六幕ニ(完)


「そんな……! 父はそのような野蛮な人ではありません!」


 青い顔をしながらいきり立つ雪樹を前にしても、真百合は動じず、静かに言った。


「もちろん、そうでしょう。あたしも、芭蕉様は聡明なおかただと、聞いていますよ。ですが、ご自分の娘を人質に取られたのです。黙ってはいられないでしょう」

「だからって、蓮様に手をかけようなんて……!」

「雪樹さん。あなたは、男親にとって娘が、どれほど大切なものかを知らない。例え温厚な芭蕉様でも、何を犠牲にしてでも、あなたを取り戻そうとなさるでしょう」

「……!」


 雪樹は自らの愚かさを悔いた。

 蓮への恋に浮かれて、実家をあまりにないがしろにしてしまった。自分だって、ある日突然家族が何の知らせもなく、どこぞへ監禁されたと聞いたならば、心配のあまり居ても立ってもいられなくなっただろうに。


 ――私は何よりも先に自身の無事を家族に知らせるべく、努めるべきだったのだ。


 どこかに、このまま家族から逃げてしまえれば楽だという気持ちがあったのだろう。特に最近は、積極的に羽村家に連絡を取ろうとは、思わなくなっていた。


「私のせいです……!」

「そもそもは蓮坊が、あなたにひどいことをしたのがいけないの。あなたが気に病むことはありません。――さて、蓮坊からは、あなたをここから無事連れ出すよう、頼まれています。一部の人間だけが知る抜け道がありますから、そこから外へ出ましょう」


 老医師がちらりと目をやった、その先のふすまが静かに開く。そこには鎧を纏った衛兵が二人、険しい顔をして立っていた。


「この者たちが護衛をしますから、お早く。荷物は邪魔になるから、最小限……」


 言いかけて、老女はふっと笑った。


「――あなたは、蓮の貢ぎ物を、片っ端から突っ返したのだったわね」


 蓮と親しいはずの彼女が、この非常事態に、どうして普段どおりでいられるのか。不思議に思いつつ、雪樹は立ち上がった。


「私、宮殿に行って、父を止めます!」


 今にも飛び出して行きそうな雪樹を、真百合は座ったまま諌めた。


「いえいえ、行ってはダメですよ。危ないからね」

「先生! 何を言っているのですか! このままじゃ、大変なことになってしまいます! 私が行って、心配をかけたことを詫びれば、父たちも分かってくれるはずです!」

「ですから、それをしてはいけないというのが、蓮坊の命令なの。今回のことは、全てあの子の望むところなのよ。芭蕉様は、娘を囮に呼び寄せられたのと同じ……」


 どんどん激高していく雪樹と対照的に、老医師は冷静なままだ。雪樹の頭の中で、なにかが繋がり始める。


「ちょっと待ってください……。それじゃ、蓮様が私を家へ帰さなかったのは、父をここへ呼ぶためだったってことですか……!?」


 真百合は答える代わりに、雪樹の目をじっと見据えた。――つまり、そういうことだ。

 怒りよりも疑問が、雪樹の頭の中で明滅し始める。

 先ほど医師が言ったとおり、娘を助けるためならば、父親は誰を害そうとも厭わない。蓮はそういった親子の愛を、利用したのか?

 そんな卑怯な真似を、何のために?

 雪樹の心臓は、痛いほど激しく鳴った。


「蓮様は……私の父に、ご自分を殺させるために、私をここへ閉じ込めたのですか……?」


 答えを、聞きたくない。しかし真百合は無情にも、シワの寄った口を再び開いた。


「この霧椿皇国の主君たる皇を排除し、その後処理までも完璧にこなすことができるのは、政の頂点に立ち、全ての権力を掌握なさった羽村 芭蕉様のみ。ですから……」

「蓮様は……やはり、そんなことのために、私を……!」


 事実に打ちのめされて、だが雪樹はすぐに正気に戻った。

 ぼんやりしている場合ではない。このままでは、大切なものを失ってしまう。

 瞳に光を戻した雪樹の手を、老医師は掴んだ。


「――行ってはなりません」

「離してください! このままじゃ、蓮様が……!」


 雪樹は振り払おうと藻掻くが、真百合の手は決して離れなかった。枯れ木のように細い老女の腕は、しかし若者よりもずっと力が強い。


「あなたは二度と皇の前に、姿を現してはならぬ、と。これは澄花志乃香蓮皇の勅命でございます」


 医師の話し方が改まったことで、雪樹は危機感を募らせた。

 これは、冗談でも嘘でもない。

 本当に、本当のこと。


「蓮坊はあなたに、最期のときを――あなたの父君に斬られる自分を、見せたくないのでしょう」


 老女はポツリと言うと、雪樹を掴んでいた手をそっと引っ込めた。

 さいご。

 雪樹の眼前に、真っ黒な闇が落ちてくる。

 蓮が死ぬ。しかもそれは、彼が望んだことなのだ。

 だが、どうして? なぜ蓮は、自身の命を手放そうとしているのだろう。

 前に聞いた、寂しそうなつぶやきが、ふと耳に蘇った。


『時々俺は、何のために生まれてきたのかと、思うことがある』


 ――そんなに、あなたの絶望は深かったの?


