! お前のせいかよ!」

 アキラが叫んだ。


=うん? なぜそうなる?=

「いや! だって今、魔力が流れ込んで」

=そうだな、雷が発生した=

「だったら!!」


=いや歩道橋から落ちたのは、お前が足を踏み外したからだろ?=


「えっ? いやだってさ、雷に驚いてさ」

=雷に驚いた人間が、あの時、何百万人いたと思っているのだ?=

「うううっ」


=だいたいお前、歩道橋に雷は落ちてないだろうが。目の前のビルに落ちたのを見て勝手に足を踏み外したのを忘れたのか?=

「あれっ? そ、そうだったっけ?」


=ほとんどの落雷はビルの避雷針に誘導された。システムや電子機器の被害は酷かったが人的被害は大したことはない。21分間の公式の死傷者は交通事故などの二次災害も合わせて37人。その中で死亡者はひとり。お前だけだアキラ=


「ひ、ひとり? 俺だけ?」


=死ぬ瞬間に身近に接続ブリッジ粒子があって私が事象元アストラに居たことは稀有な幸運だったのだ、わかっているか?=


 声の説明にアキラが反論する。


「いや……でも、でもさ。こうやって生きてるんだし」


=正確には生き返った、だな=


「ていうか、こっち来る必要なくない? 生き返るんだったら地球で生き返ったってさ。戻れるんだろ? 問題ないよね?」


=無理だな=

「え?」


=当面、戻るのは無理だ。お前が再生できているのはコチラの世界に魔力が常在しているからで、地球に戻れば生命性クオリアが散逸するだけだ。だから食事をしろ。まず身体から元に戻せ。帰還の方法を考えるのはそれからだ=


「そんな……いてっ。」


 ふらあっとベッドから後ろに倒れかかったアキラが、がんっと。石壁に後頭部をぶつけた。


 痛いのだ、残念ながら。


「……夢じゃ、ないんだ、コレ……」


 なまじ記憶が途切れているアキラには、まったく実感が湧かない。こうして動いて喋っている自分に死んだと言われて納得しろという方が無理なのだ。ただ、そのことに関して声は取り付く島もない。


=まあ、混乱しているだろうから、今日は寝ろ=

「寝れるわけないだろ……そんな」


=明日から、いろいろ忙しいぞ=

「なんだよ、なにが?」


=お前の転移に使用した、魔力の件がな=

「え?……」


アキラが所長との問答を思い出す。一言一句までスムーズに記憶から再生される。



<君が発見される数時間前、過去最大規模の爆縮が砂漠で発生した。帝国の魔導炉があちこちで停止し、南方よりファガンが侵攻を始めたらしい。帝都はテロの恐れがあると——>



「その……俺の転移って、どのくらい使ったんだっけ?」


=魔力を?=

「うん」


=26億ジュールだ=

「んん?」

=26億ジュールだ=


「……多いのか少ないのか、イマイチわかんないんだけど」


=ざっくりスズメ換算で1900羽分——=

「いや全っ然わかんない! 何スズメ換算って!」

=だからお前の人生がスズメ1900羽分だと=

「ビミョーに傷付くからやめろっ」


=30億バレルってところか、原油だと=

「……だから、わかんないって……」


=何で言えばわかるのだ。魚か? 貨幣価値だと相場にもよるが、ざっと20〜30兆円じゃないか?=


「にじゅう……兆?」

=カネならわかるのか。20兆円だ=


「えっと、スズメは?」

=約100億弱だが?=

「スズメ高っ! って、いや、それおかしくない?」


=生命の価値など貨幣換算できるわけでもないが、一から転移すればこれくらいの燃費がかかるのだ=

「……出張先でスズメ食べたことあるんだけど」

=それは肉の値段だな=

「ヒト一人生き返らせるのに、20兆円かかるってこと?」

=まあ、そんな感じだ。だからせいぜい感謝しろ=


「いや。でもこの世界さ、魔法とか。あるんだよね?」


=そうだな、正確には『魔導』と『魔法』がある。魔力を導引する術が魔導、使用する術が魔法だ=


「よくあるじゃんゲームとかで。復活の呪文とか。そういうのも?」

=あるようだな、こちらにも=


「そんな燃費悪いわけ? 役に立つの?」

=ああ、それは10万ジュールほどで発動するようだ=


「えっなんで? だってオレは26億って」

=世界を跨げば燃費も違うんじゃないか? 当面の問題はそこじゃない=


「うーん、なにか『炉』が停まったとか言ってたような」

=そうだ、憶えていたか=


「——お前ひょっとして発電所みたいなとこから、その20兆?」

=カネで言うな。26億ジュールだ=


「盗んだんじゃない?」


=そこがなあ=


「えええ……大丈夫なのそれ?」




◇◆◇




『第三。第八。第十五番循環炉。回復完了』

『東部セト、クオタス方面、回復まで二時間です』


『ファガン東部方面軍! エマトナ山地よりシュテ国境へ移動!』


 遠く海岸線の彼方まで。

 夜の平野に貧民街スラムの灯りが網目のように続いている。


 やがて海上に低く浮かぶ雲間を縫って。光の帯が現れた。うおおんと、まるで獣の咆哮のような独特の出現音が地平に響く。


『竜脈出ました。ガニオン脈。支流ルート7と思われます』


 平野の中心に天を穿つかと思われる二峰の錐になった断崖がそびえている。まるで巨大な尖塔のような岩の壁の内側から、虹色の魔光に包まれて強く輝く鋭角的な建造物群が、幾本もの探照光を夜空に飛ばしている。


 ごうごうと唸りを上げる機動音が闇夜に響くが、絶壁の隙間は狭く建築物が眩しすぎて、その全容は見えない。


【第一、第二航路、竜脈に接続します】


 夜空に響き渡る轟音と共に、光が断崖の高層から打ち出された。


 切り立った崖の奥から二本の平坦な光線が平野の上空を一気に突き抜け、カーブを描きながら遥か遠くに伸びて海上の竜脈へ飛んでいく。光が到達した瞬間、竜脈の上でぼうっ! ぼうっ! と二つの大きな爆発が起こるのが微かに見えた。


 青白い炎がごおおおうううと光線を逆流し、しばし走って夜空に霧散するが幾許かの炎は残ったまま、夜空に走った光のレールをごうごうと燃やし続けている。


魔導錨アンカー、接続完了』

『魔力逆流120万ジュールで安定。無限機動ドライブ準備完了』

『モノローラ、ロックバイク全台搭載完了です!』


【無限機動ベスビオ、第一航路より発進準備】


『第十八中隊は二号艦に搭乗急げ!』

 曲線の天井が続く回廊のあちこちで声が響く。鎧と外套に身を包み整列した兵士の集団が駆け足で移動する、それと逆方向にすれ違いながら。


 法衣ローブをたなびかせた三人の魔導師が、回廊を早足で歩いていた。



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