 いつも何かに怒っていた蓮。そのくせ全てを諦めたように、彼は日々を淡々と送っていた。


 ――私はあの人が何を考えているのか、その内側に何を抱えていたのか、何も理解していない。


 それなのに后だ何だと浮かれて、なんと馬鹿だったんだろう。

 雪樹がすっかりうなだれてしまうと、今まで真百合医師の隣でなりゆきを見守っていた珀桜皇太后が、勢い良く身を乗り出した。


「雪樹さん! どうか、どうか、お父上に、芭蕉様に、お取り成しをお願い致します! わたくしの身の安全と、今後の生活について……! 贅沢は言いませんから! わたくしは、あなたをお返しするように、再三、蓮に言っていたのです。ですが、あの子は聞く耳を持たなくて……!」


 保身を願い出る皇太后は、歳相応の平凡な女に見えた。真百合は、隣で喚き続ける皇太后を、冷たく見守っている。


「蓮坊はこの人、皇太后のこともあなたに託す、と。申し訳ないけど、お願いね」


 珀桜皇太后の必死な態度が、場の雰囲気を一気に白けさせた。息子が「自殺」しようとしているというのに、徹底して自分のことしか考えていない彼女は、いっそ清々しい。

 ふっと緩んだ空気を読んだのか、控えていた衛兵が、遠慮がちに真百合に声をかけた。


「清田先生、そろそろ……」

「ああ、そうね。お待たせしてごめんなさい。さあ、行きましょう。雪樹さん、蓮から受け取ったものは、それだけなのよね?」


 老医師は、雪樹の頭上で輝く金色の髪飾りを指した。その瞬間、雪樹の中で閃くものがあった。


「あの……。もしかして蓮様が執拗に、私に高価なものをくださろうとしたのは、この日のためですか……?」


 真百合は頷いた。


「宝飾品ならば嵩張らず、逃げるときに身に着けて、運び出せるから……。皇が討たれれば、皇宮がどうなってしまうか分からないでしょう? いくらあなたのお父上がついているといっても、細部までは目が届かないかもしれない。だから蓮坊は、略奪や暴行が起きたときのことを想定して、女は逃がし、宝物はできるだけ安全な場所へ……。それも限りがあるけれど。装飾品について蓮坊は、『賊にくれてやるくらいならば、雪にもらって欲しい』と、そう言っていました。お金に換えれば、あなたの夢を叶える手助けにもなるだろうから、と……」


 頭がグラグラと揺れる。

 もうそんな前から、雪樹には何も言わず、決めていたというのか。

 死ぬことを、選んでいたというのか。


「れ、れ、れ……」

「雪樹さん?」


 まともに言葉が喋れなくなり、ぶるぶると震え出した雪樹を心配し、真百合が声をかけた。

 直後、雪樹は雄叫びを上げた。


「蓮様の、勝手なことばかりして、人を傷つけておいて、それでも金目のものを握らせれば許してくれるだろうって、その根性が許せない! 人のこと利用しまくるって、どういうことですか!」


 蓮がそんな人間ではないのは分かっている。それでもそう思わなければ――怒りの炎に薪を焚べ、心を燃やさなければ、前へ進めない。


 ――絶対に、謝らせてやる!


「私は、蓮様のところへ、行きます! 行くと言ったら、行く! 勅命だかなんだか知らないけど、私の行動に命令はさせません!」


 雪樹と外へ続くふすまとの間を塞ぐようにして、真百合は立った。老人とは思えないほど、素早い身のこなしである。


「あなた、行ってどうするの? あの子は自分の人生の結末を、もう決めてしまった。それを遮ることがいいとは思えませんよ。終生、恨まれるでしょう」


 自死を肯定するなんて、人の命を守る医者の言葉とは到底思えない。違和感を抱きながら、雪樹は感情のまま答えた。


「蓮様は、まだたった十八歳なんですよ! これからいいことだってあるかもしれないのに、死んじゃうなんて!」


 雪樹が自分の気持ちをぶつけても、対する真百合は冷徹に打ち返してくる。


「そうです、あの子はまだ十八。これから先もずっとずっと、皇として生きていかなければならないの。あの子がそれを嫌だ、やめたいと願うなら、そうしてあげるのが彼のためなんじゃないかしら」

「~~~そんなの、私が嫌なんです!」

「勝手ですよ。そのわがままを通す代わりに、あなたはあの子に何をしてあげられるの?」


 妙に挑戦的に問い質してくる老女に負けじと、雪樹は声を張った。


「私を、あげます!」


 売り言葉に買い言葉。

 思わず口を突いた、だがずっと探していた答えは、きっとこれなのだろう。


「私は蓮様の側にいる! ずっと一緒にいる! あの人に、私の全てをあげる! その代わり、あの人の命も人生も、私が全部貰います! 全部です! だから、死なせません!」

「……!」


 真百合の腕が伸び、再び雪樹の手を掴んだ。今度は戒めるのではなく、雪樹のそれを両手で包む。老女の落ち窪んだ小さな目からは、涙がこぼれ落ちた。


「お願いします、雪樹さん……。あの子をどうか救ってやってください……」

「………………」


 雪樹は黙って、真百合の手を握り返した。



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